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2018年8月4日土曜日

【座間】桜田伝説 護王姫伝説

座間

最近なんとも名声が落ちてしまった座間市
まぁあの陰惨な事件のせいなのですが
本来は東京からも近く、水も綺麗で住みやすい町なんです。
その町、座間に有名な伝説が有ります。
それが桜田伝説といいます。

神奈川の昔話50選にも選定されている伝説で座間の昔話といえばこれ!
というほど地元には根付いている伝説です。

そしてもう一つ。護王姫。

神奈川の女(姫)の尻を追いかけている私が
この伝説に出てくる姫様達をないがしろにすることはできない!

ということで今回はこの桜田伝説と護王姫伝説です。



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桜田伝説。

姫様が出てくる伝説は当然男性達の格好の獲物w
ということでブログにも色々書かれてます。

まずはこちらをご覧ください。

まめこぞうの旅
ひじき日記
ShonanWalk

ということでなんとも物悲しい話。
家族をほったらかした高間にも問題あるけど
帰ってきたら家族みんないないってのは寂しいよね...

とにかくその悲劇の舞台、桜田に早速行って見よう!
東名高速でも中央高速でもかまいません。
なにせ一旦圏央道にはいるのですから...
んで圏央道に入ったら圏央厚木インターで降ります。国道129号に当たったら右折。
北上し関口中央交差点を右折。相模川を渡り相模線を越え座間下宿で県道42号線に当たるのでそこも右折します。座間警察交差点を抜けてそのママ真っ直ぐ。二車線ですが細めの路に進みます。そのママ南進。田んぼの中の路を進みます。
そしてT字の交差点に差し掛かりますのでそこを左折。
するとすぐその目的地桜田伝説の塚があった場所に到着です。


座間高校を目指せばいいかもしれません。すぐ隣に座間高校が有ります。
ただしここ駐車場が無い!しかも路が結構狭いので注意です。
そこに小さな碑が立ってます。

小桜姫塚


これが桜田伝説の碑です。


しかし本当になんとも裏寂しいところです。

一面の田んぼ...


その碑にはこんなことが書かれています。


座間高校西方の低地は「桜田」と呼ばれ、かつては沼地でした。
ここには悲しいお話が伝わっています。昔、渋谷高間という武士がおりました。早くに妻を亡くしましたが、その悲しみは愛児小桜姫によってなぐさめられていました。
やがて高間は松女という女を後妻とし、松女との間に小柳姫が生まれました。小桜姫と小柳姫は人もうらやむほどの仲むつまじさで二人は平和な日々を送っていました。
こうして数年が過ぎた後、高間は仏教修行のため旅立つこととなりました。
松女は実子の小柳姫を跡継ぎとするため、家来とはかり小桜姫を殺して桜田の沼に沈めてしまいました。これを知った小柳姫はひどく悲しみ、小桜姫と同じ沼に身を投げて死んでしまいました。
この悪行を知った村人達は松女を捕えて、当時このそばを流れていた相模川の堤防が洪水のたびに壊れないようにするための人柱に立てると共に、亡くなった小桜姫を哀れみ、この地に桜を植え、碑を立てて霊を弔ったと伝えられています。
その後、諸国修行から帰った高間は、ことの次第を知り、家族の霊を慰めるために龍源院を建てたということです。

昔この地は湖があったのではないかとのことです。
三日月湖があったとの話も有ります。
そんな湿地帯...しかも今でもなんとなくウラ寂しい場所なのですから
昔はさぞかし寂しく且つ誰もいない場所だったのではないでしょうか...

昔の写真があります。


こりゃ寂しい...
え?でもこの真ん中の木 桜??


龍源院はここから真北1キロ離れた先、
鈴鹿明神社の裏手に有ります。
先ほどの路を間逆に戻り
座間警察署交差点を右折
星の谷観音下交差点を左折すればすぐです。


どうせですから
鈴鹿明神社にも寄ってみましょう。

鈴鹿明神社


鈴鹿神社の駐車場は境内に有ります。
鈴鹿神社の脇の道に入り境内に入れる脇の入り口から進入しましょう。

なかなかの神社です。



しかしなぜここ座間に鈴鹿明神社。鈴鹿の字が...?


説明板にはこんなことが書かれています。


鈴鹿明神社は、第二十九代欽明天皇の御代に、伊勢国(三重県)鈴鹿神社の例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風雨に襲われ東に漂流し、当時の相模国入海東岸であったこの地に漂着したものを、里人たちは一社を創建して、座間全郷の鎮守として祀り、鈴鹿明神社と崇め奉ったと伝承されています。
神社の一番古い棟札には、小田原北條氏の領地であったため、「弘治二年(1556)北條藤菊丸殿 金子五千疋にて鈴鹿大明神再造成就処」と記されています。
このように大変古く由緒ある神社なので、明治六年(1873)には郷社に列せられました。
祭神の須佐之男命は京都祇園の八坂神社の御分霊で、これは後世疫病が流行した時、疫病消除を祈る人々が勧請したものです。
又、例祭には写真のような勇壮な神輿が出されますが、これも病気平癒のお祓いで村々をまわったのがはじまりです。

とのことです。
なるほどなるほど。

欽明天皇御代なら539年から571年...
あれ?でもこれって以前金目観音堂の際に描いた状況に似てますね。
金目観音堂の時代は702年...
うーーん あの頃って温暖化状態だったのかね~
そういえば平安海進なるものがあったらしいけど
でも其のとき記載したとおり平安海進は50cm程度の海水面上昇だからたいしたこと無かったはず...
それに欽明天皇御代は古墳時代。平安海進よりもずいぶん前だよね。
ヨコハマ古道紀行さんのページによると古墳の位置から推察して
座間の位置まで海岸線があったことは間違いなさそうだね。

ずいぶん大切にされている神社のようで...
舞台のようなものも有りました。
ちゃんと神様の社殿に向いてますね。


さて目的の龍源院に向かってみましょう。
龍源院にも駐車場があるのですが
場所も近いので鈴鹿明神社の駐車場に車を置かせてもらって散歩がてら向かいます。

この座間の地は湧き水が多く、あちこちに湧水があります。
そのため当然のごとく水路が多くこの地区もとうぜん水路があちこちに
しかもこの当たり座間における美観地区になっているようで
その水路を大切に整備しています。小さな公園なども整備されています。



そして角を曲がった先にあるのが龍源院です。

龍源院


さてその先にあるのが湧き水が出ている鈴鹿の泉です。
そこもチラッと散策...


鈴鹿の泉は私有地のため奥までは入れませんでした。
残念ですね~

龍源院の境内にも湧水地らしきものが...


本当にここらは湧き水が多いのを感じます。

さてぐるっと戻ってきて鈴鹿明神社の駐車場。
そこを出たところになにやら説明板があります。



なるほどね この辺りが昔の座間の中心街だったわけだね。



ついでにこの龍源院の東側にある星の谷観音にまで足を伸ばしてみました。


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星谷観音

坂東第八番札所です。
正式名は妙法山星谷寺真言宗大覚寺派
本尊は聖観世音菩薩
開基は行基菩薩
建立奈良時代だそうです。

坂東三十三箇所は観音霊場です。
以前小田原の飯泉山 勝福寺を紹介しましたよね。
あれと同じ坂東三十三箇所です。



勝福寺同様巡礼街道ができてます。
真っ直ぐ門前に続く路は気持ちいいものですね。


行基が諸国教化の際に絢欄たる金光星の如く山谷に輝くのを見て自ら聖観音の像を彫刻し堂宇を営んだとあります。
花山法皇がこの霊場に立ち寄られていこう順拝者が絶えないとのことです。



行基といえば既に一度出しましたよね。
そう金目観音堂の際に...
行基ってあちこち行脚してるんかね~
今度詳しく調べてみますわ...
しかしなんとなく金目観音堂とこの座間、結構重なるよね。

梵鐘が国の重要文化財に指定されています。




進んでいきましょう。龍の彫刻を模られた手水屋が有ります。
隣にある宝印塔は座間市の重要文化財に登録されているようです。


小さいながらも確りしたお堂が見えてきました。



お堂の脇に七不思議なるものの立て看板が...
ほほう...


お堂内にはいるとなかなか立派な彫り物や奉納された絵が飾れれてま下。




それほど古いものではないでしょうが
それでも貴重なモノだと思われます。

このようにこの地区だけでもいろいろな文化遺産があることを考えると
この地区が座間の中心だったことを伺えます。

さて折角なので護王姫神社にも足を運びましょう。

護王姫神社

さてさて今回もう一人のお姫様護王姫の神社に行きますよ!
神奈川の女の尻を追いかけている私が抜かすことのできない姫様でもあります。
こちらも桜田伝説同様悲劇のお姫様。
懐妊したが出産と同時に旅先で亡くなった姫様の話。

なんだか往きだおれ多いよね。
平塚の塚かりがね姫なども行き倒れの話でした。
今回はそれに加えて出産が加わります。
なんとも大変な話。

再び県道51号線に戻ります。そして北上。すぐ護王姫神社に着きますよ。
ただしここ駐車場無いんですわ~
困りましたがちょっと見に行く程度なら
目の前の路上にちょろっと駐車。
まぁ広い道路だし少し位いいでしょうw
でもちゃんとするならまぁ鈴鹿明神社の駐車場借りちゃいましょうかね?
歩いて五分くらいでつくと思います。



さてその護王姫神社ですが...


こじんまりとしたお社ですね。


でもここも地元の人たちに大切にされているのがわかります。
とても綺麗に整備されてますよね。
このお社の脇に大きな欅の木があります。


これは座間市指定の重要文化財の大欅だそうです。
でかいね。

この大欅の碑文にこんなことが書かれています。



この大欅は、安産の守護神として昔から近在の人々に信仰されてきた子安護王明神の境内にあります。
護王明神は伝説によると、源義経の側室の牛王姫を祀ったものだといいます。牛王姫は兄の源頼朝に追われていった義経の後と慕って来ましたが、この地で難産のために死んでしまいました。哀れに思った村人は牛王姫母子を葬ったそばに欅を植えて、墓標のかわりとしました。(これが現在の大欅であるといいます)。その後、円教寺の住職日範により円教寺に休息した日蓮上人に牛王姫の墓前で読経をしてもらって安産の神 護王姫としてここに祀ったものです。

護王姫の碑もここにあります。


これは昭和七年十月に建てられたもののようです。

さてこの護王姫伝説、三つの説が有ります。
実は義経の妻説は少し薄い説だそうでw

一つ目は上記に記載されている畠山重忠の娘源義経の妻説
もう一つは源義朝の妻説
最後に一色伊予守六郎の妻説

詳しくは下記している「座間古説」の護王姫のコラムを参照。

座間周辺にそれらの説からくる土地の名称。
橋の名前などがあり、新編相模風土記などでそれぞれ色々な説を立てているため
多分色々ごちゃごちゃになってしまったんだと思います。
でも三説ともに出産と死が絡んでいることは間違いないようです。

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さて桜田伝説に話を戻しましょう...

この桜田伝説の出所はどうも「座間古説」という明和年間(1764-1772)に書かれた民撰地誌だそうです。「座間古説」は成立事情や著者は不明。四種の写本が存在し、飯島本・加藤本・斉藤本・稲垣本と呼ばれているがこのうち斉藤本は借り受けた人物が誤って廃棄し行方不明に...。
昭和十年に東京本郷の古書店で発見され座間の心岩寺の白井住職によって買い求められ、元の所有者がその檀家であると解るに至り昭和四十年に同家へ返還されたということを契機に注目が集まり日の目を見たということです。
そこから同様の書が他に三家所有しているのが確認されたということらしい...。

災い転じてというのはこういうことを挿すんだねw

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桜田伝説

まずは「座間古説」よんでみよう!

「座間古説」より桜田伝説 原文

「座間古説」より桜田伝説 関連 読み下し

「座間古説」コラムより

「座間むかしむかし」第二集 桜田伝説 


護王姫伝説

こちら...
まず「座間古説」読んでみよう!

「座間古説」より護王姫伝説 原文

「座間古説」より護王姫伝説 関連 読み下し

「座間古説」コラムより

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色々と掘り下げていこうと思ったのですが
まめこぞうの旅さんのページ
とっても興味深い内容が書かれていました。
なんと...
その桜田伝説はもう一つの座間の姫伝説である護王姫伝説に絡んでいるのではないかとの衝撃的仮説です。

まめこぞうさんのページ護王姫伝説

これは面白すぎるし、もしそうなら胸がキュンキュンしちゃいます。

主はまず牛の妖怪。人柱伝説についてバッサリ切っています。
自分もその説について賛成です。
長い間語り継がれていく間に伝説とは徐々に融合したり分轄されたりしていきます。
多分人柱伝説は海老名地方に伝わった伝説が正解であり
また牛の妖怪についてもなんとなくまめこぞうさんの説に理があると感じます。

この二つの話は後ほど掲載しますね。

そして主は三説ある護王姫を一色伊予守六郎(いっしきいよのかみろくろう)の妻と規定したうえで龍源院の建立年である寛正二(1461)年を元に計算。その凄惨な事件を1450年代と位置づけてます。小桜姫が殺害されたのが十代だったとして生まれた年を1440年前後としています。1440年はまさに永享の乱の二年後、結城合戦の年です。

まめこぞうさん曰くなんと護王姫の社(護王姫神社)は渋谷高間の敷地内だったというのです!こりゃすごい!なんと大胆な仮説。
以下の写真真ん中が護王姫神社。
この護王姫神社の裏手一帯が丸山下という地区になります。


確かに「座間の地名」という書物にもその家族を弔ったといわれる龍源院は元々丸山下にあったということです。



それを動かして現在の地、鈴鹿明神の裏手に移したとのことでした。



しかも護王姫神社は少し小高い山のようになっています。これを主は土塀の跡ではないか?と規定しています。なるほど面白い!

しかし主は県道51号線を旧鎌倉街道の一つとしていますが
この県道51号線は室町期に存在していたかどうかは怪しいところが有ります。
ここは行幸道路といい、関東大震災以降移転した兵学校に昭和天皇がお通いになるため道路を整備したもので行幸道路と呼ばれるようになりました。ということでここの路を一色氏の姫が通ろうとするのは少し利に敵ってません。
しかし星谷寺は既に奈良期には結ばれており、室町期にはそこそこ大きくなっていたはずです。多分参道も整備されていたものと思われます。
するとその星谷寺のほうに逃げるという意味ではありだったと思われるし、古い路にしても星谷寺から一旦座間の集落に左折し、そこから丸山下の北側、現在の米軍座間キャンプのしたを通って抜ける路は当時からあったと思われます。


自分はてっきりその渋谷高間の邸宅の門前にこの護王姫神社が築かれていたと思ってましたが邸宅の裏側だったのかも知れません。
その龍源院の裏手にあったとも考えられますね。

まめこぞうさんの更にすごいところは
桜田伝説では継母となっているマツ(?)であるが実は小桜姫の実母なのではないかとの説を大胆に打ち出しているところ...
これはさすがに一般の人には想像がつかない仮説です。

でも確かにそう考えると全てのつじつまがあう...

永享の乱で自害した鎌倉公方足利持氏の奉行人であった一色伊予守六郎は永享十二年(1440)に今泉館に立てこもり抵抗を続けた。関東管領山内上杉氏は家臣長尾憲影、扇谷上杉氏は家臣太田資光を派遣し今泉館を攻めさせた。伊予守は敗れて下野に逃れ後の結城合戦に繋がります。
今泉の館を追われた一色伊予守六郎の妻は府中街道を逃げる。
しかし追っ手に追われ渋谷高間の屋敷に逃げ込む。一色伊予守六郎の子、小桜姫を出産。
高間は護王姫をかくまい、亡くなったと虚偽の情報を流すいわば風説の流布を行う。
同時に護王姫神社を建立。(または護王姫(まつ?)が殺害されたあと作られたかもしれません。)
高間は護王姫を妻とする。そして小柳姫が生まれる。
しかし戦乱に告ぐ戦乱に世をはかなんだ高間は突如出家してしまう。
残された渋谷の家臣団は微妙な立場になる。
しかも当時は一色一族を狙った恐怖政治の真っ最中。
一色一族の元妻をかくまっていたなんてばれたらそれこそ大変。
そこで家老は妻子供ともに殺害。
帰宅した高間に妻ご乱心と伝えたという筋書きです。

なんとも面白いしドラマチック!

まめこぞうさんすごいです!

ということで今回描いたのはまめこぞうさん説で描いてみました。

もしまめこぞうさん説が正しければ護王姫は娘共々殺された挙句に子殺しの濡れ衣まで着せられたことになりますね。そりゃ可哀想...
ということでこのようにしてみました。子供を最後まで守ろうとした護王の姿です。



とにかく面白いので詳細はまめこぞうさんのページで是非ご覧ください。

まめこぞうさんの記述には
その今泉の館を海老名北方にある今泉周辺にあったと規定しています。
実は今泉の館はそこ以外にもう一つ説がります。
神奈川県秦野市の南側にある今泉地区。
新編相模国風土記稿にもこちらが一色伊予守六郎の館とあるようですが
まぁちがうでしょうね。
というのも永享の乱で足利持氏が立てこもったのが海老名城。
その奉行であった一色氏が20キロ近く離れた秦野に館があるとは考えにくいです。
それに扇谷上杉氏の居城は今の伊勢原にありました。
伊勢原は秦野と海老名の間にあります。
まぁ海老名の今泉に一色がたてこもった今泉館があったというほうが妥当ですね。

それらの話はこちらのページに詳しく載ってます。

神奈川県の城(秦野今泉城)
神奈川県の城(海老名今泉館)

明治初期の地図にそれぞれの場所を当てはめていくとこうなります。
一番上が護王姫神社
二番目が小桜姫の塚
一番下が今泉館です。


Googleマップを使って過去の地形図や空中写真を見る

うーん ますますまめこぞう氏の説が正しく感じてきます。

渋谷高間

さて渋谷高間という人物ですが...
本当にいたのでしょうか?
渋谷といえば東京の渋谷が有名ですがね
じつはあの渋谷もここ神奈川の渋谷庄から来ているんですよ。
その渋谷庄を抑えていたのが渋谷氏一族。
そもそもは桓武平氏の一族でその秩父氏の一派だったそうです。
平高望の子孫です。
高座郡渋谷に居住し渋谷氏を名乗り始めたとか...
渋谷氏は現在の海老名市東方から綾瀬市を中心に荘園を営んでいました。
綾瀬市にある早川城跡は渋谷氏の居城で渋谷国重の居城になっている。


ただしこちらは平安末期の人物。
「座間史」の記述には渋谷氏が出てくるのは「文和元年(1352)、上野で挙兵した新田義興、義宗を迎え撃つ足利尊氏の麾下に、渋谷・海老名両氏の名がみえる。」というのが最後。
それ以降に渋谷氏の名前は出てこない。
重要な永享の乱周辺はどうかというと...

応永三十三年六月二十六日 鎌倉公方足利持氏が武田信長を攻撃した際、善波憲有が座間に参陣する。
康正元年二月 筑波潤朝、室町幕府に軍忠状を上申、永享の乱に父玄朝が海老名に参陣したことを述べる
応仁・文明の頃 白井織部是房が座間七ヶ村の地頭であったとの伝えがある
文明元年五月四日 座間山心岩寺の開基白井是房が死去する
文明十年四月頃 長尾景春の乱のさなか、景春方の磯部城が陥落する

とある...
その後渋谷という字が出てくるのは
永禄四(1561)年三月三日 北條氏照、渋谷一跡を小田野源太郎に宛行う
とあるだけだ。

いわば永享の乱前後には渋谷の字は見えない。
しかし座間のすぐ近くに渋谷郷があったことからも
座間に渋谷氏の一派が居住していてもおかしくは無いよね。

さて渋谷重国であるが平治の乱で敗北した側にいた佐々木秀義を重国はかくまっている。
その後佐々木氏は重国の娘との間で子供を作り、その子供が頼朝の決起に参加している。
其の佐々木氏、渋谷所領の一部を借りてその経営を助けていたようだがもしかしたらその土地というのがこの座間の地ではないかという説を唱えている人がいる。

角田俊久氏が書く桜田物語には高間は渋谷重国の子孫とある。
まぁ本来座間古説からの引用なのでこちらは想像でしかないと思うが自分もそう思う。

座間の歴史

先にもだした星谷寺の国指定重要文化財の梵鐘は佐々木信綱が寄進したもので間違いないようだ。ということでその星谷寺周辺に佐々木氏の居城があったのではないかと語っている。
和田合戦時に和田方についた渋谷一族は敗れ其の後薩摩に流されるのであるがその後佐々木氏がその土地を安堵されたとしている。
まぁそう考えると和田合戦での敗北があったにせよ支部や一族が恩のある佐々木一族に助けを求めることはあったに違いない。
だとするとちょうどその星谷寺の丘陵の下に位置する丸山下に渋谷氏の忘れ形見が小さな居を構えていてもおかしくは無いね。

さて先の「座間古説」のコラムに高間が修行したのは上野原町の保福寺と記載されている。


ずいぶん立派なお寺だね。
しかしだ...ホームページには永禄元年(1588年)に大名菩提寺として創建とある...
ちょっと話があわないよね。

角田俊久氏の桜田姫では上野原の報国寺とありますね。
しかし上野原には現在報国寺なるお寺はありません。
報国寺は鎌倉に有名なお寺が有りますがこちらは臨済宗ですね。

自分が気になるのは上野原町にある蔵王山龍泉寺
修派こそ臨済宗だが和銅年間には開山されており前身は天台宗白蓮寺だそうです。
もしかしたらここに関連があるかも知れませんね。名前も似てるしねw


蔵王山龍泉寺に取材に行きました。こちらをご覧ください。


小柳姫塚

実はね小桜塚と小柳塚は場所が少し違うんですわ...
まぁこれは後々わかったんですけど...

ここは小桜塚


ここが小柳塚

直線距離で400メートル程度離れているかんじかな?
下の写真の真ん中辺り


この一帯を昔はやのふけといって近寄らなかったようですね。
しかしもう跡形も無いというか...


多分上の写真のあの真ん中。ちょうど枡形に何も植わってない場所。
何にもないよね...ちょっとざんねん。

「座間むかしむかし」の角田俊久氏のコラムに添付されている写真は
小柳姫の塚としてイボタの木が植えられているとありました。

あれ?この写真
上の古い写真と同じだよね?桜じゃないよねあの写真。
イボタの木に違いない!
やはり上の写真も小柳姫の塚なんだね。




ただただ綺麗な夕焼けでしたね...



どうでしたか?桜田伝説と護王姫伝説の大胆な仮説!
まめこぞう氏のホームページにワクワクです。
僕はそうであってほしいという期待とともにまめこぞう氏の説を押したいと思います。
皆さんもこの不思議な座間のお姫様たちを是非廻って見て謎解きにチャレンジしてみてください。

なお、以下のマンガは永享の乱に絡んだマンガです。
よろしければごらんください。



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