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2017年5月19日金曜日

花籠の台 (江戸時代末期のストーカー殺人事件)

花籠の台
今回の伝説は花籠の台です。
花籠の台??
なんじゃそりゃ?どこにあるん??

まぁそうですね...
でもそこにはなんともいえない悲劇があります...

では行ってみましょう!
その悲劇の歴史へ...





場所は丹沢の南がわ
秦野市の隣、中井町。
東名の秦野中井インターといえばわかるかな?
インターから降りてすぐですが
ちょっと道はわかりにくい。
でも走りやすい道沿いです。


僕は実はこのあたりが大好きなんです。
平塚の湘南平から大磯、二宮、中井、渋沢丘陵、大井、松田、小田原の曽我丘陵あたりの丘が続くあたりです。
山下達郎の「僕らの夏の夢」。アニメ映画サマーウォーズの主題歌ですよね。
あの歌詞をそのまま抜き出したような場所。三浦半島とこのあたりにはそんな印象があります。夏、入道雲の下にこのあたりをうろうろするのがすきなんです。


そんな気持ちのいいエリアにあるこの血なまぐさい伝説。
逆説的に興味がわいてきてしまいました。

まぁここの丘陵は本来断層の東側...
地震の震源になりやすい場所という意味では少し危険な場所ではあるんですけど...

それは花籠の台...

今回の投稿の題にも書いた江戸末期のストーカー殺人というのは
あくまで僕の想像ですが...

その場所の周辺はこちら...


なんだかとっても穏やかな場所...
鳥のさえずりも心地いい...
それなのに...


説明の建て看板が...
そこにはこんな文面が書かれている。

江戸時代の末期、中村の女子と土沢惣領の男子との婚約が相整い、挙式の当日、花嫁は
花籠に乗り媒酌人や親類に付き添われ、行列を整えてこの地にさしかかった。その時、一人の若者が現れ、花籠の外から簾ごしに花嫁を刀で刺して逃げ去ったという。以来、花籠の台と名付け、婚礼行列の通行禁止の場所となった。


また、あるとき強情者がこの習わしを軽視してここを通ったところ、整いかけていた縁談も間もなく破談となったという伝説があるため、今でもめでたい時には遠まわりをし、決してここを通らないようにしている。
中井町教育委員会

こんな悲劇が...
そしてその建て看板を写真に写したところ...


っとこの写真何故か下のほうがこのように黒く...

花嫁の悲哀か...
どうか安らかに...

さてちょっと分析...

土沢惣領とは何ぞや何だけど
土沢というのは平塚の土屋周辺のこと...


前回、愛の地蔵でも紹介したあの夫思いの新妻の住んでいた場所です。
あのあたりは土屋、上下両吉沢を合わせて土沢と呼んでおり、明治期には合併して土沢村となってます。
惣領とは平安後期ころは荘園の後継者として武家の間で呼ばれた名称でしたが江戸末期においては農家や商家の跡取りを指すようになってました。
まぁでも惣領なんて貧しい家では呼ばないのである程度の資産を持っている方のところへとついでいる途中だったのでしょう。

中村とはどこか...
中井町の現在の町役場がある場所を昔は中村と称していました。
そもそも中井町は中村家が開いたといわれておりその名称なのかもともと中村という知名だったので中村姓を名乗ったかは不明ですがとにかく中村というのは現在の町役場周辺と思われます。現在もそのあたりに中井町立中村小学校というのがあります。


当然、いいところに嫁ぐわけですから出もいいところのお嬢さんだったのでしょう。
しかも籠に揺られていくくらいです。鳴り物入りの結婚だったのでしょうね。
そこに現れた一人の人...まぁ女性とは思えないので男でしょう。
だとするとぱっと想像つくのはやはりその女を好きだった男ではなかったでしょうか...?
ねっ?そう考えるとストーカー殺人ぽくありませんか?

江戸時代の末期とはどのくらいのころか...
江戸時代を慶長八年(1603年)から明治元年(1868年)までとして
単純に三分の一づつに分けると
前期 慶長八年(1603年)から元禄四年(1691年)
中期 元禄四年(1691年)から安永八年(1779年)
後期 安永八年(1799年)から明治元年(1868年)
ただし末期というと基本幕末をさすので
黒船来航の嘉永六年(1853年)~慶応四年(1868年)までを指します。
この看板を作成した中井町教育委員会が性格に年代区分をしていたとしたら
事件は嘉永六年から慶応四年の間に起きたということになりますね。

この道はまっすぐ進んでます。
元は馬場だったということです。
少し進むと五十塚とか六十塚なるものがあるようです。
戦国時代小田原北条軍と武田軍が争った場所だとか
小田原北条軍と三浦軍が戦った場所だとか色々言われており、昔は多くの五輪塔があったそうです。
何しろ血なまぐさい話...。花籠の台 名称もとてもきれい...なのにここは殺人現場なのです。

気になるのは愛の地蔵との共通点。その場所の前を通ると悲劇が伝播るという伝承です。
そういう伝承の場所はやはり危険地帯。
山賊だとか盗賊だとかが隠れ住んでいた可能性もありますね。

もう少し色々調べたいんですがなにぶんにも資料が少ない!
また情報がつかめたら加筆しますね。



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