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2017年5月3日水曜日

岡崎城址

岡崎城
といっても徳川家康の出身地のことではありませんよ?
神奈川県の伊勢原と平塚の境にある岡崎城です。

前回女性の伝説シリーズで記載しました五反田の乙女地蔵
そのお地蔵様のすぐ近くということでえっちらおっちら登ってみたわけです。

今回はそんな相州岡崎城をご紹介。




なんていいますけど決してお城の全容を見に来たわけじゃありません。
単に岡崎城の本丸だったとうわさされる無量寺に着ただけですw

乙女地蔵からは本当に目と鼻の先。
歩きでも10分も歩けばたどり着けます。


登ってくるとででーーんと表示があるのでわかりやすい。


でも別段何の遺構もありません。
まぁ無量寺の向こう側には堀跡などがあるそうですが
本丸のこのあたりは当時をしのばせるものはなさそうですね。

地図を見ると乙女地蔵が違いのがわかります。



今はなんとも裏寂しい感じですが
ここは西相模の国の中でも中央に位置していてとても重要な地。
城も堅固だったようで戦国時代を開いたともいわれる伊勢宗瑞(北条早雲)が落とすのに17年もかけたというからなかなかの城郭だったと思われます。

この相州岡崎城は前期、後期の二期に分けられるそうで
前期は平安時代末期から鎌倉時代までで岡崎義実(おかざきよしざね)築城の岡崎氏の時代です。
後期は室町時代から戦国時代の三浦道寸(みうらどうすん)の時代です。
そしてこの無量寺周辺はその後期、三浦家支配の時代の城ということになります。


前期の城はここより南西750mほどの距離にある岡崎神社あたりが本丸だったということでその名にもあるように岡崎一族が建てた城なわけです。
岡崎一族といえば以前平塚の塚で紹介した平真砂子姫の兄、高望王の子孫。いわば坂東平氏一門ということになりますね。
岡崎氏は健保元年(1213年)和田義盛の乱にて和田方についたため没落します。

前期相州岡崎城城郭

後期はここ無量寺周辺の岡崎城。
三浦道寸が義理父三浦時高(みうらときたか)を滅ぼしたあと、息子義意(よしおき)を三浦の新井城に置いた後、居城としたもの。


しかし永正九年(1512年)8月伊勢宗瑞の猛攻により陥落。
道寸は辛くも逃げ延び住吉城に移ったとのことですが結果永正十三年七月十一日、伊勢宗瑞により新井城で滅びます。
三浦義意といえば以前城ヶ島京急ホテルで紹介した小桜姫は義意の妻でしたよね...。
彼女は伊勢宗瑞を相当うらんだとのことでしたがいかがなものか...


後期相州岡崎城城郭

その後岡崎城は廃城となります。

とそんなことがこちらの看板にかかれてましたw


目の前は前期岡崎城があった岡崎神社周辺でしょうか...?
なかなかの高台であることがわかりますね。


お近くに行かれた際はぜひお立ち寄りください。
何もないですけど...w


参考資料
http://saiseigo1.blogspot.jp/2012/01/blog-post_09.html
http://www3.hp-ez.com/hp/magoemu/page12 ←こちらはとても勉強になります!
http://yogokun.my.coocan.jp/kanagawa/iseharasi.htm
https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1OujpJzfGzqfCvy4WDeXLYkgJa-s&hl=ja&ll=35.38845071757844%2C139.38472950000005&z=10

時代:
天安元年(857年)二月平真砂子姫死去
健保元年(1213年)和田義盛の乱
永享四年(1432年)一休宗純死去
永正九年(1512年)8月相州岡崎城陥落
永正十三年(1516年)七月三浦一門滅ぶ

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