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2017年5月25日木曜日

かりがねの松 (かりがね姫伝説)

今回は秦野市渋沢にひっそりと伝わるかりがね姫の伝説です。
女性の伝説を追いかけて神奈川のあちこちに足を伸ばしていますが
本当に色々あるものです。
しかしどれもまた悲劇ばかり...
人間ってのは人の不幸が好きなものなのでしょうね...

さてかりがね姫にあいに行ってみましょう...



僕はこのあたりが大好き。
平塚の西はずれから始まり小田原の足柄平野までつづく丘陵一帯のことです。
低めの山というかそれこそ丘ですね。
がつづきその向こうに相模湾が見えるこの感じがとてもすきなんです。
前回も書きましたが山下達郎の「僕らの夏の夢」を髣髴させてくれるんですね。
ここは三浦半島と同様、僕にとっては神奈川好きなエリアのひとつです。


そんな丘陵の小田原側のはずれ、秦野大井松田の境に渋沢丘陵があります。
ここは江戸時代は東海道の脇街道、矢倉沢往還として大山参りの人たちの通行となり...
古代は足柄古道として防人たちの主要街道として人通りもそこそこあったと聞きます。
その街道沿いに千村の集落があります。
千村は神奈川県秦野市に属しており、秦野市の西はずれにあります。

その千村の南側の丘を登った先にかりがねの松なる伝説の地があります。

東京側から行くと東名の大井松田インターでおり、国道255から国道246を秦野方面に入ります。渋沢駅前の交差点を通り抜けたら曲松の交差点から県道708号線に入りしばらく進むとトンネルがあります。そのトンネルのよりちょっと西側あたりがちょうど かりがねの松 です。お社があります。



この近くにハイキングに適した小高い山があり、その駐車場が個人協力で整備されており、参拝もしやすいです。


さて車を停めてそのお社へ向かうとすぐ目の前でしたw
ちょっとした小高い場所を登れば...そこに...


お社がありました!


今はかりがねの松はありません。松の脇にあったお社が残っています。


この神社は雁音神社といいます。
参拝の来る方は多いのでしょうね。花やお供え物がしっかりあります。
でも木製の灯篭があったのですがいくつも倒れてました...
ちょっと残念ですね...

お社の前には説明の看板が立ってました。


そのままデジタルで...
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<かりがねの松>  
この「かりがねの松」のお話は、いつのころのことがよくわかりません。  
そのむかし、千村(西地区)に宿場として京にのぼるのに、 また西からの大山まいりのお客などでにぎわった所だと言われています。 この千村に「ちむらわかされ」と呼ばれる辻があったんだそうな。  
そんなむかしのある日のことですと。  
その日は大へんに寒く、いつもなら旅人でにぎわう「わかされ」ですが、 さっぱりと人通りがなく、ただ寒い西風が吹きすさび粉雪を舞い上げていたんだと。 ぴゅうぴゅう吹きすさぶ西風に送られて来られたのでしょうか。 それはそれは美しいお姫様がただひとり、とぼとぼと・・・・。  
お姫様は「わかされ」まで来ると、 急に胸をかかえよろよろとひざまづいてしまったのだそうだ。 そんな姿を見た村人はおどろき、お姫様をだき起しました。 そして、あれやこれやといたわり、手厚く看病しましたがそのかいもなく、 村人にだかれたままとうとうかえらぬ人となってしまったのですと。  
お姫様は、苦しいいきの中から、
「わたしは都の者でございます。なまえは「かりがね」と申します。故あって・・・。」 と、そこまでやっと話されましたが、 あとの声は小さくなっていき聞きとることができなかったそうだ。 村人たちは、あまりの急な哀しい出来ごとにほろほろと涙を流し 「かりがね」をねんごろにわかされにとむらいました。 そして、そこに一本の松を植えました。  
 松はすくすくと大きくなり、そのみごとな枝ぶりは口ではたとえようもありませんでしたと。  
 一枚一枚の松の葉はかりの羽のように。大きな枝は羽をひろげたかりのように。 村人の中には「姫よりも美しい松」と言うものさえでてきました。  
 いつの間にか、だれ言うともなく、 その松を「かりがねの松」とか「かりがねの姫」と呼ぶようになり、 姫の美しさとそのあわれさをしたって、 松と一緒にいつまでも語りついてきたのだと言うことですと。
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とこんなことが書いてありました。
うーんなんとも情報量の少ない伝説...
まぁ伝説というのはとかくそういうものなのですが...
時代がわからないとあります。

1.年代はいつ?

大山講が隆盛となったのは当然江戸時代以降ですが...
江戸時代のような気がしません。
なぜなら江戸時代の京女性は矢倉沢往還を通行できません。
足柄関所の女性の通行は地元民に限られており遠方からの人は基本通行できないはずです。ということは東海道を使うのが当然でここ矢倉沢往還を通行することは稀有だったのではないでしょうか?
だとすると戦国期以前と思います。
一説によるとこの姫は鎌倉に向かう途中だったとのこと...
江戸とはいわず鎌倉...
だとすると早い時期だとしても平安末期から鎌倉、室町、戦国のころだろうか...
ただ室町、戦国期は女性がとぼとぼお使いになど出れるわけがない...
室町期は関東はすでに乱戦状態だったし、戦国期はそれ以前に多分足柄峠を越えることすら難しいと思われる...
だとすると平安期か鎌倉期ではないか...?確かに前回書いた平塚の語源となった平真砂子姫は平安期に京から下ってきている...

2.この姫はだれ?

そもそも本当に姫だったのでしょうか?
「かりがね」という名前を村人に伝えているだけ...
しかし江戸時代ならまだしも室町以前の女性が関西からこちらまで旅行しにくるとは到底考えられない。だとするとやはり何らかの使命を帯びてきているのではないかと考えられる。だとするとやはり高貴な身分の可能性は高いですよね。先述した平真砂子姫は京から下ってきています。
そして名前の「かりがね」ですが本当に名前を名乗ったのか不明です。
もしかしたら着ていた服に雁金紋がついていた可能性も考えられます。
これも江戸時代以降ならまだしも...紋付の服などを着る身分はある程度の階層以上。
千村は街道の宿場町、皆多少の知識はあったはずです。紋付の服をみて高貴な方だと考え姫と敬称した可能性は当然ありますよね。

雁金紋といえば真田家家紋として有名ですよね。
紋の詳細はこちらの説明に譲るとして...
とすると古代豪族滋野氏から出た信濃の海野一族の紋だとか...
この紋は信州と縁が深いらしくその後清和源氏頼季流の 井上・赤井氏などが利用。
その他に小串氏、進藤氏、大西氏、高宮氏、越智氏、 飯尾氏・高安氏、大芋氏などがりようしているとか...
その中で相模の国に関連しているのは滋野氏、海野氏と井上氏。

滋野氏といえば滋野貞主(しげのさだぬし 延暦4年(785年)~ 仁寿2年2月8日(852年3月2日))が相模守を承和元年〈834年〉7月1日 - 承和2年〈835年〉8月14日まで勤めています。しかし平安期は基本国司の守は下向しないので多分関係ない。

海野氏といえば海野幸氏(うんのゆきうじ)が文治6年(1190年)頼朝の射手として鶴岡八幡宮の弓始めに参加。
建久4年(1193年)の曾我兄弟の仇討ちの際には、頼朝の護衛役を務め負傷。
建暦3年(1213年)の和田合戦、
承久3年(1221年)の承久の乱にも出陣。
嘉禎3年(1237年)7月にも執権北条泰時の孫時頼に流鏑馬を指南、更に鶴岡八幡宮で騎射の技を披露。
鎌倉期あと建武2年(1335年)に起こった中先代の乱では、北条時行軍に海野幸康が参じ、鎌倉に攻め上る。
でも基本信濃からの出張なのでやはりこちらも関係が薄そう...

さてでは井上氏はどうか...
源満仲(多田満仲)の子源頼信が長元元年(1028年)の平忠常の乱を平定して東国に勢力を扶植とある。後述するが確かに神奈川北部に井上氏なるものが室町期以降に登場する。
うーん井上氏系列が怪しいのか...?しかしこちらも基本は信濃。京から姫が下向してくるという意味では少し薄い気がする。

うーんどれも望み薄ですね
個人的には滋野氏の姫であってもらいたいんですけどね...。

3.なぜ一人?

天下泰平の江戸時代ですら...否、現在ですら
女性の一人歩きはやはり危険ですよね。
それなのに女性がなぜ一人だったのか...
いや一人であるはずがありません。
仮に姫階級でなかったとしても旅芸人や遊女のような類でも
一人旅などありえない話です。

多分複数での旅路だったはずです。
何らかの理由ではぐれたかそれとも計略にはめられた可能性もありますね。
行き倒れしているところを見たらもしかしたら計画的だったのかも...


まとめ...

かりがね姫とは何者か...

戦国期以前の女性。ただし村人が姫と敬称するほどにはよい身なりの人。
どこぞかの姫だと仮定すると東国豪族などへの婚姻かまたは国司階級(ただし守ではない。派遣される階級、介、)の息女で東国派遣に随行、ただし頭首とは別行動にて赴任地に赴く途中だった。
そこで従者との何らかのトラブルまたは計略にはまり一人はぐれる羽目になる。
鎌倉に行けば何らかの頼りがありそこまで一人行こうとしていた。

私個人の見解としてはこのような感じでしょうか...?

かりがね姫に会いに行こう!宿泊はこちら↓






さてそこでなのですが...
ネット上にこのような怪奇な話が載っております。

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前に他のスレに書いたやつだけどこの歌とか知ってる人いるかな?

昔修学旅行中に先生から聞いた話

【雁姫様】

先生が小4まで住んでいた町はど田舎で子供の遊び場と言ったら遊具のある近所のお宮だったそうだ。
そのお宮には元々祭られている神様とは別に雁姫様と言う幼い姫君が祭られていた。
雁姫とは昔ある藩からある藩へ幼くして嫁いでくるはずだった姫なのだが嫁ぐ道中で病により亡くなりこの地に葬られたらしい。

ところでこの土地の子供達の間では【雁姫様の鏡】と言う遊びが流行っていた。
内容は雁姫役の子供を中心に数人で円を作り手を繋いで歌いながらぐるぐる回るあーぶくったったの様な遊び
歌の歌詞は姫役と周りの子で歌うパートが異なっていて確かこんな感じだったと思う。
周りの子「1つお進みください雁姫様」
姫「ここはどこぞ?」
周りの子「ここは常世でございます」
周りの子「2つお進みください雁姫様」
姫「ここはどこぞ?」
周りの子「ここは浄玻璃鏡の間」
周りの子「3つお進みください雁姫様」
姫「ここはどこぞ?」
周りの子「ここは鳥辺野石灯籠」
周りの子「4つお進みください雁姫様」
姫「ここはどこぞ?」
周りの子「ここはうつし世鳥居の間」
そう歌い終わると姫役の子は12を数えその間に他の子は逃げたり隠れたり。まあ一種の鬼ごっこだわな
でその遊びには1つルールがあってお盆と姫の命日にはやってはいけなかった。
でもお盆はともかく姫の命日が2月とか12月とか曖昧で命日はあまり気にせず皆遊んでいたそうです。


その日は冬とは言えぬ程暖かい日で先生は友人達とお宮の境内で駄菓子をつつきながら漫画の回し読みをしていました。
暫くして駄菓子も無くなり漫画にも飽き先生達は【雁姫様の鏡】をして遊び始た。
一度目は友人Aが鬼(姫)、次はB、次は先生と何事も無くいつものように楽しく遊びは進められて行ったのですが異変はCが姫役になった時に起きました。
Cが12を数えている内に先生とBは一緒にお宮の階段の裏側に素早く潜り込んで息を潜めていました。
その間AをCが追いかけているのを見て2人してほくそえんでいたそうです。
暫くするとAとCはお宮の裏側へ消えていきました。始終AとCの楽しそうな悲鳴が聞こえます。

どれ位そうしていたでしょうか?先生とBはいつまで経ってもCが見つけに来ないので痺れを切らし外へ出ました。
もう賑やかで楽しそうなAとCの声が聞こえません。
先生はさては2人して先に帰ったなと思ったそうですがそうではありませんでした。
突然後方からBの耳を劈くような悲鳴が聞こえました。先生は急いでBの元へ駆けつけました。
そこではCが蹲って何やらぶつぶつ喋っています。
先生はどうしたのかとCの肩に手を置くとその瞬間Cがもの凄い勢いで振り返り先生を突き飛ばしました。
振り向いたCを見て先生は絶句しました。Cの顔が歪んでいる・・・いいやあれはもう1つの顔が重なっているような異様な顔
次の瞬間Bが大声で「逃げろ!」と叫びその声で正気を取り戻した先生はBと共に全力疾走で近所の民家まで逃げたそうです。

さてその後なんですが先生とBは逃げ込んだ民家から家に連絡して親に向かえに来てもらい
事の一部始終を話したのですが全く信じて貰えなかったようです。
それもこれもその後AとCは何事も無かったように其々の家に帰宅し後日2人して先生とBの家を訪ね
「何で先にかえっちゃうんだよ心配したんだぜ」といつもの元気な姿を見せたからでした。
その後先生は東京に引越し何時しかその地域の子供達とも疎遠となったのですが
先生は今でもはっきりとCの歪んだ顔とつぶやいていた言葉が忘れられないそうです。

さぶらいびと・・・うしろみたち我も共に・・はかなくともてなされしに・・・・・・
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まぁ怪異話は基本作り話なのですがやたらと設定が極似しています。

まずは雁姫 かりがねを雁と一字で表す場合もある
次にお社  この話ではお社は神社境内にとありますがこの雁音神社の近くには白山神社があり、そこには広い境内があります。ただし遊具はなし
姫の命日  冬とありますね

「さぶらいびと・・・うしろみたち我も共に・・はかなくともてなされしに・・・・・・」ですがネットでの見解では
さぶらいびと=侍人
うしろみたち=御後見達(この場合は世話する人達の事かな?)
はかなくともてなされしに=亡きものにされた
とこんな解釈をする人もいます。

ここでは雁姫はある藩からある藩へ嫁ぐ途中とありますがね
当時どこぞかの藩からどこぞかの藩へ嫁ぐ場合には相当仰々しい列になるはず。
姫を一人罠にはめて、はぐれさせるなんてのはほぼ不可能。
だとすればまぁ設定としては戦国前がいいですよねw

さてこの話と千村の関係ですが地元民に伺ったところ【雁姫様の鏡】
なる遊びは聞いたことがないとのこと
ただし千村の裏側、ここでは南側、峠地区の人たちには確認していません。

まぁこの手の話は多分ですが日本全国あちこちにあると思います。
でももし千村周辺の地元民がもともとあった話をネタに創作したのなら...
なんとなく面白いです。


<参考資料>


さてついでといっては何ですがその白山神社にも行ってみました。
なにせ歩いてすぐ...
200米だしねw



坂を下りたらすぐの場所にありました。


鳥居立派です!


そして...


でで~んと杉の巨木が...



なになに?神奈川の名木100選だそうです!
秦野市の天然記念物に指定されています。
樹齢800年!


ということは1217年ころ産声を上げたことになりますねw
健保年間!鎌倉時代です。順徳天皇、後鳥羽上皇の院政時代です。将軍は源実朝(みなもとのさねとも)、執権は北条義時(ほうじょうよしとき)。
もしかしたらかりがね姫にも会っているかも...

さぁ階段を上りますよ!


きたーーーっ!本殿!


あれ?結構立派!

手水舎もあります。


おくにはお祭り用ですかね
スクリーンがある舞台まで...
夏祭りとか楽しそうですw


うーん 遊具はありませんね...

お社に向かうと...
おぉぉ やはり彫刻など結構しっかり作られてる。


うん なかなかいい形のお宮です!
神奈川神社庁冊子が置かれてました。
お神札のある生活なる冊子も無料で配布されてます。

なかなか荘厳な感じでいいと思います!

皆さんもぜひ訪れてみてください。



ちなみに「新編相模風土記稿」によると成立した天保12年(1841年)ころの千村の世帯数は91。「人馬継立てをなす。」とあります。足柄上郡松田惣領から本郡曽屋村十日市場まで一里八町を継送るとのこと。
小名(こな)として原庭、中屋敷、後口庭、西ノ庭、堀之内、池田、向ヒ庭、沼代、長坂があったとか...
元禄十年(1697年)石高は189.8石 天保二年のそれは247.45石ほどだったようです。


かりがね姫に会いに行こう!宿泊はこちら↓







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