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2017年4月18日火曜日

お菊塚

今回うかがったのはお菊塚...

まぁ簡単に言うとお墓です...
あまりね~お墓にね~
なんて思うなかれ
今はその遺体はありません!

平塚にあるそのお菊塚に行ってみました...





お菊塚
場所は平塚
案外駅のそばです。

駅から歩いて10分ほどでしょうか...?


紅谷町商店街を過ぎて昔長崎屋があった場所も越えた先...
ちょっと怪しさのある歓楽街の真ん中にあります。


周りは居酒屋やラブホテルなどの夜の街。

その中に公園として整備された北側の隅に石塔などが植木に囲まれた形で配置されています。


なんでここに?

実はそれが不明ですw
日本三大怪談話の一つとして必ず名があがる番町皿屋敷。
しかしその物語のでどころは作り話の様相が色濃い。
怪しい物語なのです。まぁそういう意味でも怪談なのかもしれませんがw


番町皿屋敷の物語の筋は以下

吉田屋敷というお屋敷が牛込御門内五番町にありました。そのお屋敷が移転した後、千姫御殿が作られます。その後その千姫御殿も移転した後、その一角に火付盗賊改の青山播磨守主膳のお屋敷ができた。ここにお菊という下女が奉公していたが承応二年(1653年)正月二日(平塚にあるお菊塚の説明文には元文五年1740年とあります)、主膳が大事にしていた皿の内一枚を菊が割ってしまう。怒った奥方は菊を責めるがそれでは手ぬるいと皿一枚の変わりに菊の中指を切り落とした上、手打ちにすると菊を監禁する。菊は縄付きのまま抜け出し裏の井戸に身を投げる。まもなく夜毎に井戸のそこから「一枚...二枚...」と皿を数える女の声が聞こえてくるようになる。屋敷の住人はその恐怖におののくのだがそのなか、奥方が子供を出産する。その子供は右の中指がないまま生まれてきた。
やがてこの話は公儀の耳にはいり、主膳は所領を没収された。
しかしその後もその声は続くので公儀は石川伝通院の了誉上人に鎮魂を依頼。ある夜上人が読経している最中に数を数える女の声が聞こえる。その声が九と数えた後、十と上人が付け加えるとうれしそうにその幽霊は成仏したとのことである...


という筋です。
どう考えてもリングの貞子のモデルはお菊さんですよねw








この話はそもそもは講釈士、馬場文耕(ばんばぶんこう)の「皿屋敷弁疑録」を元とした宝暦八年(1758年)の怪談芝居「番町皿屋敷」のあらすじ...
馬場は伊予国(現在の愛媛県)出身なのだが関西には播州皿屋敷という話がります。
こちらは歌舞伎演目で享保五年(1720年)にはすでに上演されている。寛保元年(1741年)には大阪の豊竹座にて浄瑠璃演目にもなっている。
馬場は享保三年(1718年)生まれ、一時は幕府の御家人だったりもしたが最終的に講釈士に落ち着くわけだから文学などへの興味もあったことでしょう。浄瑠璃演目がされたときは馬場23歳。多感なころの馬場は当然これら芝居も見ていたはずだしこれを元に作品を書いてもおかしくはない。

国宝姫路城に行かれた方はお気づきだろうが姫路城の敷地内にはお菊井戸なるものもある。まぁ馬場はそのお菊さんの話をマンマぱくったということでしょうねw オマージュかな?笑

そもそも火付盗賊改が創設されたのは寛文二年(1662年)であり、馬場が描いた承応二年にはまだなかったし、青山なる人物も火付盗賊改には存在しないとのこと...

ということはこのお菊塚
ますます存在自体が怪しいということになりますよね...

ところが平塚市内にはもっともらしい話がさらに上書きされてきます...


そのお菊さん、平塚宿宿役人眞壁源衛門の娘で例のお屋敷に行儀見習い奉公に行っていたのだとか...。こちらの話では割ったのは南京絵皿だったとか井戸に投げ込まれたなんて話もあります。お菊の遺体は引き上げられ罪人の例に倣って長持ちにつめられ江戸から運ばれてくる。馬入の渡しで娘と対面した眞壁源衛門は「もの言はぬ晴れ着姿や菫草」との句を残しその後眞壁家の墓地であるこの地の端に遺体を埋葬したといいます。しかしお菊は理不尽ではありますが武家の宝物を破壊した罪人として扱われています。罪人には墓標を立てることができないのでその埋葬した地の上に栴檀の木を植えたということです。

現在の墓石は後世のもの...。
(因みに眞壁家は実在の一族らしいです。)


さて人は何らかのランドマークがあるとそれにいろいろなうわさを付け足していくもの...。悲しいお話であればなおさらで、しかも美しい地元の娘とあればなおさら...。地元贔屓の人たちではないかと思いますがこんな話も加わります。

皿は割ったのではなくなくなったものだ。
奉公先で言い寄ってきた家来を突っぱねたのでその家来の男に皿を隠されたのだ。
いや実は青山主膳がお菊を見初め、嫌がるお菊を妾にしてしまう。それを本妻が怒り、主膳が大切にしていた皿を隠したのだ...
などなどです...

どれももっともらしい話ですがどんどんお菊さんが哀れになってきますね...w

本来は単なる芝居の演目でしかなかった番町皿屋敷
それがあたかも本物であるかのような尾ひれがどんどんついてくる。
伝説というのはもしかしたらそういうものなのかも知れませんね。

ところが....

昭和二十七年(1952年)の区画整理事業でこの地、眞壁家の墓地の整理が行われます。
眞壁家の遺骨は掘り出され移されるのですが、その際栴檀の木の下を掘り返すと座り姿の小柄な女性と思しき遺骨が出てきたということで新聞にも載っています。

さてさて...

どういうこっちゃねんという感じですが...
まぁたぶん栴檀の木の下の少女と番町皿屋敷はまったく別の話なのではないかと思います。平塚でおきた悲しい話があり、その少女が埋葬された上に栴檀の木が植えられた。
栴檀の木の下の少女の話と皿屋敷の内容が似ていたのか、江戸で話題になっていた番町皿屋敷と結びつく。
当時はお伊勢参りが盛んだったので宿場町ではそういう話題やランドマークで人寄せできるのは大歓迎!そしてどんどん話に尾ひれがついてきたのではないかと...
多分娘が理不尽な形で私刑を受けたのは事実でしょうが皿のくだりだとか番町屋敷だったとかは別モノなのかと感じます。平塚のお菊塚にある説明文を多少組み入れたとしたら元文五年(1740年)に起きた何らかの事件があってそれと番町皿屋敷が結びつきお菊塚となったのではないかと思うのです。(菊という名の娘は実際にいたのではないかとも思います。そもそも菊という名は結構ポピュラーな名ですし...)

ちょうどこの番町皿屋敷の前(播州皿屋敷の後)、寛保二年(1742年)に徳川吉宗の下、大岡越前も加わり、享保の改革にて当時の刑法である「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」を出しており、その中の71条追加条に「無礼討(切り捨て御免)」に関する条項が「法外之雑言等不届之仕形不得止事切候もの、吟味之上於無紛は無構」とこのように整備されています。簡単に言えば罵詈雑言を浴びせられ思わず切り捨ててしまった場合(私刑を行ってしまった場合)、吟味の上正当な理由がある場合は無罪ということ...
ところがその無罪を勝ち取るには証人やら目撃者が必要でなかなか無罪にはならなくなったとか...これにより実質無礼討が禁止されたわけです。

皿屋敷の物語が私刑に関する物語であることをかんがみると公事方御定書に影響があったかどうかは別としてもしかしたらこの時期だからこそまとまった話ではないかとも感じます。

因みに

番町皿屋敷の設定年代、承応二年(1653年)
以前記載した関宿での女郎小万の話が1690年代ころ...
箱根のお玉が池の伝説が元禄十五年(1702年)...
赤穂事件も元禄十五年...
元禄十六年(1703年)元禄の大地震
宝永四年(1707年)富士山の宝永大噴火
愛の地蔵伝説が宝永、正徳、享保ころ(1700年代前半)
享保五年(1720年)播州皿屋敷上演。
公事方御定書 寛保二年(1742年)
元文十五年(1740年)お菊さんにまつわる何らかの事件
宝暦八年(1758年)番町皿屋敷上演。
仇討小万の仇討ちが天明三年(1783年ころ)
油屋騒動が寛政八年(1796年)

です。
江戸時代ってなんだかいろいろかしましい...

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