以前その二つの伝説についてこのブログで触れましたよね。
まめこぞう氏がとても面白い解釈をしておりました。
その伝説の登場人物 渋谷高間なる人物。
この人物が果たしていたのか?という疑問がわきました。
その人物が実在したという痕跡は確かにあります。
その一つが今でも座間にある寺、龍源院。
桜田姫の惨劇は渋谷高間が修行に行っている最中に起きています。
さてその出家した場所がどこか?
ということを前回記載しています。
一説には今でも上野原町に実在している報福寺とされていました。
実際、龍源院に有る龍源院についての歴史が記載されているプレートにも
上野原町の報福寺の末寺であるとの記載まで有ります。
しかし その龍源院の開山は1461年
に対して報(保)福寺の開山は1588年
ということでなんと100年程の差があるのです。
そこで私が目をつけたのは同じく上野原町にある龍泉寺。
ここは前身となる寺を含めるとなんと1000年の歴史がある寺!
ということでこの寺に当たりをつけたわけです。
しかしホームページ上にはそれらしい記載は何もない...
ならば実際に行ってみようじゃないか!
ということで今回は山梨県上野原町にある
蔵王山 龍泉寺
です。
蔵王山 龍泉寺
中央高速道路をひた走り、降りた場所は上野原インター。
そこから一旦甲州街道にでて市役所の手前を左折そのまま登っていった先に龍泉寺はあります。
山の中の田舎路。
狭い路を曲がると駐車場が有ります。
なかなか立派な寺です。
大きく石で名が刻まれています。
龍泉寺
この田舎町にあってこれだけ立派な伽藍を備えているのはすばらしいですね。
山門をくぐってみましょう。
眼前には巨大な本堂が見えます。
立派だし結構新しいですね。
最近建てた感じがします。
なかなか隆盛を誇っているのではないでしょうか?
さて境内本堂に向かって左手側には大きな鐘付き堂が...
こちらもなかなか立派ですね。
本堂の隣には小さな大日堂がありまして
その脇に芋大明神なる石碑が...
天明の大飢饉
天明三年(1783年)におきた浅間山の大噴火によって農作物の壊滅的被害を起こした天明の大飢饉が発生。
東北地方を中心に相当数の餓死者が出るほどの大飢饉で人々は人肉を喰らうほどだったという近世では最大の飢饉。
当然この地域の人々も困窮することになります。
その際、代官 中井清太夫は領民の窮地を救うためジャガイモを導入。それによって領民たちの窮地は救われたとのこと...
そのためそのジャガイモのことをこの上野原地区では清太薯(せいだのたまじ)と呼ぶらしい。
クックパッドにもレシピが載っている結構有名なご当地グルメ。
実はここ龍泉寺はその「せいだのたまじ」由来の寺ということらしい。
凄いね!
その天明の大飢饉。これは本当に凄まじい飢饉だったようで日本のみならず世界中に影響を与えた飢饉。原因は明確ではないがいくつモノ要因が重なったといわれている。一番の原因は世界各地の火山の大噴火。アイルランドのラキ山とグリムスヴォトン山の立て続けの大噴火が引き金だといいます。其の後日本の浅間山の大噴火がそれに輪をかけたという感じ...。更にエルニーニョが発生し暖冬。大飢饉へと繋がったそうでフランス革命に繋がっていきます。
日本では1780年~1786年のたった6年間になんと92万人減っているんです。恐ろしい...
ちょっと余談
天明の大飢饉で思い出すのは有るテレビ番組。
そのテレビ番組は前世というのを扱っておりある中部の女性が催眠療法を受けた際に前世が渋川村上之郷のタエという少女で浅間山の噴火によって吾妻川の土石流が発生した際にそのタエ(16歳)が人柱となったというのです。天明三年七月浅間焼泥押流失人馬家屋被害書上帳なるものにそのことが被害として記録されているとのこと...真実味あるし、その物悲しさに心を奪われてしまったことを記憶してます。
まぁ内容自体は突っ込みどころが結構多いw テレビらしい演出なのですが物語としてはとても面白いよね。
このブログにての天明年間
ココのブログでは仇討小万の仇討ちが天明三年(1783年ころ)でしたね。
しかし天明年間といえば伊勢の遊郭が最盛期を迎えています。
うーん。そんな大飢饉があった頃にお伊勢参りが最盛期ってどういうことなのでしょう...もしかしたら逆にその大飢饉のせいで世情不安が増してお伊勢参りが最盛期になったということなのでしょうか?
どうもこの大飢饉は東北地方諸藩の失政にも原因があるようでほぼ人災といってもいいようなものだったそうです。浅間山の災害は確かに酷かったようですが飢饉での被害はその殆どが東北に集中しています。
さて話しはそれてしまいましたが...
更に裏手に行くとなんと本堂の真裏に滝を備えた庭が...
なかなか風情が有ります。
その裏手
そこには御嶽ならぬ御崎神社なるものが...
うちらのほうではあまりなじみが無い御崎神社
どこにも説明の立て札が無く祭神もわかりませんでしたが
甲府にある武田氏の守護神御崎神社は稚産霊大神(ワクムスヒ)なのでもしかしたらそれかもしれません。
ちょっと荒れた感じがしますね。
転進して
再び龍泉寺へ...
渋谷高間の痕跡でもないか境内をうろうろしていたところ
若い方が「ポケモンですか?」と声をかけてきましたw
「いや違うんですけどねw お恥ずかしい話しじつは...」
とお話しすると「それなら先代のほうが詳しいかもしれません」
となんと先代住職の方とお話しすることができたのです!
ひゃっほーーーーー!
ということで本堂脇にあるこれまた立派な土壁の書院?のほうへ
あげさせてもらいました。
多分法事などで訪れた檀家の皆様をお迎えする広間へ通されて
そこで先代ご住職に色々お話しを伺うことができました。
結果 渋谷高間が訪れた記録は...
なし!!!
ズコーーーーーッ!!!
まぁそりゃそうだよね。
何せ600年も昔の話...
記録なんて残っているわけが無いし
その渋谷高間だってそのころワンサといた単なる武士の端くれ。
そんな人の記録なんて残しておく必要は無い。
当たり前なんです。
でも先代住職から色々貴重なお話を伺うことができました。
どうも今その先代ご住職。このお寺の沿革を編纂されているようで
いろいろな記録を調べている最中のようでした。
貴重なお話し
このお寺は臨済宗建長寺派
和同年間の天台宗白蓮寺が前身
古先禅師により改宗され龍泉寺と改めたらしい。
ということは渋谷高間の時代には既に龍という字が使われていたということ
渋谷高間が開いたとされる寺は龍源院。
厚木にある清源院にも関連があるようで源院はそこから...
龍はもしかしたら...
調べていただくとなんと渋谷高間の時代は
三代目の中高祟公大和尚禅師の時代であるとわかりました。
うん、記録は無かったけれども結構真実味が帯びてきた...
ココで私は思わぬ失敗をしてしまう。
渋谷高間ゆかりの龍源院は本来曹洞宗なのにもかかわらず
臨済宗と誤ってお伝えしてしまったのです。
元々ココのお寺への訪問がメインではなかったこともあり
手元に何も資料を用意せず名刺すら忘れて訪問してしまい。
曖昧な記憶の元お話しをしてしまったという経緯があるのです。
そんな私の話を真剣に聴いていただき本当に先代ご住職には感謝です。
さてその際ご住職、「そのお寺が幻住派かどうか確認してみてください。」
とのことでした。
幻住派
(げんじゅうは)は中国の臨済宗楊岐派の禅僧・中峯明本(幻住道人)の系統のことで、幻住道人が庵居する室名を幻住庵と称したことから、この名前が付いた。鎌倉時代末期に日本に伝わり、元々は隠遁的な性格の派であったが、戦国時代に入る頃からは勢力を広げ、関東一円に展開するまでになった。曹洞宗とは密接な関係にあり、中世末期の曹洞宗が特徴的に使用伝授していた血脈や大事を幻住派も相承していた
wiki調べ...
ん???
「曹洞宗とは密接な関係にあり」
曹洞宗とは密接な関係!?
もっもしや...
とはいっても曹洞宗のお寺は神奈川県内だけで300を超えます。
それらの寺院のなかで龍源院と龍泉寺だけが綿密な関係があったとは言い切れないのが事実。でもなんとなくワクワクしますよね。
ご住職と話しを色々する中で
面白いことが色々わかってきました。
寺院というのは宗派を結構コロコロ変える。
なぜならば時の為政者に配慮してその為政者に合わせるような形で
変えることが多々ある。とのことでした。
更に開山については外から高名な僧を招き入れて初代とすることが多くここ龍泉寺もそのような形態をとったとのこと。
高名な僧でなくその弟子だった場合もその高名な僧の名前になっていることが多い。
これはよく聞きますよね。弘法大師がそのいい例で弘法大師は近畿一帯の一部しか廻っていなかったのに日本全国あちこちにその足跡が見えます。
確かに保福寺さんは室町期には創建されていない。
保福寺は武田家家臣加藤丹後守景忠公を弔うための寺院。
個人的寺院なのですね。
ということはもしかしたら龍源院が曹洞宗になったのは時の為政者の問題があったのかも知れない...なんて都合のいい解釈もできるわけです。
面白いのがここの龍泉寺、本堂の上に掲げられている紋は北条鱗に似たミツウロコ。
対して保福寺に掲げられているのは武田菱に似た桔梗菱。
そう、この当りは武田と北条がやりあった地域で北に組したり南に組したりと大変な地域だったわけです。
実はこの後、先代ご住職に招かれて本堂に設置されている
貴重な資料ルームを見させていただいたのですが
板碑といういわば卒塔婆や鰐口などなど
そこには本当に貴重な品々が大切に保管されていました。
中には平安時代のものまである貴重な品々ばかりなのですが
上野原市はあくまでも山梨県。山梨県民は武田というプライドが強く
北条方の寺の遺品はあまり重んじられていないようで
これらの品々は市の文化財指定もされていないとのことでした。
うーーーーん もったいない...
板碑(いたび)
板碑とは卒塔婆の前身のようなもので武士が戦地に行く際に配下のものに背負わせて
戦地に行き、そこで討ち死にしたさいにそれを墓標とするために作らせたものだそうです。そのために板状に運びやすく軽くつくられています。
しかしそれを地上に出して置くといくら墓標といってもその下に敵方の武士が眠っているということで首をとられたりしてしまうためその墓標ごと埋めていたというので
発掘された場合は結構状態が良いままだったりすることが多かったようです。
鎌倉時代から室町期の関東で多く発見されて居たことを考えるとやはり関東武士というのが如何に好戦的だったかを感じざるを得ません。
その後大量に人員を導入する大合戦の戦国期に入るとその板碑は下火になっていきますw
結果その後その風習は急速に衰退していくとのことでした。
鰐口
このブログで鰐口というとやはり矢口長者の伝説ですね。
そちらも是非ご覧ください。
さてご住職と色々お話しさせていただくうちの私の心には少しダークな考え方が浮かんできました...。
渋谷高間の心境...
まめこうぞう氏は渋谷高間は世を儚んで出家に走ったと解釈していましたが...
もしかしたら...
渋谷高間は護王姫と桜田姫が家来に殺害されることをわかった上で屋敷をあけたのではないか...でなければ戦乱の時代、愛する妻子を残して家を空けるわけがない。
戦乱の最中、一家存続が危機に及んだ際、反乱軍側の一色伊予守六郎(いっしきいよのかみろくろう)の娘、護王姫をかくまった高間。その高間がその護王姫とねんごろの関係になるのは不思議じゃない。妻に娶った相手の存在が旗色悪い状況にあっても頭首が直接自分の妻子を手にかけるわけにはいかない。高間は老中に目配せをして「私が出家に走っている最中に妻と子を殺せ」と伝えたのではないか...?
その後、護王姫というか桜田伝説では松女という名前になっているが...を悪女に仕立て上げて一族存続をした可能性が高い...しかし周辺の民衆にはそれでは体裁が悪い。そこで松女と護王姫を別枠にとり、護王姫は聖女に松女は悪女に仕立て上げることで体裁を整えたという可能性がある...。
小柳姫は高間と護王姫との間の子供だったとすると本来なら小柳姫まで失うつもりは無かったが護王姫と桜田姫の訃報に後追いをしてしまったのではないかとも感じる...
時代がそうした
といえばそうなのかも知れないが
渋谷高間の心境はいかばかりなるものか...
その心内を覗く勇気は僕には無い...
しかしその後渋谷氏の名前は関東近辺において歴史上現れてきていない。
滅んだのかそれとも他の流れで生き延びているのかはわからない。
ということで今回は渋谷高間を追いかけて山梨県上野原市まで足を伸ばしてみました。
龍泉寺では本当に色々な貴重なお話をご住職にこころよくしていただき
とても有意義な時間をすごすことができました。
奥様のしなやかな心遣い、確りとした若住職。お嬢さんもとてもかわいらしくまた聡明。
とても気持ちのいいお寺だと感じました。
何でも檀家数は増えているようで今後も安心。また遊びに行きたいと思います。
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