GCS step1

全国のライブカメラを地図上に表記

 全国のライブカメラの位置です。 いろいろご利用ください。 https://www.google.com/maps/d/edit?mid=12xkj87OQ_G_CbWapzBhV-c4lc6CExdPl&usp=sharing

2017年6月6日火曜日

矢口長者伝説

さていよいよ書き始めるか...
といった感じなのですが
神奈川の伝説を渡り歩く私ですが
今回はいよいよ矢口長者について手をつけたいと思います。

矢口長者伝説??

まぁわからない話でしょうが丹沢山塊に伝わる伝説で
宮ヶ瀬の伝説です。
宮ヶ瀬? ダムの??

そそ

ダムの宮ヶ瀬です。
その宮ヶ瀬に伝わる伝説で
矢口長者伝説というのがあるのです。
この回は特に力が入ってますのでどうぞご覧くださいませ!



このエントリーをはてなブックマークに追加



そもそも矢口長者伝説とは何ぞや?
まずはその伝説から...

こちらがわかりやすく記載されています。
http://onboumaru.com/077-yaguchichouja/
http://www.sagami.in/reki2/miya

うーん...
惨殺の気運...
ちょっと恐ろしい話ですね。
以前書いた折花姫の話にも類似した部分もあります。
当時の村人たちの惨たらしさを感じます。

と...

ちょっと待ってくださいね。
この話もちろん伝説です。
伝説というのはとかくおひれはひれがついてきますし
各地の伝承が伝わって土地に根付くなどのこともあります。

本当に矢口長者いたんですかね?

まずはその地に行ってみましょう!
最近は圏央道なるものができて丹沢山塊にもアクセスしやすくなってきてます。

東京方面から向かうと圏央道に入ってから相模原のインターで降りるといいでしょう。
県道510号線を西に向かうと国道412号線とぶつかります。
こちらを厚木方面に向かい半原小学校入口交差点を右折。県道514号線をしばらく進むと大きなダムが見えてきます。
そのダムに目もくれずw
どんどん進みます。

いくつかのトンネルを越えてやまびこ大橋交差点を右折。

するとちょっとした集落があります。
このあたりがダム造成により移転してきた宮ヶ瀬村の集落です。

そしてその集落を進んでいきます。
するとヤビツ峠という案内標識が出てきます。
その先に宮ヶ瀬北原交差点が見えます。
そこを左折です。
その道をズイズイ進んでいきます。
トンネルを超え、霊園を左手に見つつ進みます。

このあたりから道はどんどん狭くなっていきます。

その先に通行止めの橋が左手に見えます。
それを超えた先に

長者屋敷キャンプ場なる看板が見えます。

そこが矢口長者伝説の地です。

冬季11月から4月までは閉鎖されているので中は見れません。
開園時は入場料400円なのでキャンプしないまでも行ってみることはできます。




時々ここのキャンプ場の下、河原沿いを矢口長者屋敷と勘違いされている人もいるようですが、この長者屋敷キャンプ場の場所こそが矢口長者の屋敷跡と思われます。


さてこの伝説は付随して色々な話があります。

川の真ん中にあった小島を江ノ島と見立てて名前を江ノ島とした...
その江ノ島には金の橋を掛けた。
江ノ島にはお社があった。
正月には鶏が鳴いた。

などなど...

GoogleMapで見てみると...


あるじゃないですか!?
今はもう島というより単なる岩になってますが...
実際現地に行ってみたらこんな感じです。


見える!見えるぞ!僕にも見える!
あれが江ノ島ですねw

昔はちゃんとした島だったそうですが
今は単なる岩です。

さて女性の伝説を追いかけている私、当然矢口長者の娘の最後の地を見つけたい...
しかし残念ながら見つけることはできませんでした。
二十ヶ沢はこの中津川の対岸で現在は山登りでもしないと渡れません。



ただし第二の候補地である御殿の森はこの長者屋敷の真上です。
御殿の森には祠もあるようで以前はそのなくなった女性の遺髪とか簪が祭られてたとかの伝説もありましたが今はないようです。
でもこの御殿の森は矢口長者の妻がなくなった場所とも言われどちらかは不明です。



しかし...
本当に矢口長者いたんでしょうかね...?

「新編相模風土記稿」では.第3輯 大住・愛甲・高座郡のなかで宮ヶ瀬村と称し
「応永の頃、矢口信吉という者、開墾の地と伝」とあります。

長者屋敷鋪墾の項には

「坤の方山中にて。布川に臨みし陸田を云。(方二町許の平地なり。)當村(当村)を開墾せし矢口入道信吉の住みし所なり。信吉後人に害せられしと伝のみ。詳なることを傳へす。又村落より西方(三十町許を隔。)山中に御殿森と稱し。樹木繁茂し所あり。是信吉の女父と共に害せられし時。其髪毛を埋めし所と伝。」

とあります。二町ほどの平地ってことだから6000坪結構広いね。距離は村落より西方三十町なので3kmちょいってところですね...



続いて布川の項には

「布川(奴乃可波) 中程を流る。域は宮ヶ瀬川とも呼。北方にて鳥屋川に落合しより下流を中津川と號す。(幅十五間。)河中岩あり、(竪十五間。横五間許。)雑木生して孤島の如し。昔辨天の小祠ありしを以て、江ノ島と字す。」

とあります。

さらに熊野社の項には

「熊野社 奥野権現とも號す。古は古鰐口を(銘に應永元年九月十六日。矢口入道信吉長者とありしと伝傳ふ)神體とせしが、今は失す。」

とあります。
うーんまぁ言い伝えとはいえ、天保十二年(1841年)ころからすでに矢口長者の名前が出ているということはそれだけこの伝説は長く伝えられているということなのでしょう。
実在した人物の可能性も高くなりますね。しかも「害せられし」とあるので殺されたということです。うーん伝説の真実味がますます増してきます。

応永(應永)といえば室町時代。
明徳五年(1394年)七月に改元。明徳五年に一休宗純が誕生しています。
応永元年(1394年)は足利義満が征夷大将軍になった年です。

鰐口に応永元年九月とあるということは改元を早く知る人物だったということでしょう。
鰐口(わにぐち)って何やねん!
鰐口ってのはよくお寺とかの本堂のところにかかっているたたくと音の出る銅製の鐘があると思います。あれのことを鰐口というそうです。

製作著作:うぃき野郎

相模風土記には失われているとかかれてますが何故か今は清川村宮ヶ瀬湖水の郷交流館にあります。




以前は宮ヶ瀬小学校管理のものだったようです。県の重要文化財に指定されているようです。それほど大きなものではありません。手のひらサイズよりちょっと大きいくらいですかね?

清川村宮ヶ瀬湖水の郷交流館にはこんな展示もありました。
昔の宮ヶ瀬の写真です。
明治初期。ベアトが撮影したようです。


それと長者屋敷とは別に表の屋敷なる建物があったようでその遺跡の写真もありました。



後述しますが表の屋敷は井上氏の屋敷ではないかと目されています。

こちらのページに昔の宮ヶ瀬の写真が掲載されています。

矢口長者伝説の謎を解け!宿泊はこちら↓








清川村のホームページには「熊野権現(今はありません)神社のご神体として、祀(まつ)られたものといわれています。鰐口には応永3年(1396)と刻まれ、当時信仰の厚さがしのばれます。」と書かれていました。
応永三年?? あれ?ちゃうやん!でも昔のことですからね。数年の間違いはあるのかも知れません。
県のホームページには宮ヶ瀬小学校鰐口として登録されています。
奥野権現は確かに現在はないようです。

奥野権現があったとされる権現平

このあたりが権現平...
昔、大正の頃まではこのあたりにお社があったらしいですが堰のために水没したとか...


さて実はこの矢口長者伝説に魅せられた一人の男がいる。
その名も落合清春氏。
厚木市立三田小学校教諭だ。
その落合氏の論文
落人・矢口長者伝説の研究
-丹沢三六中世史の一断面-
なる本が出版されている。



是がなかなか面白い。
矢口長者伝説は山中他界感、隠れ里伝説、椀貸し伝説、落人伝説、長者伝説の構造をそれぞれ含んだ伝説形態であると説く。
山中他界感は自然畏怖から来る原始的宗教上の観点。
隠れ里伝説はユートビアの体現であるとし、
椀貸し伝説は財宝のありか、富の蓄積の場所を彷彿させる。
落人伝説は村落の固定化とそれに付随する生い立ちの必要性を説き
長者伝説においては湖山長者伝説と炭焼長者伝説とにわけ湖山を没落型、炭焼きを繁栄型とといており、矢口長者伝説はその根幹は炭焼き系でありながら没落という湖山系の要素を含んでいると説いている。

因みに湖山長者伝説で言えば日招き伝説が内包しているのだがそういう意味で言えば前回お伝えした伊勢原の伝説乙女地蔵はまさに長者の息子の嫁が日招きをし、結果五反の田の稲は実らないという一種没落系の話だった。


なお湖山長者は里の長者で田畑を所有する土地長者に対し炭焼長者は金や炭鉱はては金融という事業による財という話だ。この物語の形成期は昔ながらの土地所有者有利の時代から鉄や金鉱または金融などの新しい財産形成を成した人たちへの経済基盤の移行期における伝説形成の可能性が高いとのことだった。

簡単に言えば宮ヶ瀬の村落が村としてのある程度のまとまりが必要となった時期にこの伝説は形成され伝承されたのではないかと結論付けている。

では矢口長者はいなかったのか...

しかし落合氏は矢口長者はいたとほのめかしている。
それは先ほど書いた鰐口だ...
是も前述したが鰐口には銘文が刻まれており、そこには「■村■木野熊野権現■■ 應永三季丙子九月日」裏銘が「大工横路六郎次郎 檀那弥内入道」と記載されているそうだ。■の部分は不明。


弥内と矢口...似ているじゃないか...
しかもこれは奥野権現のご神体とされていた鰐口。
さらに相模国風土記稿には応永元年とあるがこの銘文、文字の読み書きができなかった大工の横路さんがお手本の字を見よう見真似で彫った可能性があるので字が読みにくいとのことである。元年と三年を書き間違えた可能性もある。

落合氏はこの弥内氏は権現信仰の厚い紀州の鉱山採掘者だと位置づけている。
山間部を生活圏とする修験者から丹沢の地に鉱脈があることを教えられ入植したのが弥内一門だったのではないかとしている。理由は伝説内各所にある金などの鉱物資源。
そして長者屋敷周辺の金などつく地名及び出土したカナクソ。そして椀貸し伝説である。
椀には朱が使われているがそれは鉱物資源から採取される意味を含んでいるとのこと。
伝説自体はあくまでも輸入品としながら弥内一族が鉱物資源を生業とした一族であることを間接的に表現していると説いている。一族が移住するとその一族の崇拝する神、ご神体も移住するそうでそれが鰐口だということです。
弥内は鰐口を抱えてここまでたどり着いたのではないか?その鰐口を屋敷の裏鬼門である権現平にお社を建て奉納したのではないかと結んでます。

確かに宮ヶ瀬には坑道がいくつか発見されてます。

しかし僕は少し気になる点が...ネットで調べたところ
まず弥内。意外にありそうな名前だが実は弥内なる名前は現在日本ではほぼ皆無。
そして横路だがこれはなんと現在日本では1000人程度しかいない苗字。
しかもその大多数が広島に在住しているようです。それも気になりますね。

ではなぜこの伝説は形成され伝承されていったのかですが...

そもそも宮ヶ瀬は婚姻の数からも隣村である鳥屋村とのつながりが強く
その枝村としての位置づけだったのではないかとのこと...
枝村だったころは世帯数もあまりなくいわば有史以前状態だったのではないかと...


そしてこの弥内入道を宮ヶ瀬有史後初めての入植者(文明的な)とするなら
その後津久井の青野原からやってきた井上氏が隆盛を極めるが
次いで川瀬氏が台頭しはじめ、幕末は山本氏が村政をつかさどることになる。
落合氏は矢口長者伝説の伝説形成は二期あり、その第一期形成期が戦国末期から江戸時代初期だったのではないかと説いています。

そもそも実在した弥内氏の話を下地に新入植者井上氏がその正当な権力継承のため自らの入植を重ねたとあります。
清川村宮ヶ瀬出身の歴史学者沼田頼輔(ぬまたよりすけ)氏は幼少のころ宮ヶ瀬由来記なるものを見たと証言しており、そこには「応永の頃、青野原(現津久井郡津久井町)からきた井上某」が宮ヶ瀬の開拓者であると記載されていたと述べていたそうだ。その由来記なるものは現在は所在不明です。

井上氏が隆盛を極めるのは16世紀から17世紀頃、宮ヶ瀬の菩提寺ともいえる長福寺の創建は1550年~1598年頃だそうだ。

時はすでに戦国末期

天正十八年(1590年)に豊臣秀吉により小田原征伐が成されています。

そのころは村落の流動化がなくなり固定化が始まるころ...
ムラ社会のアイデンティティが確立し始めることに
井上氏は清川村の歴史を乗っ取ろうとしたと考えるとわかりやすいですね。
あたかも国譲り神話のような話ですw

しかし弥内入道の威光は強かったのか奥野権現の影響は払拭できなかったと僕は考えます。井上氏はこの前のかりがね姫の項でも記載したとおり信州に清和源氏頼季流の流れを汲む井上氏がありました。多分この青野原の井上氏もその系統を組んでいるんだと思われますが津久井周辺の井上氏が氏神としているのは諏訪神社だそうです。そのため諏訪神社は津久井各所に見られます。宮ヶ瀬の本村鳥屋ですら諏訪神社があるのですが、



何故か宮ヶ瀬のみ熊野神社が氏神となっており、落合氏は諏訪神社との合祀との説を採ってますが私はこれは井上氏が弥内氏を払拭し切れなかった結果のように感じています。



落合氏はやはり宮ヶ瀬出身だけあって地元の印象を悪くしたくなかったのだと思いますが弥内氏は鉱脈が枯れた頃、鰐口を置いてこの地を離れたと結んでいます。
ここからは私見ですが...。
僕は実際には弥内氏の殺害事件はあったのではないかと思います。
それも井上氏を主軸とする村民らが手を掛けたのではないかと考えてます。矢口長者伝説では加勢を鳥屋地区からも呼んだとあります。そもそも親戚関係だった鳥屋の住民も含め金鉱経営で財を成した弥内または矢口氏を一網打尽にしたのかもしれません。
もし弥内氏が単に新しい鉱脈を探すたびに出たとたら、ご神体である鰐口を置いていくとは思えません。今まで持ち歩いてきていたものをおいていくでしょうか?そして伝説においてもわざわざ害すると伝える必要もありません。
それに宮ヶ瀬住民があえて自分たちの氏神である諏訪の神様を祭るのではなく、襲った相手の守護神、熊野神社を地域の氏神にする理由は何か?と考えるとふと頭に浮かぶのはやはり菅原神社ですよね。要は惨殺されたり惨めな末路をたどった相手の怒りを静めるためにその相手を神として祭る。そういう意味での鎮魂の伝説、鎮魂の碑とでも言うべき意味合いがあったのではないでしょうか?

落合氏もこの第一期伝説形成期の江戸初期には飢餓やら地震やらが続いたと記述しています。

当然村人としては殺害した弥内一族の恨みと考えてもおかしくはありません。

ただ付け加えたいのはだからといって宮ヶ瀬や鳥屋の地区の人達を非道な人達といいたいわけではないということです。室町期初期は南北朝時代で世の中は戦いに明け暮れ、同じ幕府といっても江戸時代とは大違いであちこちで戦乱が勃発していた時代です。特に関東は都からも遠く政情は不安定の極み。ドサクサ紛れにあちこちで民衆同士の小競り合いもあったはずです。津久井の井上氏は僕の見立てでは清和源氏亜流の武士の端くれ。当然土地やその地の富をめぐって争乱がおきても不思議はない。要は当たり前のことだったわけです。

落合氏は矢口伝説について第二期形成期は幕末としています。
寺子屋などの普及により矢口長者。弥内氏が突然いなくなった点の説明を求められるようになり殺害という形にまとめて言ったというもの...
神聖な土地が徐々に忌み地となっていった経緯や
神聖なお供えものが逆に供えてはならないものに変化していく経緯
はては高度な技能集団が戦国時代に集められそれが敬意を払われる存在から徐々に賎視されていく過程なども引き合いに出し、弥内という異端者を排除する傾向に変化していったと説いています。
一理あるかも知れませんが逆に弥内一族がこの地を離れたという明確な証拠も提示されていません。その点においてこの考えは少し未熟と感じます。
後半の落合氏の説は結構強引な感じすらする。

ただし新田義貞家臣矢口氏との結びつきについての見解については同意見です。

さて氏は後半を他の伝説を引き合いに出し持論を展開しています。
そのかなにはすでに紹介した折花姫の話もあります。
そこには宗教伝播者としての女性宗教者の影が見えるということです。
そちらはなるほど面白い。
折花姫と対になって語られているのはこちらはまだ紹介しておりませんが
雛鶴姫の伝説があります。
いずれ紹介したいと思います。
この伝説も含め女性宗教者が歩んだ経路上に姫達が逃げていく道が重なるのではないかとといています。そしてこの矢口長者伝説を含めた三伝説は元は同じ伝説だったのではないかとつなげています。なお是も以前紹介しましたが照手姫の話も念仏比丘尼が触れ回ったといわれていますがその物語も系統としては同じで、語り手として念仏比丘尼に焦点を当てています。

そういえば照手姫は美濃国青墓宿万屋の君の長夫婦に買われています。美濃国青墓宿は今の岐阜県。東山道の宿場町。多くの遊女がいたといわれます。しかもその道は信州をとおりそこから甲州街道につながります。当然甲州街道は道志、津久井を経て鎌倉へつながります。

面白い見解だと思います。確かに似通った点が多いと私も感じてました。

気になる点はいろいろありますが矢口長者伝説に興味があるなら落合清春氏の著書は必見です!




矢口長者伝説の謎を解け!宿泊はこちら↓







このエントリーをはてなブックマークに追加

0 件のコメント:

コメントを投稿