神奈川県に住みながら日本の三大あだ討ちおよび鎌倉幕府の創生に大いに関わった曽我物語を全く知らないのもどうかと思い曽我物語りをしらべることにした。
調べれば調べるほど韓流ドラマにも似た複雑さが垣間見えてきた。
今回はそんな面白い曽我物語の人物相関図を見ながら解説します。
曽我物語
浄瑠璃やら歌舞伎などで有名なのですがいわゆるあだ討ち劇です。
この話が庶民に広がった経緯からお話します。
事件が起きた当時、幕府は何らかの理由があり事件をひた隠しにしました。当時の正式歴史書、吾妻鏡には多少の記載があるもののあまり重要な出来事として記載されてないようです、
ところが事件当事者曽我祐成の当時の彼女、(遊女)虎女がそれを口頭で周囲に言いふらしたのがこの話が広まった経緯とのことです。
庶民は人づてに伝わる話が大好きです。元もとの庶民文化である歌舞伎などがその題材を取り上げるようになるのはごく自然のことだったのでしょう。
さてでは本題です。
<曽我物語 序章>
曽我物語りは曽我兄弟が親の仇をとるという単純な物語です。それだけなのですがその本質はとても深いのです。
物語のスタートは曽我兄弟から四代前にさかのぼります。
当時伊豆の伊東に権力を誇っていた豪族、工藤祐隆という武士がいたのですがその妻には連れ子がいたのです。
祐隆には子が別にいましたがその連れ子のほうに家督を継がせ伊東荘を連れ子の祐継に河津荘を実子の祐家に継がせました。
代が変わり祐家の子、祐親は祐継の後見人(父の遺言による)の立場になっており自分の娘、万劫御前を祐継の子、祐経に嫁がせるまでになっています。
しかしその腹の中では不満が鬱積していました。祐経が上京しているおり、祐親は伊東荘を横取りし、娘、万劫御前を奪い土肥遠平に嫁がせてしまいます。
この伊東祐親は中々の曲者でその頃、平清盛の信頼を受け、平治の乱に失敗して伊豆に流されてきた源頼朝の監視を任されているのですが、彼が京都に赴いている最中に三女の八重姫を頼朝に手篭めにされてしまっています。
それで生まれた子(孫)である千鶴丸を殺害してしまうのです。もちろん平清盛の目を意識してだと思うのですが、京都へ上京していたというのがもしかしたら祐継と同行した際のことかもしれません。
京都本社に出張中、伊東荘を奪う計画を練っていた祐親は、頼朝幽閉の見張りか何かを口実に先に返ってきたんだと思います。そこで頼朝と三女が恋仲になったと知ったのではないでしょうか?
なんとも間抜けな話です。
そのときに頼朝の乳母の娘、と結婚していた祐親の次男、伊東祐清に頼朝は一計を案じてもらい北条時政に庇護を受けることになるのです。
さて祐経に話を戻します。 所領を奪われ妻を取られた祐経が黙っているはずがありません。
仲間を差し向けて祐親を討ち取りに向かわせます。
その際に謝って祐親の子、河津祐泰を殺害してしまいます。
祐親は辛くも生き延びるのですが結局その後、挙兵した頼朝との合戦に破れ、投獄の身になった上に自害します。
ではおまちかね、これが人物相関図です。
<曽我物語>
さてここからが曽我物語です。
河津祐泰には妻と実子が2人いました。
その妻が再婚した相手が曽我祐信。現在の小田原国府津近辺にある曽我荘の豪族です。
祐泰の実子はそれぞれ一萬丸と箱王丸。一萬丸は母の元で育てられますが、箱王丸は一時、河津祐泰の弟、祐清の妻にあずけられますがその後、父親の供養と、箱根権現にずけられます。
面白い話ですが箱王丸一度 箱根権現で頼朝に隋参した祐経に会っています。その際、殺害を試みますが祐経に諭され、あっさり引き下がってしまうのです。もしかしたら祐経って結構確りした人物だったのかもしれませんね。まぁどちらかといえば祐親の方が横暴な気がしますしね...
その際に箱王丸は赤木柄の短刀を祐経から授かっているのですが、祐経殺害の際にその赤木柄の短刀が利用されています。
一方、母親の元にいた一萬丸はその境遇をのろっていました。
新しい父親、曽我祐信は当然のことながら実子を重用します。
一萬丸には領地の分領もありませんでした。
それでも元服をさせてもらい祐成と名乗ります。
祐成は箱根権現にいる弟、箱王丸を誘い北条時政を頼ります。
そこで箱王丸は時政に烏帽子親となってもらい元服し時致と名乗るようになります。
そして富士の裾野で盛大な巻狩りをしていた源頼朝一行に随伴していた祐経を夜陰にまぎれて殺害に成功します。
騒ぎを聞きつけた武士が退去して押し寄せましたがそれでも二人は十人の敵をなぎ倒したといいます。
しかし兄、祐成は仁田忠常に討たれます。その後頼朝の館に押し入った時致でしたが、女装した五郎丸によって捉えられてしまいます。
仇討ちだったと告白した時致に一時許しを与えようとしていた頼朝に祐経と万劫御前の子、犬房丸が懇願したため時致は打首となるわけです。
なんだか殺ったり殺られたりの繰り返しですね。
まさに人を呪わば穴二つです。
<事後>
さてその後です。頼朝はその事件の直後、一時消息不明になりました。それを心配する妻、政子に対し巻き狩りに参加せず残っていた頼朝の弟、範頼が「私がいますのでご安心ください。」と見舞いの言葉を送ったそうです。
それが謀反の疑いとされ範頼は伊豆修善寺に幽閉されその後自害します。
時致を捉えた五郎丸は褒美をもらえたどころかその振る舞いが武士として卑怯だということになり甲斐に流されます。
事件後、一萬丸の彼女、大磯の遊女、虎女が捕らえられたことが吾妻鏡に記載されています。
色々調べられたようですが、その後釈放されます。
虎女はその後出家して信濃善光寺に赴きます。そのときの年齢が19歳といいます。
大磯に戻った後に高麗寺山の北側山下に庵を結び菩薩地蔵を安置し供養し続け63歳で生涯を閉じます。
<頼朝暗殺説>
工藤祐経を討った後で、曾我兄弟は頼朝の宿所を襲おうとしており、謎であるとされてきた。そこで、兄弟の後援者であった北条時政が黒幕となって頼朝を亡き者にしようとした暗殺未遂事件でもあったという説がある。
幕府がひた隠しにしようとした理由はここに隠されているのかもしれませんね。
さぁコレが概要です。 やっと理解できました。 さて今後小田原周辺や大磯を散策する際には意識してまわってみます!
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