平塚市の名称の由来
平塚の塚です!
平塚の名称の由来なんてあったの?
なんて不思議に思う方もいらっしゃると思いますが...
当然あります!
特に日本の土地は殆どが何らかの由来から来ています。
平塚...
単なる東海道の宿場町でも駅伝の中継地でも
西湘地区の工業地帯でもないんです。
そんな平塚の由来を観に行きましょう!
神奈川県の姫伝説はいくつもありますね。
今まで照手姫、折花姫、小桜姫を紹介してきました。
今回は平塚の塚です!
へ...?
姫と何が関係があるか?ですって??
あるんです!
そう!平塚名称の由来、平塚の塚はその名のとおり塚なのですが
そこに葬られているのはお姫様なのですね...
ならば!
女性に目がない私が行かないわけにはいきません!
早速車に乗り込み
西湘地区へ...
たどり着いたのは液から程近く
それでいてとても閑静な住宅街でした...
その真ん中にポツリと公園があるんです。
そこが平塚の塚です。
平塚名称の由来となっただけあってこんな感じに整備されています。
こちらがその塚です...
ではなんでここが平塚名称の元となったのか?
何でも塚が平らになったから平塚と呼ぶようになったという説もあるそうなのですが...
どちらかと言えば僕はもう一方の説の方が信憑性があるような気がします。
それは平家のお姫様の塚だからと言う説です。
まぁ先述の説でも亡くなったのは平家のお姫様だったという点は同じ...
ということはやはり平家のお姫様を葬った塚があったから平塚の方が
説得力ありそうです。
ではどのお姫様が亡くなったのでしょうか?
それは平真砂子です。
桓武天皇三世の孫、高見王の娘で都より東国へ下向の途上、相模国の海辺の里で長旅の疲れから急な病を経て、天安元年(857年)二月二十五日になくなったそうで土地の人々はその姫を哀れんで里はずれの松の大木の根元に塚を築いて葬ったとのことです。そこから平家の姫様の塚で平塚となったとか...
延歴十三年十月二十二日(西暦794年11月22日)その桓武天皇が京都に平安京を作ってます。ちょうど百年後の寛平六年(西暦894年)に菅原道真によって遣唐使が廃止されてます。
さて平真砂子は単に平家一門の娘と言うだけではありません。
なんと桓武平氏の祖といわれる高望王の妹なのです!
高望王といえばその子孫に平将門や平清盛など蒼々たる面々が連なる名門中の名門。
そんなお姫様がなくなったんです。当然この地の名称の由来になりますよね。
この後高望王が上総に下向するのだが
その子孫の平家一門が東国に勢力を伸ばすのだが
それも真砂子姫が下向してから41年後の話だそうだ。
高望王の子孫は、平塚の土屋氏、伊勢原の岡崎氏、三浦半島の三浦氏、伊豆北部の北条氏などなどだが、考えてみると源頼朝は北条氏によって担がれているし、三浦氏も重要な立場にあったことを考えると源平合戦というよりも源頼朝は平氏一族の内輪もめに良いように使われただけのような感じもする...
曽我の仇討ちに際しての曽我兄弟の怪しい動きもかんがみると
なんとなくやはり頼朝は担がれただけではないのだろうか...?
疑惑に疑惑が呼ぶが
ここが歴史の面白いところだ...
ところでここのブログだけでも姫はすでに三名紹介しているのだが
そもそも姫の定義とはなんじゃろ...?
調べてみると高貴な身分の人の息女を指すそうだ。
なるほど平家という高貴な身分の方の子孫といういみでは
いってみる価値は大きくありマスネ。
ちなみに東海道五十三次の平塚宿は小田原藩管轄の宿場町でした。
今はひっそりと残る平塚の塚...
皆さんも是非 平真砂子姫に会いに訪れてみてください。
真砂子姫に会いに行こう!宿泊はこちら...↓
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