GCS step1

全国のライブカメラを地図上に表記

 全国のライブカメラの位置です。 いろいろご利用ください。 https://www.google.com/maps/d/edit?mid=12xkj87OQ_G_CbWapzBhV-c4lc6CExdPl&usp=sharing

2018年2月27日火曜日

【您好、臺灣(台湾)!】夜の中正紀念堂に行ってみた!



中正紀念堂
いやーーーっ自分の無知さが恥ずかしい...
ここ孫文の霊廟だとばかり思ってましたw
違いますね。済みませんでした。蒋介石でした。
台湾観光では一度は行くであろうここ、中正紀念堂です。



このエントリーをはてなブックマークに追加


中正紀念堂には今回の旅行で二回いきました。
初日の夜と二日目の午前中です。

夜はとぼとぼと歩いて二二八和平公園から総統府を経由してココまで
午前中はMRTできましたよ。

さて僕はてっきり孫文の霊廟だと勘違いしていたココですが
まぁ蒋介石の霊廟だったと知り驚いた次第ですw
中正紀念堂を訪れる前に少し知識を蓄えておいたほうが良いですよね。

ということでまずは当時の中国史から...

しかしあの時期の中国は本当に難しい。
いろんな人物が割拠しています。
まぁ歴史の転換点はとにかくそんな感じ
日本の明治維新の頃
勝海舟が西郷隆盛が大久保利通が高杉晋作が桂小五郎が中岡新太郎が坂本龍馬が板垣退助が新撰組が右往左往してほんと歴史がごっちゃごちゃでしたよね。
中国は日本から遅れること50年ほどでそれが始まることになります。
だからぐっちゃぐちゃ誰が何した人だかわからんわ!ということになります。

主な登場人物としては
愛新覚羅溥儀
孫文
蒋介石
袁世凱
毛沢東

要点は辛亥革命ということになるようです。

すでに年老いた巨象であった清は諸外国に徐々に食われていくことになります。
フランスにイギリスにドイツに...そして最後の打撃は日清戦争の敗北。
そこから混乱をした民衆は義和団を中心とした排外運動を始めるわけです。

いわば日本の当初の尊王攘夷派だね。

それに西太后が乗っかって欧米列強に宣戦布告しまったために国家間紛争に陥る。
しかし二ヶ月も経たずに列強は北京を制圧。清は莫大な賠償金を支払うことになる。
その事件に端を発して清朝内の保守派に改革思考が湧き上がります。しかしその改革は手ぬるいもので知識人が失望。満州人が政治の中心にいたことへの反発も有り反清思想へと傾斜していく。
当時日本への留学は知識人の常識となっており2万人規模に膨れていた。そんな中、孫文は日本で革命団体を結成します。
義和団の乱で多額の賠償金が必要になった清朝政府は鉄道敷設を条件に諸外国に借款を依頼します。帝国主義の当時、鉄道保有は物資の輸送からその鉄道保護のために軍隊を派遣するなど利権獲得においては気っても切れないものでした。
1911年清朝は鉄道の国有化を図っていたが民衆の反発を招き四川省を中心に保路運動が起き、それが発展して保路同志会が発足。しかし四川当局により同志会指導者を拘束、押さえ込みにかかった。反発した同志会員が四川総督前で歎願行為を行うと当時の提督趙爾豊は発砲を命令、市民三十名が射殺される。
四川省の省都、成都の農民はそれを期に保路同志軍を結成、武装蜂起。省城を包囲すると市民をも加わり蜂起軍は二十万規模に膨れる。
清朝は湖北新軍の一部に四川鎮圧を命令するが日本留学経験者が多く在籍している湖北新軍の中にはこれを契機に清朝転覆を図るものが出てくる。
武装蜂起を予定していた湖北新軍の孫武はロシア租界で密かに爆弾を製造していたが誤爆し怪我を負う。そのママ逃亡は成功するもののロシア当局に武将蜂起の証拠を握られてしまう。湖広省(現在の湖北省湖南省)総督がその事件を知るや警戒命令を発し革命派は予定を前倒しして武装蜂起。湖広総督衙門を占拠するにいたる。
10月11日、湖広省省都武昌を制圧した決起軍は中華民国湖北軍政府の成立を宣言。国号を中華民国とします。
清朝はこの事態に罷免されていた袁世凱を召還し北洋軍を派遣。革命軍の押さえ込みを開始する。
しかしその状況下において各省が次々と独立を宣言していく。
11月4日、新軍内の浙江光復会会員が武装蜂起。杭州を攻撃する。その際撫台衙門の占拠を行ったのが同盟会に所属していた蒋介石。このころから蒋介石は孫文に目をかけられるようになります。翌日には革命軍は杭州を支配することにないります。
11月13日袁世凱は総理大臣に任命されます。

以後清朝は支配下を北方地方のみに縮小することになります。

袁世凱は宣統帝の退位や自身の総統就任を提示しイギリス総領事に停戦仲介を依頼。
12月2日 イギリス領事館を経由して革命軍と清軍との停戦協定が結ばれる。
独立宣言をした各省は投票を行い総統にする人物として孫文を上げることになります。
海外で生活をしていた孫文は急遽帰国し1912年1月1日南京にて中華民国の成立と臨時大総統就任の宣言。

その後孫文は宣統帝の退位に賛成するのであれば大総統の地位を譲ると袁世凱に持ちかけて袁世凱もそれに乗ることになる。
1912年2月12日 優遇策を受け入れた宣統帝が退位します。

これが辛亥革命です。
映画ラストエンペラーではその当時の状況を清朝皇帝の目線からとらえているんですね。

その後孫文が退位。袁世凱が中華民国第二代臨時大総統に就任し北京に遷都。
中国初の国会選挙を経て第一党になった国民党の党首宋教仁が内閣を組織しようとするが袁世凱によって暗殺されてしまいます。それに怒った孫文は第二革命を起こすが袁世凱により鎮圧されてしまうわけです。
強力な指導者が必要と判断した袁世凱は自ら皇帝就任を試みるが支持を得られず失敗。その後1916年3月病死する。
その後中国は無政府状態になり、混乱していきます。軍閥が割拠し軍閥時代に突入。それを契機に列強は中国侵出に力を入れることになってしまいます。
この状況を憂いだ孫文は1919年中国国民党を結成。1921年広州にて臨時政府を樹立する。孫文は荒廃した国を立て直すには強い力が必要と先に革命に成功していたソビエトとの接触を図り、中国共産党党員をその党籍を残したまま国民党に加盟を許すという第一次国共合作を行います。その後1925年孫文死去。そのあとを継いだのがその当時すでに孫文の右腕になっていた蒋介石です。
蒋介石は北伐を進め、軍閥を吸収して中国統一を進める。1927年蒋介石率いる国民革命軍が南京を占領するが中国共産党の指令扇動により列強諸国の領事館を襲撃、民間人を虐殺するという南京事件が起きてしまいます。この事件により蒋介石は中国共産党を敵視するようになり第一次国共合作を解消することになるわけです。そのため一時国民党共産党との間で小競り合いがおき、北伐が停滞。国は南京を中心とする南京国民政府と汪兆銘率いる武漢国民政府とに分裂します。
しかし貧弱な武漢国民政府は1927年に南京国民政府と合流をすることになり、権力を回復した蒋介石は翌1928年に北伐を再開。6月には北京入城となり一応の中国統一は完成したことになり南京を首都とした国民政府が樹立されることになります。
ところが喜びもつかの間、翌年にはソビエトは満州に進軍。国民党が反撃をしている間に中国共産党は各地で勢力を伸ばす形になります。
1931年ソビエトの後ろ盾も有り、毛沢東率いる中国共産党は農村地域で勢力を伸ばし江西省に中華ソビエト臨時政府を樹立するにいたり、そこから国共内戦へと進んでいんです。
内戦の混乱のさなか満州事変を期に同年日本帝国関東軍が満州を掌握。宣統帝を執政にし満州国建国を行う。
当時まだ蒋介石は日本よりも中国共産党を敵視していましたが父親を殺された張学良は蒋介石を西安に拉致し抗日を説くと共に共産党との協力を求めました。蒋介石はそれを受諾し、共産党の周恩来との会談、中国共産党を国民党軍に吸収する第二次国共合作をスタートすします。そして1937年日中戦争へと突入していくことになります。
兵力の大きな差があるにもかかわらず国民党軍は日本軍に対して敗北を重ね、同年十二月南京を制圧されることとなるわけです。この際に起きたのが先の意味とは別の南京事件です。
1938年には日本の勢力が中国本土で一定の支配力を示すようになり日本軍は反蒋介石派の汪兆銘を中心とする南京国民政府を樹立する。一方抗日戦線側もソビエトからの支援を受けた中国共産党、アメリカ、イギリスから支援を受けた国民党政府の鼎立状態となります。
1941年から日本は第二次世界大戦に突入。1945年に敗北すると中国本土から日本の影響力は一気に無くなり、中国国民党が再び中国を押さえることになるが、再び共産党との対立が深まり国共内戦へと突き進んでいくことになります。
アメリカの支援を受け一時は大勢をみせた国民党軍でしたが、戦後の日本統治に力を使っていたアメリカは中国から撤退。その後一気に劣勢に転じます。
そんな中、蒋介石は総統を辞職。代行総統に李宗仁が就任し共産党との和睦に力を注ぐも1948年首都南京が陥落。中華民国は実質消滅してしまいます。

中国のこの状況を見てアメリカ政府内で責任の所在が取りだたされ、いわゆる「赤狩り」が始まっていきます。

その後蒋介石は国民党の一部の勢力と共にアメリカ政府右派の力をかりて台湾島に移り1950年一月、蒋介石は総統に返り咲き台湾国民政府が樹立するわけです。

いやーーー

つかれた...w

でもこれで中国の近代化への歴史はなんとなく捉えたし蒋介石がどんな人物かだんだん解ってきましたね。なんとなく孫文は文知派、蒋介石は武闘派って感じでしょうか?

中国が右往左往した時代がわかります。
本当に日本そっくりですね
ただ最後に勝利を得たのが共産党というところが違うだけです。


ということで中国国民党にとって重要な蒋介石。
その蒋介石を祭る霊廟となっているのがこの中正紀念堂とそれに付随する自由広場ということです。

さて前回の司法院から歩くこと10分ちょい。
いよいよ中正紀念堂の広場周辺にたどり着きました。

行ってみるとね

まぁーでかい!
何もかもが大規模ですわ...

これは国家戯劇院


ねっなんかすごいでしょ?
しかもライトアップされた建物がとても幻想的なんですわ...
夜いいね!


この建物の下にMRTの中正紀念堂駅があります。
何故かこのMRT入り口の裏に自販機がありまして
その自販機の飲み物をブログに載せている人が多い。
僕もついつい撮影してしまいました。


なんとも簡素なコカコーラだったもので...w

この中正紀念堂駅から中山南路を北上していくと...
あの有名な門が見えてきます。


因みにこの自由広場という名称ですが、もともとは大中至正というもじだったとか...戒厳令を終了した後に第一党となった民進党下において架け替えられた後、国民党が第一党に返り咲いた後も架け替えられることなく続いているそうです。

とにかく広いわでかいわで圧倒されます。


国民党の力を感じさせますね。


とにかく広い!記念堂に近づくまでに時間かかりますw


でで~~~ん!


中正紀念堂自体は残念ながら改修中。

堂内には蒋介石氏の銅像が鎮座されています。


観てください。
なんだか紫禁城から眺めているようではありませんか?
まぁ紫禁城行った事ないけど...w


この先は中国大陸だそうです。
まだこだわりがあるんですね...

この国民党台湾上陸以降、台湾は恐怖政治が吹き荒れ恐ろしいことになっていくわけですが...まぁそれは二二八和平公園の回を再度確認してみてください。

中国国民党は何も台湾だけにあるわけでは有りません。
オーストラリアシドニーにも分署のようなものが有りました。
結構ネットワークがあるんですね。

所要時間はおよそ三十分ほどです。

さて中正紀念堂MRT駅から電車に乗りますよ。





さてお昼の写真ももちろん有りますよ。
お昼はさっと通っただけなので簡単に...


昼間は翌日の10時頃行きました...



昼は昼で良いね。
また違った大きさを感じます。






このエントリーをはてなブックマークに追加

0 件のコメント:

コメントを投稿