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2017年5月22日月曜日

太田道灌ゆかりの地をめぐる

太田道灌 ご存知?
名前くらいは...
江戸城を作ったとかなんとか...

まぁそんな感じですよね。
僕もそうです。
実際どんな人なのかまったくわからなかったのですが
司馬遼太郎の箱根の坂などを読むと脇役でありながら
なかなかの大物のように描かれています。

おぉ?箱根の坂??
ということは伊勢宗瑞 北条早雲のことじゃないのかえ?
そう、主人公はね...
でもときに脇役として太田道灌が出てくるんですわ...
あれ?出てきたかな??いや 出てきた!笑

ということは同時代の人?

そうそのとおり!同時代!!

太田道灌は誕生が永享四年(1432年) 没年が文明十八年(1486年)
伊勢宗瑞は誕生が永享四年(1432年)または康正二年(1456年 こちらのほうが有力説) 没年は永正十六年(1519年)

だだかぶりなわけですw
そんな太田さんをお参りしに伊勢原にある道灌塚に行ってみました。
さぁ歴史の旅に出発です!ちぇけらっちょ




そもそも太田道灌って何者よ!

太田道灌は
①室町時代末期または戦国時代初期の武将
②扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の家宰(頭首代行)
③清和天皇の子孫、源頼光を祖とする摂津源氏の子孫太田資清の子

なにやったねん!
①江戸城をつくった
②長尾景春の乱で活躍

まぁこんな感じで覚えておけばいいんじゃね?
でもそれのどこがすごいの?
まぁね確かにその後の戦国武将の大活躍ぶりに比べればね
どうしても小さく見えちゃうよね。
それに太田道灌は徹頭徹尾家宰の位に留まった人なのでどうしても偉大な人物には見えないよね。

ナポレオンの言葉に「一頭の虎が率いる100頭の羊の群れは一頭の羊が率いる100頭のトラの群れに敵う」とある。

扇谷上杉...聞いたことある??
あまりないよね?

そう上が無能だったということなのでしょう。
でも無能な上司の部下は基本名前すら埋没するのに太田道灌は上司を差し置いて有名であるとするとそうとうな猛虎だったといえなくもないw

だから司馬遼太郎も箱根の坂で太田道灌をあたかもラスボスのような描き方をしているんですわ...



ところが太田道灌はしょうもない主君である扇谷上杉定正により定正の居館である糟屋館にて道灌入浴から出たところを曽我兵庫に暗殺されてしまう。
暗殺の理由として
定正が景春の乱で頭角を現した道灌に危機感を覚えたとか...
定正が協力関係のあった山内家の策略にはまってしまったとか...
伊勢宗瑞の謀略だとか言われてます。
いずれにせよどれだけ太田道灌が有能だったかの証明になりますよね。

これにより伊勢宗瑞と太田道灌との直接対決はなされなくなります。

太田道灌の亡き後、扇谷上杉家は弱体化
その後の伊勢宗瑞の侵攻を許してしまう羽目になります。


ちょっとまってよ!
その前に
そのちょろちょろ出てくる扇谷上杉って何者よ!
はい 関東管領です...

わかるか!

そうですよねわかる分けない。
実は関東は関西に先立って戦国時代に突入したといわれているほど複雑な状況になってました。んでいろんなもんがごちゃごちゃだったのでもう何がなんだかわからん状態だったわけです。

ということでかる~く関東の戦乱について話しておきます。

始まりは鎌倉時代。
鎌倉幕府が衰退して足利尊氏が室町幕府を開くわけですが
関東をほっとくわけには行かない
なぜなら武家の都鎌倉を中心とした関東にはもののふがいっぱいいる。
ほっといたら大変だよねw
んで鎌倉に鎌倉公方というまぁ長官を置くわけです。
その長官は足利将軍家の兄弟筋。由緒ある一族なわけです。

んじゃ関東管領とは?

実はその鎌倉公方を補佐する部下の役職のことで代々上杉家が執り行ってました。
簡単に言えば鎌倉公方家の家宰みたいなものです。

六代将軍(くじ引き将軍)義教(よしのり)さんの治世。
権力を集中させるため各地方の有力者の権力を阻害しようとし始めます。
当時関東で権力を集中させていたのが当時の鎌倉公方足利持氏(もちうじ)。
その関東管領は上杉憲実(のりざね)。
室町幕府に反発する持氏に対し、憲実は制止する立場。
徐々に持氏は憲実に不満を抱くようになる。そこで憲実を暗殺未遂。
憲実は関東管領の職をほっぽりだし、逃げちゃうわけです。
すると当然持氏は我が物顔!
それを幕府がほっとくわけない!w
逃げた憲実と幕府は組んで足利持氏を打とうとします。
それが永享十年(1438年)に起こる永享の乱です。
そこで鎌倉公方足利家は滅ぶび関東は実質関東管領の支配下に入るのですが...
嘉吉元年(1441年)嘉吉の変がおき、義教さんが暗殺されます。
なんか暗殺多いなぁ~w
そうすると関東で俄かに鎌倉公方復活の動きが出てくる。
持氏の子、成氏(しげうじ)が鎌倉公方に返り咲きます。
はじめはまだ幼少だった成氏だったので関東管領が関東支配を続行しますが
成人すると当然持氏の子ですw 自由に動き回ることになりますw
当然関東管領と対立するようになるわけです。

それで起こったのが...

享徳三年(1455年)、享徳の乱が起こります。

関東ではこれが戦国時代の幕開けといわれています。
代替わりした足利義政(よしまさ)は関東管領につくようになる。
んで駿河の国にいる今川家に関東管領に援軍を送るよう指示。
大挙して関東に押し寄せます。それにより成氏は常陸の国、今の茨城県に移り
そこで古河公方と呼ばれるようになります。

そのころ上杉家に命じられて関東のあちこちにお城を築いていたのが太田親子なわけですw それが江戸城など...

んで西関東は関東管領家上杉一族の勢力圏、東関東は古河公方足利家の勢力圏となるわけです。しかし公方家というのは関東における国王にも等しく、たとえ公式でないにせよ公方家を名乗る人を置いておくわけにはいかない。そこで義政は腹違いの兄弟、足利政知(まさとも)を関東に送ります。(義政の兄弟には同腹の弟、義視(よしみ)がいますが箱根の坂では伊勢宗瑞はその義視の下働いていたと描かれてます。)
ところが関西より先に戦国時代に突入している関東に入り込むのは大変...
そこでチキンな政知は伊豆に屋敷を建てて篭ってしまいます。
それが堀越公方です。政知は関東侵出狙っていたんでしょうがそのころに京都で応仁の乱が起きるわけです。そりゃもう関東になんていってる場合じゃないよねw

ということで関東は東に古河公方、西に関東管領、西南に堀越公方という鼎立状態になるわけです。

そのころの人が太田道灌というわけです。
あーつかれた...



加筆:関東管領上杉家は太田道灌が使えた扇谷家と別に山内家があるのですが
それはどう違うのか...ですが...
簡単にいえば分家と本家ですw
もともと山内上杉家が宗家で扇谷上杉家は分家だったんです。
だから本来関東管領というと本家である山内上杉家を指します。
ところが太田道灌の活躍で扇谷家が隆盛に成ってきたわけですね。
その太田道灌を主君扇谷上杉定正が殺害してしまうんですからまさに戦乱の世ですね。


さてではここからは太田道灌が活躍した長尾景春の乱について少し...

長尾景春の乱とは何か...

当時上杉家本家である山内家には長尾家という家宰がいた。
本家だけあって山内上杉家は広大な所領を持っており
その家宰である長尾家にも広大な所領があり
扇谷家の倍はあったといいます。
長尾家の党首 長尾景信が死去した後、家督を景春が継いだが
山内上杉家は家宰職を弟の忠景に与えた。

そのころ駿河、遠江を支配していた今川義忠(よしただ)が遠江で戦死。
家督争いが発生する。
扇谷上杉家は家督争いの渦中の小鹿憲満(こじかのりみつ)を支援するため
太田道灌を駿河に派遣する。

その留守の間に役職継承を不服とした景信が古河公方と結託して文明八年(1476年)に挙兵したのが長尾景春の乱です。両上杉家が対古河公方用にしていた五十子陣を景春は文明九年(1477年)2500騎で奇襲。それに両上杉は敗走したため景春側につく国人が増え両上杉家は孤立するのだが太田道灌の活躍により30回にものぼる合戦に勝ち乱を押さえ込み、関東管領と古河公方との和議まで果たさせ結果長尾景春の乱を含む享徳の乱を文明十四年(1482年)終結させる。

やはり道灌すごすぎやわ...

ということでやっと道灌塚へいきますよw

実は伊勢原には道灌塚が二箇所あります。
一箇所は首塚。もう一箇所は胴塚です。
んで今回は胴塚。

国道246の板戸交差点から県道611号線に入り大山方面へ...
山王中学校前交差点を右折。
もうものの一、二分で到着します。


目の前が広い駐車場になっているので車で来る場合は便利。

そこに道灌の胴塚があった...


中に入るとお墓がいろいろあります。
まぁ通常の墓地なのでしょうね
その奥に...



南無南無...
こんな説明文が...


なるほど文武両道の道灌ですがはじめは文学などどうでもよいと思っていたのでしょうね...。道灌のすばらしさは気づいて心を入れ替えるところ...柔軟な心が大きな器を作るのかもしれません。
たださ...ただ気にかかるところはね...道灌はそこでなぜ文学に目覚めちゃったんだろうね...一見すばらしいことなんだけどさ...
多分その乙女は道灌の無知を知らせるため山吹を差し出したんじゃなく
自分たちがとても貧しいのは為政者たちの問題だといいたかったんじゃないのかね?
ちゃんばらなんてしてないで民を思え!ってのが本心だったと思うけどね...
女心がわからんというのか人の心がわからんというのか...切り殺されてもおかしくなかったもののふにその乙女は勇気を持って山吹を差し出したのに、その相手は無知なばかりか気持ちをも察することができなかったなんてその乙女の気持ちも浮かばれんよな...

だからこのエピソードは僕にとって美談でもなんでもなく単なる道灌の勘違いエピソードにしか見えないw


しかしその乙女...どんな乙女だったのでしょうかね...
名前は紅皿だそうで新宿にお墓と伝えられる墓碑があります。

まぁそのあと山吹をさしだした紅皿さんは改心した道灌に招かれ江戸城で詩の友として交流を持ったといわれてますがね...

戻りは沸き側からではなく本来の参道?経由で戻りましょう。
いくつか立て看板があります。




あら観光めぐりを見ると近くにいろいろありますね。ちょっと回ってみたくなりました。


ではせっかくなのでこの近くにあったといわれる太田道灌殺害の場所でもある
糟屋館跡に行ってみましょう!

車に乗り込み駐車場を出て右折。すぐ左折です。

すると...なにやら史跡が...


七人塚だそうです。
こちら...



七人塚は太田道灌の部下の塚で殺害された太田道灌の首を持って逃げ洞昌院に逃げ込み
自害したといいます。九人いた部下のうち二人は後世に事件の真相を語るべく残ったということで、その子孫がこの塚の近くに健在で塚守をしているということです。
詳細:http://blog.doukan.jp/article/54451042.html

その塚のすぐ近くにあるのは

上粕屋神社です。立派な木がありました。




子供たちが元気に遊んでいました。

さて糟屋館ですがさらに先にあります。

車でこの上粕屋神社の脇を通っていきます。

そしてたどり着いたのが...


何にもありゃせん...w

何か碑などでもあるかと思ったのですが
本当に何にもありゃせん... 笑
伊勢原市ももう少し何とか整備すりゃいいのに...

奥に立っている大きな建物は
産能大学です。


第二東名関係の工事でしょうか...どんどん風景は変わっていってしまうんですね。
ここから南を見ると...
あれ?残念ながら写真がないw

まぁ相模の平野が辛くも眺めることができます。
昔はここ糟屋の地が相模の武士の中心地でもあったわけですね
果たしてどんなお屋敷だったのでしょうか...


太田道灌に会いに行こう!宿泊はこちら↓






歴史オタクの郷土史とグルメ旅さんのページによると糟屋館はこのような範囲だったようです...


え?? でっでかくね??
すごくね??
さすが関東管領の分家だけある...

しかしこの館...半分くらいが第二東名のインターチェンジに消えます... 悲しいね~
さて

ついでなのでちょっと足を伸ばして行きたいところがあります。

それは...

鎧塚古墳

車で走らせて伊勢原市立高部屋小学校を過ぎた先に
変な区画があります。


このようになぜか山でもないところや道の片側に隧道があるところの上には古墳などの史跡がある場合がほとんどなのです。
早速この脇の坂を登って行きますと...



忠魂碑があります。
ここの塚は実は戦死者弔いの塚なのです。



説明によるとこの塚は実蒔原(さねまきはら)の戦いの戦死者を葬った塚だそうです。
畑の中などに塚が点在しています。




実蒔原の戦いとは何ぞや...
それは太田道灌死後、本家と分家である山内上杉氏と扇谷上杉氏が戦うことになった長享元年(1487年)から始まる長享(ちょうきょう)の乱の中の合戦のひとつ。
太田道灌の息子資康(すけやす)は道灌死後追われる身となっていたが父親の敵を討つ機会を狙っていた。
同時に三浦半島を支配する三浦氏の婿養子で党首三浦高救(たかひら)は道灌の死に激怒。異母弟の扇谷上杉定正を打って党首に取って代わろうと画策していた。
その二人が扇谷上杉氏との対立関係が濃厚となってきた山内上杉家の顕定(あきさだ)の軍に参加。一気に糟屋館を制しようと長享二年(1488年)、武蔵鉢形城を1000騎の手勢で相模糟屋館に向かうが、川越城に滞在していた定正がこれに気づき200騎の手勢で追撃。ここ実蒔原で奇襲をかける。予想外の奇襲に顕定軍が潰走(かいそう)した戦い。
「原野血に染まって野草緑を替えにける」といった激戦だったようですがやはり土地を熟知した定正に分があったようです。ただ定正も薄氷の勝利だったようです。

さてこの三浦高救。この定正に取って代わり扇谷上杉家の党首になろうとしたことに激怒した義理父 三浦道寸により三浦家を追い出されてしまいます。
その後三浦道寸は岡崎城に移ることになるわけです。

どんどん歴史の点と点がつながっていきますね~

そんな流れです。



なんだか一気に室町末期の関東の歴史を走ってきた感がありますが
いかがでしたか?
次回はまた別の伝説をお伝えしますね。



太田道灌に会いに行こう!宿泊はこちら↓






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