座間
最近なんとも名声が落ちてしまった座間市
まぁあの陰惨な事件のせいなのですが
本来は東京からも近く、水も綺麗で住みやすい町なんです。
その町、座間に有名な伝説が有ります。
それが桜田伝説といいます。
神奈川の昔話50選にも選定されている伝説で座間の昔話といえばこれ!
というほど地元には根付いている伝説です。
そしてもう一つ。護王姫。
神奈川の女(姫)の尻を追いかけている私が
この伝説に出てくる姫様達をないがしろにすることはできない!
ということで今回はこの桜田伝説と護王姫伝説です。
↓一緒に桜田伝説 護王姫伝説の謎を解こう!
一日じゃ到底足りないぞ!ということで宿を探すなら
護王姫の石碑をクリック!冒険のはじまりだ!
桜田伝説。
姫様が出てくる伝説は当然男性達の格好の獲物w
ということでブログにも色々書かれてます。
まずはこちらをご覧ください。
まめこぞうの旅
ひじき日記
ShonanWalk
ということでなんとも物悲しい話。
家族をほったらかした高間にも問題あるけど
帰ってきたら家族みんないないってのは寂しいよね...
とにかくその悲劇の舞台、桜田に早速行って見よう!
東名高速でも中央高速でもかまいません。
なにせ一旦圏央道にはいるのですから...
んで圏央道に入ったら圏央厚木インターで降ります。国道129号に当たったら右折。
北上し関口中央交差点を右折。相模川を渡り相模線を越え座間下宿で県道42号線に当たるのでそこも右折します。座間警察交差点を抜けてそのママ真っ直ぐ。二車線ですが細めの路に進みます。そのママ南進。田んぼの中の路を進みます。
そしてT字の交差点に差し掛かりますのでそこを左折。
するとすぐその目的地桜田伝説の塚があった場所に到着です。
座間高校を目指せばいいかもしれません。すぐ隣に座間高校が有ります。
ただしここ駐車場が無い!しかも路が結構狭いので注意です。
そこに小さな碑が立ってます。
小桜姫塚
これが桜田伝説の碑です。
しかし本当になんとも裏寂しいところです。
一面の田んぼ...
その碑にはこんなことが書かれています。
座間高校西方の低地は「桜田」と呼ばれ、かつては沼地でした。
ここには悲しいお話が伝わっています。昔、渋谷高間という武士がおりました。早くに妻を亡くしましたが、その悲しみは愛児小桜姫によってなぐさめられていました。
やがて高間は松女という女を後妻とし、松女との間に小柳姫が生まれました。小桜姫と小柳姫は人もうらやむほどの仲むつまじさで二人は平和な日々を送っていました。
こうして数年が過ぎた後、高間は仏教修行のため旅立つこととなりました。
松女は実子の小柳姫を跡継ぎとするため、家来とはかり小桜姫を殺して桜田の沼に沈めてしまいました。これを知った小柳姫はひどく悲しみ、小桜姫と同じ沼に身を投げて死んでしまいました。
この悪行を知った村人達は松女を捕えて、当時このそばを流れていた相模川の堤防が洪水のたびに壊れないようにするための人柱に立てると共に、亡くなった小桜姫を哀れみ、この地に桜を植え、碑を立てて霊を弔ったと伝えられています。
その後、諸国修行から帰った高間は、ことの次第を知り、家族の霊を慰めるために龍源院を建てたということです。
昔この地は湖があったのではないかとのことです。
三日月湖があったとの話も有ります。
そんな湿地帯...しかも今でもなんとなくウラ寂しい場所なのですから
昔はさぞかし寂しく且つ誰もいない場所だったのではないでしょうか...
昔の写真があります。
こりゃ寂しい...
え?でもこの真ん中の木 桜??
龍源院はここから真北1キロ離れた先、
鈴鹿明神社の裏手に有ります。
先ほどの路を間逆に戻り
座間警察署交差点を右折
星の谷観音下交差点を左折すればすぐです。
どうせですから
鈴鹿明神社にも寄ってみましょう。
鈴鹿明神社
鈴鹿神社の駐車場は境内に有ります。
鈴鹿神社の脇の道に入り境内に入れる脇の入り口から進入しましょう。
なかなかの神社です。
しかしなぜここ座間に鈴鹿明神社。鈴鹿の字が...?
説明板にはこんなことが書かれています。
鈴鹿明神社は、第二十九代欽明天皇の御代に、伊勢国(三重県)鈴鹿神社の例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風雨に襲われ東に漂流し、当時の相模国入海東岸であったこの地に漂着したものを、里人たちは一社を創建して、座間全郷の鎮守として祀り、鈴鹿明神社と崇め奉ったと伝承されています。
神社の一番古い棟札には、小田原北條氏の領地であったため、「弘治二年(1556)北條藤菊丸殿 金子五千疋にて鈴鹿大明神再造成就処」と記されています。
このように大変古く由緒ある神社なので、明治六年(1873)には郷社に列せられました。
祭神の須佐之男命は京都祇園の八坂神社の御分霊で、これは後世疫病が流行した時、疫病消除を祈る人々が勧請したものです。
又、例祭には写真のような勇壮な神輿が出されますが、これも病気平癒のお祓いで村々をまわったのがはじまりです。
とのことです。
なるほどなるほど。
欽明天皇御代なら539年から571年...
あれ?でもこれって以前
金目観音堂の際に描いた状況に似てますね。
金目観音堂の時代は702年...
うーーん あの頃って温暖化状態だったのかね~
そういえば平安海進なるものがあったらしいけど
でも其のとき記載したとおり平安海進は50cm程度の海水面上昇だからたいしたこと無かったはず...
それに欽明天皇御代は古墳時代。平安海進よりもずいぶん前だよね。
ヨコハマ古道紀行さんのページによると古墳の位置から推察して
座間の位置まで海岸線があったことは間違いなさそうだね。
ずいぶん大切にされている神社のようで...
舞台のようなものも有りました。
ちゃんと神様の社殿に向いてますね。
さて目的の龍源院に向かってみましょう。
龍源院にも駐車場があるのですが
場所も近いので鈴鹿明神社の駐車場に車を置かせてもらって散歩がてら向かいます。
この座間の地は湧き水が多く、あちこちに湧水があります。
そのため当然のごとく水路が多くこの地区もとうぜん水路があちこちに
しかもこの当たり座間における美観地区になっているようで
その水路を大切に整備しています。小さな公園なども整備されています。
そして角を曲がった先にあるのが龍源院です。
龍源院
さてその先にあるのが湧き水が出ている鈴鹿の泉です。
そこもチラッと散策...
鈴鹿の泉は私有地のため奥までは入れませんでした。
残念ですね~
龍源院の境内にも湧水地らしきものが...
本当にここらは湧き水が多いのを感じます。
さてぐるっと戻ってきて鈴鹿明神社の駐車場。
そこを出たところになにやら説明板があります。
なるほどね この辺りが昔の座間の中心街だったわけだね。
ついでにこの龍源院の東側にある星の谷観音にまで足を伸ばしてみました。
↓一緒に桜田伝説 護王姫伝説の謎を解こう!
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星谷観音
坂東第八番札所です。
正式名は妙法山星谷寺真言宗大覚寺派
本尊は聖観世音菩薩
開基は行基菩薩
建立奈良時代だそうです。
坂東三十三箇所は観音霊場です。
以前小田原の
飯泉山 勝福寺を紹介しましたよね。
あれと同じ坂東三十三箇所です。
勝福寺同様巡礼街道ができてます。
真っ直ぐ門前に続く路は気持ちいいものですね。
行基が諸国教化の際に絢欄たる金光星の如く山谷に輝くのを見て自ら聖観音の像を彫刻し堂宇を営んだとあります。
花山法皇がこの霊場に立ち寄られていこう順拝者が絶えないとのことです。
行基といえば既に一度出しましたよね。
そう
金目観音堂の際に...
行基ってあちこち行脚してるんかね~
今度詳しく調べてみますわ...
しかしなんとなく金目観音堂とこの座間、結構重なるよね。
梵鐘が国の重要文化財に指定されています。
進んでいきましょう。龍の彫刻を模られた手水屋が有ります。
隣にある宝印塔は座間市の重要文化財に登録されているようです。
小さいながらも確りしたお堂が見えてきました。
お堂の脇に七不思議なるものの立て看板が...
ほほう...
お堂内にはいるとなかなか立派な彫り物や奉納された絵が飾れれてま下。
それほど古いものではないでしょうが
それでも貴重なモノだと思われます。
このようにこの地区だけでもいろいろな文化遺産があることを考えると
この地区が座間の中心だったことを伺えます。
さて折角なので護王姫神社にも足を運びましょう。
護王姫神社
さてさて今回もう一人のお姫様護王姫の神社に行きますよ!
神奈川の女の尻を追いかけている私が抜かすことのできない姫様でもあります。
こちらも桜田伝説同様悲劇のお姫様。
懐妊したが出産と同時に旅先で亡くなった姫様の話。
なんだか往きだおれ多いよね。
平塚の塚、
かりがね姫なども行き倒れの話でした。
今回はそれに加えて出産が加わります。
なんとも大変な話。
再び県道51号線に戻ります。そして北上。すぐ護王姫神社に着きますよ。
ただしここ駐車場無いんですわ~
困りましたがちょっと見に行く程度なら
目の前の路上にちょろっと駐車。
まぁ広い道路だし少し位いいでしょうw
でもちゃんとするならまぁ鈴鹿明神社の駐車場借りちゃいましょうかね?
歩いて五分くらいでつくと思います。
さてその護王姫神社ですが...
こじんまりとしたお社ですね。
でもここも地元の人たちに大切にされているのがわかります。
とても綺麗に整備されてますよね。
このお社の脇に大きな欅の木があります。
これは座間市指定の重要文化財の大欅だそうです。
でかいね。
この大欅の碑文にこんなことが書かれています。
この大欅は、安産の守護神として昔から近在の人々に信仰されてきた子安護王明神の境内にあります。
護王明神は伝説によると、源義経の側室の牛王姫を祀ったものだといいます。牛王姫は兄の源頼朝に追われていった義経の後と慕って来ましたが、この地で難産のために死んでしまいました。哀れに思った村人は牛王姫母子を葬ったそばに欅を植えて、墓標のかわりとしました。(これが現在の大欅であるといいます)。その後、円教寺の住職日範により円教寺に休息した日蓮上人に牛王姫の墓前で読経をしてもらって安産の神 護王姫としてここに祀ったものです。
護王姫の碑もここにあります。
これは昭和七年十月に建てられたもののようです。
さてこの護王姫伝説、三つの説が有ります。
実は義経の妻説は少し薄い説だそうでw
一つ目は上記に記載されている畠山重忠の娘源義経の妻説
もう一つは源義朝の妻説
最後に一色伊予守六郎の妻説
詳しくは下記している「座間古説」の護王姫のコラムを参照。
座間周辺にそれらの説からくる土地の名称。
橋の名前などがあり、新編相模風土記などでそれぞれ色々な説を立てているため
多分色々ごちゃごちゃになってしまったんだと思います。
でも三説ともに出産と死が絡んでいることは間違いないようです。
↓一緒に桜田伝説 護王姫伝説の謎を解こう!
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さて桜田伝説に話を戻しましょう...
この桜田伝説の出所はどうも「座間古説」という明和年間(1764-1772)に書かれた民撰地誌だそうです。「座間古説」は成立事情や著者は不明。四種の写本が存在し、飯島本・加藤本・斉藤本・稲垣本と呼ばれているがこのうち斉藤本は借り受けた人物が誤って廃棄し行方不明に...。
昭和十年に東京本郷の古書店で発見され座間の心岩寺の白井住職によって買い求められ、元の所有者がその檀家であると解るに至り昭和四十年に同家へ返還されたということを契機に注目が集まり日の目を見たということです。
そこから同様の書が他に三家所有しているのが確認されたということらしい...。
災い転じてというのはこういうことを挿すんだねw
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桜田伝説
まずは「座間古説」よんでみよう!
「座間古説」より桜田伝説 原文
折りたたむ
太字が小桜姫に関連した項目
鎮守之北ニ渋谷高間と申者在、幼少之時父母ニおくれ、成人之後妻子ヲ持給ふ、娘小桜姫と申、其母死去し後妻を置、又一人娘出来小柳と申、然ニ、高間菩提後家今ハ我が心に任セんとおもひ、家老を近付内談いたし、あの桜姫ハ先腹也、我子の小柳を立てるべきと存、家老を頼、夜の内にしめころし、やのふけにしづミにかけるなり、妹是をきき、あら邪見之母上かな、姉様ハいづく江追出し候や、きけばやのふけに沈ミにかけ候と申、母上様扨はじゃけんの事也、此事父上様にきこへなハ、母ハ申におよハず、我らともに御にくミ有べしとなげきかなしミ給ふなり、我等も姉様と一所にかうせんの旅に趣かんと頓てやのふけに行給ふ、いかに姉様よ、私も御供申さんと同所に身を投死したり、其比座間・今泉之さかいに水よけの土手をつく、相模川北ハ猿ヶ島之西を流れ、、今の牛池と申ハ其時本川にて、今泉・川内・国分・恩馬・長池になかれ、比村々の者共、座間・今泉のさかいに土手つけとも成就せず、其時右之まま母まつと申者、是を人柱に立る、既ち土手成就仕、比土手を松戸の土手といふ、其大川西にながれ、下依知下大川と成、其間ニ村出来ル、土手の北ハ古川、牛之様成けだ物すミ、是ハまつか生かわりと申、死しての後川原にあけ、其所に大日堂を立、其後高間ハ帰国いたし、鎮守之東、瀧之下の菩提寺に来り、まま母之仕方聞給ひ、不便なるかな子供等となげきかなしミ給ふ、娘之ために施餓鬼供養あり、死したる所に塚をつき印に桜柳を植、比桜今に在、角力之名のりに是ヲ小桜と申なり、しかるに、高間ハ菩提寺に有しが、零落仕候により建立す、甲州上野原報福寺末、水上山龍源院と寺号付、其後天文之比、小田原北条時正より野武士七人座間・磯部逸知行にもらい座間七騎と申也、其内に若林大炊之助と申武士、座間之地頭也、大炊之助鈴鹿之森之脇 ニ居しか、天正十八年に小田原亡び、其時大炊之助立退、親殿ハ老人成しが、其下の龍源院中かう檀那寺と成而老を葬、宮川と高間之石之堂在、南に又座間山心岩寺と申在、鎌倉建長寺末也、然ニ、七騎之内白井織部之屋敷寺之北に有しが、 心岩寺中かう開基と成、又円教寺之北ニ橋本備前と申七騎之内屋敷あり、其并ニ鎌倉鍛治の弟子遠行村より来り、北条時政江打物を上ケ、鍛治のつかさの書物をもらい、天正之比庵之判すわる、又新戸村長松寺開基安藤、名主宰之書物を貰ひ 天文十二年之時也、磯部能徳寺ハ野口左近進開基なり、其外〆て七人座間七騎と申なり、其外小沢古帳に有、星谷之御朱印ハ天正十八年に出る、其外ニ後慶長之比出ル、慶長八年家康将軍、十一年に江戸御城立、同十二年に駿河之御城立、其比御地頭内藤修理守、今之下宿ニ陣屋立、鈴鹿之森之東に池を御ほり被也、其池之場所池田と申、其古ヘ名主ハ長右衛門と申、陣屋之東木之下屋敷也、其比座間より百姓二人新田を開、右ハ高百八十五石弐斗八升六合座間之込高也、後ニ御地頭定り、初にハ御年貢鈴鹿御蔵に納め、名主ハ長右衛門、然ルに、御地頭より仰出され候、比度江戸四ツ屋より新道駿河御城江の道中、段々に一里塚をつき道御改り、其時馬つきの宿なる成へしと御すすめあり、然に、他所之新田とハ違ひ、めいめい座間宿地主有之ニ付、他所之者不参、長宿・ほしのや・南原・羽沢より出ル、山本ハ長宿より出上宿江出るなり、若林ハ上の屋敷より上宿江出る、稲垣 ハ六屋敷より出、鈴木ハかじやにて円教寺之東より出、其所の清水ハ其節かじや川と申、横丁瀬戸も長宿より出、安斉円教寺之下ら出る、吉山鈴鹿より出、野島長宿より出、小又是も鈴鹿より出、奥津羽沢ら出る、しかるに、夫より東ハ黒沼屋敷、南東ハぢんや屋敷也、比陣屋屋敷之跡ねがい、今ハ分ケ家之者出る也、 川原吉山すずかより出る、同鈴木鈴鹿心岩寺之脇らでる、同沢田ハ南原より出、高橋ハ長宿より出る、林ハ木の下より出る中宿江出る、あとに弟金左衛門を置、其子ハ百平と申、其いせき九兵衛と申、他所より来り、其孫一郎右衛門と申、林長右衛門名主之時、村高座間千石と申、鎮守之森下之宮川も上宿江屋敷替仕、其節鈴鹿明神も、六月祭礼にハはた川江はまおりに出、上宿宮川の前に御休あり(以下重複により中略)貞享之比、宮川娘おやふと申者、早川より養子ヲ貰ひ長左衛門と申(中略)其時より宮川絶申也、其屋敷稲垣と名をかへ居申候へ共、前々より鈴鹿様に宮川伊勢より付来ルにより、今に宮川の跡に六月ハ年々御祭礼之時御かり屋に被成御座、近年享保之比ら職に牛頭天王と書付候、尤其古へ牛頭天王も勧請仕候、是も御心信可被致候へ共、しかれ共、鈴鹿明神と牛頭天王とハ御位ちかふなり、宮川にハ縁なき神、宮川の前にハ鈴鹿の興昔より御休有、故に、幟にハ鈴鹿大明神と書べし、牛頭天王と誤りなり、鈴鹿山は今明和七年丑ノ年迄千二百三十四年に成、牛頭天王ハ後に勧請あり、鈴鹿惣鎮守誠ニ古き事也、上之屋敷の長宿、比迄に六百甘三年ニ成、今ハ古道あと、北ハ天神さい之神とがう之姫の墓所森計有、元禄十六年十一月甘二日大地震之時、上之屋敷通りに昔の穴くらくミ、承応之時ハ相模川段々西に成、但シ、座間河内之落水、松戸の土手下古川牛池江落る、其後寛文之比、久世大和守御知行之時新堀をほる、それより座間耕地水沢ニなる、其時今泉・国分・川内渇水いたし、右之村座間落水を願ひ、国分・今泉へ引、但し、高堰ならず、高堰仕ハ桜田道り稲腐る、其の時ら国分・今泉ハ座間普請に参り、国分は其後柏ヶ谷より逆川を掘、今ハふしんに不参也、然に、承応二年ニ名主長右衛門役あかる、其時之組頭上宿若林清左衛門・中宿吉山次右衛門・長宿瀬戸弥右衛門・鈴鹿渡辺佐右衛門・人之谷福田権兵衛・南原兵左衛門、此時より名主二人に成、上宿清左衛門・入之谷権兵衛江定る、入之谷之内北ハ新戸之者開、乃ち新戸ふんと成、権兵衛ふれ下ハ長宿・鈴鹿・南原・羽沢・星谷・下宿此村高五百五十二石一斗五升三合、内野石高十石入、清左衛門触下ハ宿·河原·中川原此高四百四十三石二斗壱升二合、內野高拾石入、都合九百九十五石三斗六升五合、故に座間千石といふ、然ルに、其後寛文比、久世大和守御知行と成、御蔵ハ宿之うらに清左衛門かかりの御蔵有、古へより鈴鹿御蔵ハ権兵衛しはいの御蔵あり、其時宿・入谷と分ル、入之谷権兵衛触下に成、其節大川新戸向大水之時ハ下タ河原宮川新田ニ押掛申により、大和守ら磯部・新戸・座間・新田迄河よけの土手をつき、其村土手内に用水堀をほり、磯部之入口に水門を立、其時宿之下ニ宮川新田出来ルなり、比宮川新田と申ハ下タ河原也、宮川いつとふにて開初めるなり、故ニ宮川新田と言、御縄入又大野ハ今中原と申まで大野之内也、其比大野中原通り座間ら新畑ニ開、栗原も新田も新戸・磯部迄皆向通りを開発す、其時中原通りへ御縄入、作場と大野之界に並木うハる、其節入之谷ニ貞愍と申座頭有、殿様御抱被成、相模御知行縄延之様に申上候により、大和守様御老中也、御縄入是を貞愍縄と申、御宿ハ座間入之谷権兵衛之処、其并ニ玉江七右衛門殿と申代官あり、江戸ら米川武右衛門・川田彦左衛門・花井加兵衛以上四人、前々ら一万石、但シ十四ヶ村、北ハ田名村より御打被成候処ニ、昔より町歩不足ニ成、右之一万石に合ざりし故、座頭難儀被致と存じられ、座間ニ而盛ヲ上ケ、右ハ上十二ヲ十四、十ヲ十二と成、田畑ともに二ツ宛上り近村ら盛高く也難儀に候、然ルに、古水帳千石内五百五十石余権兵衛支配内、四百四十石余清左衛門支配なり、其御水帳つふしに成、比度大和守様御検地御水帳座間ハ入之谷権兵衛所二而、南原治兵衛と申者田畑本水帳を書、然ルに、新高古水帳ら高殖千四百石余內六百六十三石三斗八升七合野石高也、內拾石村高ニ入、権兵衛持帳內七百六拾壱石九升弐合五勺五才、内野石高十石昔ら村高に入、右之通り次兵衛書本御水帳右之通り権兵衛分清左衛門分書出、両方一冊宛諸持在、但シ、権兵衛方にハ控水帳有之也、本御水帳ハ伊奈半左衛門様江上り、相州高座郡座間村其時之御役人米川武右衛門印・河田吉左衛門・花井加兵衛印・代官玉江七右衛門印・案内名主権兵衛印・同名主清左衛門印と座間と書上、寛文二寅ノ年九月
永禄之頃相模川段々河筋西二成、下依知下ヲ流れ、右之大川跡古川牛池と申、前にことわる通、牛池と申ハ、高間の娘小桜姫後添之妻にまつ申を娶る、まつが為にハ小桜姫ハまま子也、扨又、まつが実子ニ小柳と申娘を立んとて、小桜姫をしめころし、ヤノフケに沈に懸け、其とがにてまつを人柱に立、其後まつハ牛に生れかくれ古川に住、故ニ牛池と申也、其牛誠之牛にハあらず、まつが生かわりの牛之様成けだものなり、世人呼んで牛と名附、比けもの、指五本宛にわかる、頭の毛、体を半分かくす、比牛河原にあかり、其所へ大日堂を立給ふ、天正之頃、四ツ屋出来る、元和之時中川原之後新田出来、然に、龍源院新田ニ新開おこし寺ぶんと申、又南原の者新田ニ出百姓に成、然ハ、南原る新田に出候百姓の畑南原ニ有しが、新田と南原之畑と取替ニ成、亦龍源院之脇成屋敷畑若林与惣右衛門、 同藤右衛門兄弟之屋敷畑也、元禄之比、二人之者相はて、藤右衛門子ニ長太郎と 申者、旦那寺龍源院に金子拾五両ニ売江戸へ行、共時名主権兵衛ハ望み候により 證文ニ権兵衛印形なし、半形ハ南原村曾根次郎右衛門・同村兵左衛門・長宿瀬戸十兵衛・上宿若林甚兵衛、皆旦那内之印形にて龍源院畑と成
「座間古説」より桜田伝説 関連 読み下し
折りたたむ
太字が小桜姫に関連した項目
鎮守の北に渋谷高間という武士がいた。幼少のころ父母に死なれ、成人してから妻子を持ち、その小桜姫といった。小桜姫の母は亡くなったので後妻をもらい、また一人娘ができて、こちらを小柳姫といった。そのうち、高間は突然菩提心を起こし、甲州の上野原に行き、報福寺で髪をおろし僧侶となり、諸国修行に出かけた。その時、後妻は自分の思うようにしようと考え「あの小桜姫は先妻の子だから、わが子の小柳姫を跡目にたてたい」と、家老を引き込んで内談した。そして、とうとう夜のうちに締め殺し桜田の谷(や)の深(ふけ)の中に沈めてしまった。
この様子を察した妹は「お母様、一体お姉様をどこへ追い出してしまったの」と聞くと、母は「谷の深に沈めてしまった」と答えたので、「お母様なんてひどいことを、このことがお父様に聞こえたならば、お母様はもちろん、私のこともお憎みになる」と嘆き悲しんだ。そして私も一緒に黄泉の旅に赴こうと谷の深に行き「お姉様、私もお供いたします」と、身を投げて死んでしまった。
そのころ、座間と今泉の境に水よけの土手を築こうとしていた。相模川は、北の方では猿ヶ島(厚木市)の西側を流れていた。今の牛池(座間二丁目)という所はそのころ相模川の本流が流れ、南 の方は今泉・河内・恩馬・長池(以上海老名市)を流れていた。この村々の人たちは、座間・今泉の境の所に何度も土手を築こうとしたが、洪水のたびに壊されなかなかできなかった。そこで、前に述べた継母のまつを人柱に立てた。そのためかやっと土手は完成し、この土手を松戸の土手とい う。以来相模川は西の方に流れを変え、下依知(厚木市)の下を流れるようになり、その間に村が できた。また、土手の北に古川があり、ここに牛のような獣が住んでいた。これは人柱に立ったまつの生まれ変わりといい、この牛が死んだのちに川原に埋葬し、その所に大日堂を建立した。
その後、渋谷高間は諸国修業より帰国し、鎮守の東の瀧の下の菩提寺に落ち着いた。そこで継母のやったことを聞いた高間は、「不憫な子供たちよ」と嘆き悲しみ、娘のために施餓鬼供養をし、娘の死んだ所に塚を築いて、目印に桜と柳を植えた。この桜は今も残っており、角力の名乗りに小桜というのも、これにちなんだものである。渋谷高間は菩提寺に住んでいたが、お寺が零落していたので再建し、この寺に甲州上野原報福寺末、水上山龍源院と寺号を付けた。
それより後天文(一五三二~五五)のころ、小田原北条時正(氏康か氏政のことか)より野武士七人、座間・磯部までを知行地にもらい、これを座間七騎といった。その七人のうちの若林大炊之助という武士が座間の地頭となり、鈴鹿の森の脇に居住していたが、天正十八年(一五九○)に小田 原の北条氏が滅んだため、他の地へ立ち退いていった。大炊之助は屋敷の下の龍源院を中興の壇那寺として、親をここに葬った。なお、宮川と渋谷高間の石の堂も龍源院の中にあった。
また、鎮守の南に座間山心岩寺というお寺があり、鎌倉建長寺の末寺である。七騎のうちの白井織 部の屋敷がこの寺の北にあり、白井織部は心岩寺の中興の開基となった。 円教寺の北に橋本備前という、七騎のうちの一人の屋敷があった。その並びに、鎌倉鍛治の弟子が 円行村 藤沢市)より来て、北条氏政へ打物(刀)を納め、鍛治の司の書き物をもらった。そして天正(一五七三~九二)のころに、北条氏の虎印を押した年貢免除の文書をもらった。 新戸村の長松寺開基の安藤は、名主宰(名主職任命書)の書き物をもらった。これは天文十二年(一五四三)のことであった。磯部の能徳寺は野口佐近進が開基であった。以上の人々とそのほかの人々を含めて、七人の武士を座間七騎といった。そのほか小沢という名前が古帳に記載されてい
る。
星の谷の御朱印は天正十八年(一五九○)に出された。また後の慶長のころにも出されている。慶長八年(一六○三)家康は征夷大将軍に任ぜられ、同十一年に江戸城を築き、同十二年駿河に城を築いた。そのころ、座間の地頭内藤修理亮は今の下宿に陣屋を作り、鈴鹿の森の東に池を掘った。 その池の場所を池田という。また、名主に長右衛門という人がいて、陣屋の東の木の下という所に屋敷を持っていた。そのころ、座間より百姓二人が新田(宿)を開いた。この新田(宿)の石高は
一八五石二斗八升六合で、座間の込高であった。後に御地頭が定まるが、最初は御年貢を鈴鹿御蔵に納め、名主は長右衛門であった。
その後、御地頭よりお指図があり、この度、江戸四ッ谷より新道駿河城への道中、だんだんに一里塚を築いて改修すれば、座間はいずれ馬継ぎの宿駅になるであろうと、お勧めがあった。こうして人が移ってきて座間の宿ができたわけであるが、ここは他所の新田とは違い、それぞれ地主がきまっているので、他所の者は入って来ず、長宿・星の谷・皆原・羽根沢より人々が移り住んできたものである。
具体的に述べると、山本は長宿より上宿へ、若林は上の屋敷より上宿へ、稲垣は六屋敷より上宿へ出た。鈴木は鍛治屋で円教寺の東から中宿へ出た。元の場所の清水はかじや川といっていた。横丁の瀬戸も長宿より中宿へ、安斉は円教寺の下から中宿へ、吉山は鈴鹿より中宿へ出た。野島は長宿より下宿へ、小俣も鈴鹿より下宿へ、奥津は羽根沢より下宿へ出た。それより東は黒沼屋敷、また、 南東は陣屋々敷であった。この陣屋々敷の跡は、お願いして分家の者が出ることにした。河原宿の吉山は鈴鹿より出た。河原宿の鈴木は鈴鹿の心岩寺の脇から出て来た。沢田は皆原より中河原へ 高橋は長宿より中河原へ出た。林長右衛門は木の下より中宿へ出、そのあとには弟の金左衛門を住まわせた。その子供は百平といい、百平の後継ぎの九兵衛という人は他所から来た人であり、百平の孫は一郎右衛門といった。また、林長右衛門が名主のとき、村高座間千石といわれていた。
鎮守の森下にいた宮川も上宿へ屋敷替えをした。そのため、鈴鹿明神も六月の御祭礼には鳩川へ浜降りに出た後、上宿の宮川の前にお休みになるようになった。貞享(一六八四~八八)のころ、宮川の娘「おやふ」という人は早川より養子をもらい、名前を長左衛門といった。その屋敷は今では 稲垣と名前が変わっているが、宮川は鈴鹿様に従って伊勢よりお供をして来た家柄であるので、今も宮川の跡に六月の御祭礼のときには、神興が御仮屋にお入りになっている。
近年になって享保(一七一六〜三六)のころより、宮川の前に立てる職に牛頭天王と書いてあるが、 確かに牛頭天王も昔に勧請してあるので、これも御信心なさるべきだと思う。しかし、牛頭天王は 鈴鹿明神と位が違うし、宮川とは縁のない神様である。宮川の前は昔から鈴鹿明神の神興がお休みになる場所なので、当然職には鈴鹿大明神と書くべきであり、牛頭天王と書くのは誤りである。鈴鹿様は明和七年寅ノ年(一七七○)まで、一二三四年になるが、牛頭天王はその後に勧請されたも
ので、鈴鹿の総鎮守様は誠に古い神様なのである。
上の屋敷にあった長宿は、これまでに六二三年を経ている。今は古い道路の跡や、北の方に天神様賽の神様・護王の姫の墓所と森があるばかりである。元禄十六年(一七○三)十一月二十二日 大地震のとき、上の屋敷通りにあった昔の穴が崩れてしまった。
承応(一六五二~五五)の時に、相模川はだんだんと西の方へ移動した。けれど、座間河内は、松戸の土手下の古川牛池に落ち込んでいた。その後、寛文年間(一六六一~七三)の久世大和守御知行のとき新堀を掘った。それ以来、座間の耕地は灌漑用水が豊かになった。今泉・国分・河内(海老名市)は渇水していたので、この村々は座間への落水を願った。そこで、今泉へ水を引かせた。ただし高堰は許さなかった。その理由は、高堰を作ると、桜田一帯は水がたまり稲が腐るからであった。その時から、国分・今泉は座間の堀普請に参加しているが、その後、国分の方は柏ヶ谷(海老名市)より逆川を掘ったので、今は普請には参加していない。
承応二年(一六五三)に名主の長右衛門が退任した。その時の組頭は上宿若林清左衛門・中宿吉山次右衛門・長宿瀬戸弥右衛門・鈴鹿渡辺佐右衛門・入の谷福田権兵衛・皆原の兵左衛門であった。 そして、この時より名主は二人となり、組頭の中から上宿清左衛門・入の谷権兵衛が名主に決まった。また、入の谷のうち、北の方は新戸の人が開拓したので、新戸分となった。
権兵衛の触下は、長宿・鈴鹿・皆原・羽根沢・星の谷・下宿で、この村高は五五三石一斗五井三合、 そのうち野石として、高一○石が含まれている。清左衛門の触下は、宿・河原宿・中河原、この高は四四三石二斗一升一合で、そのうち野石として高一○石を含んでいた。よって合計九九五石三斗六升五合となり、このため一般に座間千石という。
その後寛文 (一六六一~七三)のころに、久世大和守の御知行となって、宿の裏に清左衛門支配の御蔵ができ、昔からの鈴鹿の御蔵は権兵衛支配の御蔵となった。その時、宿と入谷とに分かれて、 入谷は権兵衛の触下になった。 そのころ、相模川が大水になると、新戸向から下タ河原の宮川新田に濁流が押し寄せて来るので、 大和守は、磯部・新戸から座間新田まで洪水を防ぐ土手を築き、併せて、土手の内側に用水堀を掘り、磯部の入口に水門を作った。その時に、宿の下に宮川新田ができた。この宮川新圧というのは 下タ河原のことであり、宮川の一族で開拓したので、宮川新田という。
大和守様の御縄入(検地)まで、大野というのは今の中原といっている所まで入っていた。そのころ、大野の中原通りを座間の者が新しく畑に開いた。また、栗原も新田宿も新戸・磯部の者までもみな向通りを開発した。その時、中原通りへ御縄入があり、作場と大野の境に並木が植えられた。 このころ、入の谷に貞愍(じょうみん)という座頭がおり、殿様のお抱えになっていた。ある時、殿様へ相模の御知行所に縄延びがあるように申し上げたので、御老中であった大和守様は、早速御縄入を命ぜられた。これを貞愍縄と呼んでいる。貞愍の宿は、入の谷権兵衛の家であり、その家の並びに玉江七右衛門という代官がいた。そのほかに江戸より米川武右衛門・川田彦左衛門・花井加兵衛などが来て、以上四人で縄入を行った。
大和守の領地は、一万石といわれていた。ただし、これは一四ヶ村の合計であった。これらの領地に対し、北の方の田名村から順次御縄入を行ってきたが、この地は昔から町歩不足の所で、再検査 の結果も一万石に合わなかった。これでは座頭貞愍の立場がないと殿様は考えられて、座間において石盛を上げることにした。そして、上田の一二というのを一四、一○というのを一二というように、田畑ともに二ツずつ上げ水増しされた。このため、近村よりも石盛が高くなり、村人は大変難 儀をした。
古い水帳の座間千石の内訳は、五五○石余が名主権兵衛の支配地で、四四○石余が名主清左衛門の配地であったが、この御水帳は廃棄処分とされた。この度の大和守様御検地の御水帳は、担当が入の谷の名主権兵衛で、皆原の治兵衛という人が書き役となり、田畑本水帳を書き上げた。
これによれば、新石高はもとの水帳より増加して一四○○石余となり、そのうち、権兵衛の受け持ちの石高は、六六三石三斗八升七合であった。このうちの一○石は、野石として村高に加えられたものである。清左衛門の受け持ちの石高は、七六一石九升二合五句五才であり、そのうち一○石は、 昔から野石として村高に付け加えられていた。以上の通りに、書き役の皆原の治兵衛は本水帳に書き、それぞれ権兵衛分と清左衛門分とに書き出し、これを両名主が一冊ずつ所持した。ただし、権兵衛方には控えの水帳があったので、本水帳は伊奈半左衛門様へ差し上げた。この水帳は、相州高 座郡座間村として、その時の役人である次の人々の署名捺印がなされていた。
米川武右衛門印 名主清左衛門印 花井加兵衛印 代官玉江七右衛門印 同名主清兵衛門印
末尾に座間と書き上げ、年月は寛文二年寅ノ年(一六六二)九月とあった。
永禄年間(一五五八~七○)に、相模川の川筋はだんだんと西の方へ移動し、下依知の下を流れる ようになった。そして、もとの本流の跡にたまった池を古川牛池といった。前にも述べたように、高間には小桜姫という娘があったが、後添いの妻にまつという女を娶った。まつにとっては小桜姫 は継子であった。ところが、まつには小柳姫という実子があって、これを跡日に立てようと、小桜 を締め殺し桜田の谷の深に沈めてしまった。その罪によりまつは人柱に立てられた。その後、まつは牛に生まれかわりこの古川に住むようになったので、ここを牛池といった。この牛は本当の牛ではなく、まつの生まれかわりの牛のような獣であり、世間の人はこれを牛と呼んでいた。この獣は指が五本あり、頭の毛が体の半分を隠すほど長く伸びていた。そして、この牛が死んだあと川原に引き上げ、その場所へ大日堂を建てた。
天正(一五七三~九二)のころ、四ッ谷に集落ができた。元和(一六一五~二四)のころ、中河原の集落ができ、その後で新田宿ができた。それで、龍源院も新田宿に田を拓いてこれを寺分とした。 また、皆原の者も新田宿に出て百姓となったが、この人たちは皆原に持っていた畑と、新田宿の畑を交換した。
龍源院の脇にある屋敷畑は、若林惣右衛門・同藤右衛門兄弟のものであったが、元禄(一六八八~一七○四)のころにこの二人が死去した後、藤右衛門の子の長太郎という人が、旦那寺である龍源院に金子一五両で売って、江戸へ出て行った。その時名主権兵衛は、本人の希望でこの証文に印鑑は押さなかった。印鑑を押したのは、皆原村の曽根次郎右衛門・兵左衛門、長宿の瀬戸十兵衛、上宿の若林甚兵衛の人々で証人となった。この人々はいずれも龍源院の旦那で、それ以来龍源院所有の畑となった。
「座間古説」コラムより
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②桜田伝説
この伝説は、「桜田姫の物語」・「小桜姫と小柳姫」などとも呼ばれ、神奈川の昔話五十選にも選ばれた座間を代表する物語である。口伝ではもっと簡単な話で残っていたが、この本の出現により再発見された感もある。また、後半部の人柱伝説は、海老名市側にも残っている。
この物語の主人公である渋谷高間についての記録は残っておらず、どういう人物であるのか知ることはできないが、鈴鹿明神の北にある龍源院を再興した人として、この物語は龍源院の縁起物語ともなっている。
なお、渋谷高間が修行した甲州上野原の報福寺とは、現在の上野原町にある曹洞宗保福寺のことではないかと思われる。
「座間むかしむかし」第二集 桜田伝説
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角田俊久
座間入谷の低地で現在桜田と呼ばれている 所がある。昔よりこの地一帯はフケ田と言い、下方からの湧き水のため稲は冷え、耕土は深過ぎて農耕作業は殆んど出来ない状態であった。為に徒らにあしやよしの茂るにまかされていた。
話は何時のことか年代ははっきりしないが渋谷庄司重国の子孫に渋谷高間という人がいた。深く仏教に帰依して諸国を巡り、遂に薙髪して甲州上野原報国寺の徒弟となったという。
高間の妻女基は一女小桜を残し、哀れにも黄泉の国に旅立った。愛妻を失った高間は、寂しい日々を送り迎えていたが、愛児小桜に慰められいた。
しかし時日が経つにつれ、母のいない小桜の言動をみている中に、小桜可愛さがこみあげて来た。小桜は「お父さん。どうしてもお母さんが無くっては、早く母さんを見つけて来て。だんだんつまらなくなってしまう。」と云い云い堪えきれないように、泣きはらした。双眼を涙で曇らせては、高間に固く抱き付いて泣いたのであった。
夕陽が山に落ちかかる頃、高間は一人で静かに考えてみた。静かに眼をつむって-。-でも俺にはあの小桜がある。後妻をもとめた結果が、どんな波紋を描くだろう-。若し後妻を入れた結果が、現在の俺以上に苦しみに苦しむかは知れきった事実だ。高間は思いながらも遂に後妻松女を入れたやがて松女との間には一子小柳が出来大きくなっていった。
この二人小桜と小柳は実に人目も羨ましい程のむつまじさであった。一人は何時も平和な一日々々を送った。
「小桜さん何時逸も仲よくしましょう。母さんの下に」と、こんなことをよく小柳は口にした。でも小桜の心は其の言葉が、なぜか悩ましかった。殊に「母さん。」と耳にする時の小桜の胸は云い知れない、あの暗い闇を思わせた。小柳がもしも居なかったら一日も生活に堪えられなかったかも知れない。彼女には心に一人描いて微笑んだ父さんしかなかった時の母と、実在の母との懸隔が余りにも大きかった。「やっばりなかった時の方が幸福だった。母さんのいなかった一人きりだった方が-」と思うようになった。
相模野に十三夜の月光がきらめく時、小桜は一人砂丘に立っていた。そうして過去の幸福を夢みていた。小柳とは相変らず仲よく幸福の夢には浸っていた。
かくて幾年かは過ぎて行った。やがて高間は仏教修業のため旅立つことになった。残された小桜の境遇が、それから変っていったのも当然である。とうとう最後のものがやって来た。
松女は実子小柳を後嗣にするため、小桜を哀れ犠牲にした。桜田の深渕に投じたのである。これによって一時松女の心も平和にかえったかの如く見えた。が小柳は
-世の中に誰よりも好きなあの小桜さん、あの人がいないのに何時逸生長らえていても-。こう叫んで小柳は、小桜と同じ深測に自らの身を投じたのである。
日ならずしてこの事件が発覚し、松女は刑せられた。一方里人は小桜をあわれみ、小桜を植え碑を建ててねんごろに小桜の霊を用ったと伝えている。
さて、諸国修業を了えた高間は、帰国後事の次第を知り、悲しみの中にも竜源院を起し一門の霊を用ったということである。
小桜の墓というのは今の国鉄線入谷駅の南東端に近い田園の中にあった約五坪ほどの草地で、桜の木が一本生えていた。飯島忠雄氏によれば、貞治一年(一三四六)と康正四年(一四五八)の板碑があったというが、それらはみな、耕地整理のために失われてしまった。小柳の墓の跡も、座間高校の北西端に近い田の畦道に、ただ一本小さなイボタノキが残っているばかりである。
小柳姫の墓の跡
護王姫伝説
こちら...
まず「座間古説」読んでみよう!
「座間古説」より護王姫伝説 原文
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西之方鈴鹿大明神、三十代飲明天皇の比日本六十六ケ国ニ分ル、相模八郡に成、 其時伊勢より来らせ給ふ、明和五亥年まで千式百三拾ニなる、上の屋敷と申所ニこおうの森と申墓所あり、是ハ昔鎌倉御代の時、源氏の義朝打れ、ミたい常磐と子共忍落人と成し時、平家の清盛常磐を召捕、其上我か妻にせんと申けれハ、常磐自害可仕と申候得ハ、常磐の家老申にハ、只今自害被成候ハ、子共衆も共に殺し可申、世にしたがふてましまさハ、子共衆成人被成候ハ、又源氏之御世ともなるべしと達而御いけん申ニより、無是悲清盛ニ御そいなされ、其後子共衆成人被成、平家をほろほし又源氏の御世となる、然に、常盤の御はらに清盛之子ごおうの姫と申出来、ごおうの姫鎌倉ニ来りしが、鎌倉にハ梶原ちちぶとのおかれず、こおうの姫星の谷まで被参、ちちぶ・ぢゃうしう江の通り、いまニ於て鎌倉海道と言にて死去被成、それよりして比所を郷の森といふ、こおふの姫のはか所あり、先規は星谷寺支配成しか、貞享之比地主半右エ門日蓮宗にて円教寺江付申其所昔長宿之跡なり、惣而比道筋を鎌倉繁昌の時ハ長宿なり、長宿と申ハ座間村之本村なり、長宿より所々方々に分れて出たり、故に長宿をおさ百姓と言、さて長宿と申ハ長の字ハおさとよみてふるい儀なり
「座間古説」より護王姫伝説 関連 読み下し
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三○代欽明天皇のころに、日本は六六ヶ国に分かれた。そして、国のなかはさらに郡に分かれ、相模の国は八郡に分かれた。そのころ、鈴鹿大明神は西の方の伊勢より来られた。それより明和五年(一七六八)子ノ年までに、一二三二年になる。
上の屋敷という所に、護王の森という墓所がある。これは、昔平家の時代に源氏の義朝が打たれて、御台所の常盤とその子供が落人となって逃げたとき、平家の清盛は常盤を召し捕えて、その上自分の妻にしたいと言った。常盤は敵将の妻になるくらいなら自害すると言ったが、常盤の家老は「ただ今自害をなされては子供衆もともに殺されるに決まっている。成り行きにまかせて生きていれば子供たちも成人して、再び源氏の時代となることも考えられる」と強くご意見申し上げたので、しかたなく清盛にお添いになった。その後、子供たちは成人して平家を滅ぼし、また、源氏の時代となった。その時に常盤の御腹から、清盛の子護王の姫という女子が生まれた。護王の姫は、鎌倉に梶原秩父殿を訪ねて来たが、お会いになれなかった。そして、ただ今では鎌倉街道といわれる道を秩父上州へ向かったが、途中星の谷まで来たとき、病気のために死んでしまった。それよりここを護王の森という。ここに護王の姫の墓所があって、最初は星谷寺が管理していたが、貞享年間(一六八四~八八)に、この場所の地主の半右衛門が日蓮宗の信者であったので、円教寺にその管理を依頼した。
この場所は、昔の長宿の跡である。鎌倉時代、鎌倉が繁栄していたころ、街道沿いのこの場所には、 長宿という宿があった。長宿というのは座間村の本村である。長宿を基点として、人々は処々方々へ分かれて出て行ったので、長宿の人をおさ百姓といった。それで、長宿の長の字はおさと読み、 古い意味をもっている。
「座間古説」コラムより
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護王姫社は、昔から安産の神として、地元はもちろんのこと近隣の人からも信仰されており、護王の姫にまつわる伝説が残っている。伝説については座間古説記載分と合わせて三説がある。
その一 畠山重忠の娘源義経の妻説(座間での伝承)
これは円教寺縁起にもとづくもので、源頼朝に追われて奥州に逃れた夫源義経の後を慕って、座間入谷の星の谷まで来たが難産のため亡くなった。その護王の姫が、円教寺の開山日範上人の夢枕に立ち「私は難産のため苦しんで死んだが、未だに成仏できないでいます。二、三日のうちにこの寺に徳の高い僧が来られるので、その方に頼んで、私の墓の前で供養をして成仏させて下さい。その時にはお産で苦しむことがないように産婦をお守りいたします」と告げた。二、三日して日蓮上人が身延山から池上の本門寺へ行く途中円教寺へ立ち寄られた。思い当たることのあった日範上人 は、日蓮上人にお願いして護王の姫を厚く弔い、一宇の堂を建てて祀ったと伝える。
その二 一色伊予守六郎の妻説(海老名市での伝承)
永享十年(一四三八)足利持氏は関東に勢力を張って幕府に対抗し、関東管領上杉憲実を討とうとして憲実を助ける幕府軍に敗れた。持氏軍に海老名の一色伊予守六郎という将がいたが、戦に敗れて今泉の館を落ちていった。伊予守の妻護王の姫はこの後を追って、座間入谷まで落ちて来たがこの地で難産に苦しんで亡くなった。里人はこれを哀れんで祠を建てたと伝える。(義経も伊予守 といったので、その一は、これが取り違えられたのではないかという人もある)
その三 平清盛の側室常盤の娘説(座間古説)
源義朝が平治の乱で敗れ、その妻であった常盤も子供をつれて落ちていったが、途中清盛に捕えられ、側室となった。清盛の八女が常盤の娘護王の姫である。姫は鎌倉を訪れた後、鎌倉街道を座間入谷の星の谷まで来たときに難産のため苦しんで亡くなった。この所を護王の森といい里人は祠を建てて祀ったと伝える。
いずれも護王の姫が星の谷で難産に苦しんで亡くなったことは一致している。難産で死んだ霊を祀って、安産の神としているのは、他に鎌倉の大巧寺の「おんめ様」が有名である。
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色々と掘り下げていこうと思ったのですが
まめこぞうの旅さんのページに
とっても興味深い内容が書かれていました。
なんと...
その桜田伝説はもう一つの座間の姫伝説である護王姫伝説に絡んでいるのではないかとの衝撃的仮説です。
まめこぞうさんのページ護王姫伝説
これは面白すぎるし、もしそうなら胸がキュンキュンしちゃいます。
主はまず牛の妖怪。人柱伝説についてバッサリ切っています。
自分もその説について賛成です。
長い間語り継がれていく間に伝説とは徐々に融合したり分轄されたりしていきます。
多分人柱伝説は海老名地方に伝わった伝説が正解であり
また牛の妖怪についてもなんとなくまめこぞうさんの説に理があると感じます。
この二つの話は後ほど掲載しますね。
そして主は三説ある護王姫を一色伊予守六郎(いっしきいよのかみろくろう)の妻と規定したうえで龍源院の建立年である寛正二(1461)年を元に計算。その凄惨な事件を1450年代と位置づけてます。小桜姫が殺害されたのが十代だったとして生まれた年を1440年前後としています。1440年はまさに永享の乱の二年後、結城合戦の年です。
まめこぞうさん曰くなんと護王姫の社(護王姫神社)は渋谷高間の敷地内だったというのです!こりゃすごい!なんと大胆な仮説。
以下の写真真ん中が護王姫神社。
この護王姫神社の裏手一帯が丸山下という地区になります。
確かに「座間の地名」という書物にもその家族を弔ったといわれる龍源院は元々丸山下にあったということです。
それを動かして現在の地、鈴鹿明神の裏手に移したとのことでした。
しかも護王姫神社は少し小高い山のようになっています。これを主は土塀の跡ではないか?と規定しています。なるほど面白い!
しかし主は県道51号線を旧鎌倉街道の一つとしていますが
この県道51号線は室町期に存在していたかどうかは怪しいところが有ります。
ここは行幸道路といい、関東大震災以降移転した兵学校に昭和天皇がお通いになるため道路を整備したもので行幸道路と呼ばれるようになりました。ということでここの路を一色氏の姫が通ろうとするのは少し利に敵ってません。
しかし星谷寺は既に奈良期には結ばれており、室町期にはそこそこ大きくなっていたはずです。多分参道も整備されていたものと思われます。
するとその星谷寺のほうに逃げるという意味ではありだったと思われるし、古い路にしても星谷寺から一旦座間の集落に左折し、そこから丸山下の北側、現在の米軍座間キャンプのしたを通って抜ける路は当時からあったと思われます。
自分はてっきりその渋谷高間の邸宅の門前にこの護王姫神社が築かれていたと思ってましたが邸宅の裏側だったのかも知れません。
その龍源院の裏手にあったとも考えられますね。
まめこぞうさんの更にすごいところは
桜田伝説では継母となっているマツ(?)であるが実は小桜姫の実母なのではないかとの説を大胆に打ち出しているところ...
これはさすがに一般の人には想像がつかない仮説です。
でも確かにそう考えると全てのつじつまがあう...
永享の乱で自害した鎌倉公方足利持氏の奉行人であった一色伊予守六郎は永享十二年(1440)に今泉館に立てこもり抵抗を続けた。関東管領山内上杉氏は家臣長尾憲影、扇谷上杉氏は家臣太田資光を派遣し今泉館を攻めさせた。伊予守は敗れて下野に逃れ後の結城合戦に繋がります。
今泉の館を追われた一色伊予守六郎の妻は府中街道を逃げる。
しかし追っ手に追われ渋谷高間の屋敷に逃げ込む。一色伊予守六郎の子、小桜姫を出産。
高間は護王姫をかくまい、亡くなったと虚偽の情報を流すいわば風説の流布を行う。
同時に護王姫神社を建立。(または護王姫(まつ?)が殺害されたあと作られたかもしれません。)
高間は護王姫を妻とする。そして小柳姫が生まれる。
しかし戦乱に告ぐ戦乱に世をはかなんだ高間は突如出家してしまう。
残された渋谷の家臣団は微妙な立場になる。
しかも当時は一色一族を狙った恐怖政治の真っ最中。
一色一族の元妻をかくまっていたなんてばれたらそれこそ大変。
そこで家老は妻子供ともに殺害。
帰宅した高間に妻ご乱心と伝えたという筋書きです。
なんとも面白いしドラマチック!
まめこぞうさんすごいです!
ということで今回描いたのはまめこぞうさん説で描いてみました。
もしまめこぞうさん説が正しければ護王姫は娘共々殺された挙句に子殺しの濡れ衣まで着せられたことになりますね。そりゃ可哀想...
ということでこのようにしてみました。子供を最後まで守ろうとした護王の姿です。
とにかく面白いので詳細は
まめこぞうさんのページで是非ご覧ください。
まめこぞうさんの記述には
その今泉の館を海老名北方にある今泉周辺にあったと規定しています。
実は今泉の館はそこ以外にもう一つ説がります。
神奈川県秦野市の南側にある今泉地区。
新編相模国風土記稿にもこちらが一色伊予守六郎の館とあるようですが
まぁちがうでしょうね。
というのも永享の乱で足利持氏が立てこもったのが海老名城。
その奉行であった一色氏が20キロ近く離れた秦野に館があるとは考えにくいです。
それに扇谷上杉氏の居城は今の伊勢原にありました。
伊勢原は秦野と海老名の間にあります。
まぁ海老名の今泉に一色がたてこもった今泉館があったというほうが妥当ですね。
それらの話はこちらのページに詳しく載ってます。
神奈川県の城(秦野今泉城)
神奈川県の城(海老名今泉館)
明治初期の地図にそれぞれの場所を当てはめていくとこうなります。
一番上が護王姫神社
二番目が小桜姫の塚
一番下が今泉館です。
うーん ますますまめこぞう氏の説が正しく感じてきます。
渋谷高間
さて渋谷高間という人物ですが...
本当にいたのでしょうか?
渋谷といえば東京の渋谷が有名ですがね
じつはあの渋谷もここ神奈川の渋谷庄から来ているんですよ。
その渋谷庄を抑えていたのが渋谷氏一族。
そもそもは桓武平氏の一族でその秩父氏の一派だったそうです。
平高望の子孫です。
高座郡渋谷に居住し渋谷氏を名乗り始めたとか...
渋谷氏は現在の海老名市東方から綾瀬市を中心に荘園を営んでいました。
綾瀬市にある早川城跡は渋谷氏の居城で渋谷国重の居城になっている。
ただしこちらは平安末期の人物。
「座間史」の記述には渋谷氏が出てくるのは「文和元年(1352)、上野で挙兵した新田義興、義宗を迎え撃つ足利尊氏の麾下に、渋谷・海老名両氏の名がみえる。」というのが最後。
それ以降に渋谷氏の名前は出てこない。
重要な永享の乱周辺はどうかというと...
応永三十三年六月二十六日 鎌倉公方足利持氏が武田信長を攻撃した際、善波憲有が座間に参陣する。
康正元年二月 筑波潤朝、室町幕府に軍忠状を上申、永享の乱に父玄朝が海老名に参陣したことを述べる
応仁・文明の頃 白井織部是房が座間七ヶ村の地頭であったとの伝えがある
文明元年五月四日 座間山心岩寺の開基白井是房が死去する
文明十年四月頃 長尾景春の乱のさなか、景春方の磯部城が陥落する
とある...
その後渋谷という字が出てくるのは
永禄四(1561)年三月三日 北條氏照、渋谷一跡を小田野源太郎に宛行う
とあるだけだ。
いわば永享の乱前後には渋谷の字は見えない。
しかし座間のすぐ近くに渋谷郷があったことからも
座間に渋谷氏の一派が居住していてもおかしくは無いよね。
さて渋谷重国であるが平治の乱で敗北した側にいた佐々木秀義を重国はかくまっている。
その後佐々木氏は重国の娘との間で子供を作り、その子供が頼朝の決起に参加している。
其の佐々木氏、渋谷所領の一部を借りてその経営を助けていたようだがもしかしたらその土地というのがこの座間の地ではないかという説を唱えている人がいる。
角田俊久氏が書く桜田物語には高間は渋谷重国の子孫とある。
まぁ本来座間古説からの引用なのでこちらは想像でしかないと思うが自分もそう思う。
座間の歴史
先にもだした星谷寺の国指定重要文化財の梵鐘は佐々木信綱が寄進したもので間違いないようだ。ということでその星谷寺周辺に佐々木氏の居城があったのではないかと語っている。
和田合戦時に和田方についた渋谷一族は敗れ其の後薩摩に流されるのであるがその後佐々木氏がその土地を安堵されたとしている。
まぁそう考えると和田合戦での敗北があったにせよ支部や一族が恩のある佐々木一族に助けを求めることはあったに違いない。
だとするとちょうどその星谷寺の丘陵の下に位置する丸山下に渋谷氏の忘れ形見が小さな居を構えていてもおかしくは無いね。
さて先の「座間古説」のコラムに高間が修行したのは上野原町の
保福寺と記載されている。
ずいぶん立派なお寺だね。
しかしだ...ホームページには永禄元年(1588年)に大名菩提寺として創建とある...
ちょっと話があわないよね。
角田俊久氏の桜田姫では上野原の報国寺とありますね。
しかし上野原には現在報国寺なるお寺はありません。
報国寺は鎌倉に有名なお寺が有りますがこちらは臨済宗ですね。
自分が気になるのは上野原町にある
蔵王山龍泉寺。
修派こそ臨済宗だが和銅年間には開山されており前身は天台宗白蓮寺だそうです。
もしかしたらここに関連があるかも知れませんね。名前も似てるしねw
蔵王山龍泉寺に取材に行きました。
こちらをご覧ください。
小柳姫塚
実はね小桜塚と小柳塚は場所が少し違うんですわ...
まぁこれは後々わかったんですけど...
ここは小桜塚
ここが小柳塚
直線距離で400メートル程度離れているかんじかな?
下の写真の真ん中辺り
この一帯を昔はやのふけといって近寄らなかったようですね。
しかしもう跡形も無いというか...
多分上の写真のあの真ん中。ちょうど枡形に何も植わってない場所。
何にもないよね...ちょっとざんねん。
「座間むかしむかし」の角田俊久氏のコラムに添付されている写真は
小柳姫の塚としてイボタの木が植えられているとありました。
あれ?この写真
上の古い写真と同じだよね?桜じゃないよねあの写真。
イボタの木に違いない!
やはり上の写真も小柳姫の塚なんだね。
ただただ綺麗な夕焼けでしたね...
どうでしたか?桜田伝説と護王姫伝説の大胆な仮説!
まめこぞう氏のホームページにワクワクです。
僕はそうであってほしいという期待とともにまめこぞう氏の説を押したいと思います。
皆さんもこの不思議な座間のお姫様たちを是非廻って見て謎解きにチャレンジしてみてください。
なお、以下のマンガは永享の乱に絡んだマンガです。
よろしければごらんください。
↓一緒に桜田伝説 護王姫伝説の謎を解こう!
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護王姫の石碑をクリック!冒険のはじまりだ!
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