愛の地蔵...
まぁ愛の地蔵なんてのは最近の名称。
その昔は泣きが原の地蔵といっていたようなのですが
今回は大磯町と二宮町のちょうど境にある
泣きが原の地蔵に訪れたので報告です。
伝説にありがちな悲しいお話...
ぜひちぇけら!
この道はなんという道なのでしょうか?
昔からある古道であることは間違いないようです。
東京方面から向かうと
国道一号から大磯警察署を超えてすぐ
県道63号線に入り
途中わき道 東海大学付属大磯病院方面に向かいます。
東名からくるなら、厚木インターにて小田厚に入り大磯インターで降りて左折です。
しばらく道なりに進むとその先の富士見平バス停の脇にそこそこの広さの平らな区画に
そのお地蔵様はあります。
お地蔵様のあるところには悲しい物語があるとはよくききますが
ここもまさにそのとおりなのです。
今から三百年ほど昔というのですから西暦1700年代まぁ想像ですが宝永、正徳、享保(1704-1736)までの間だとは思うんですが...
土屋郷の新婚三ヶ月の若い男が桜の花が散り始めたころというから現在の四月中ごろだろうか...水盃を交わした村の仲間と連れ立ってお伊勢参りに行きます。
その帰路、大井川に差し掛かった一行は、おりしも降った大雨によりそこで足止めを食らいます。
そんな大井川「箱根八里は馬でも行くが渡るに渡れぬ大井川」でも有名な東海道一の難所。しかしその若者は新婚妻に早く会いたくて周りの静止を振り切って大井川を渡ろうと試みます。
当然濁流に飲み込まれ敢え無く最後を迎えてしまいます。
大井川というと伊勢から向かえば対岸に島田宿があります。現在でも結婚式で結われる文金高島田の髪結いはその島田宿の遊女が始めたという説がありますね。お伊勢参りのもう一方の目的は羽目はずし...。お伊勢参りを口実に諸国の女を買うというのも楽しみの一つ。周りの村人はこの旅行で羽目をはずし、そうとう遊女と楽しんだに違いありません。大井川は先の詩の様によく氾濫する東海道一の難所。何日も足止めを食らう旅人が多い中、当然島田宿の対岸にも遊郭があったと思われます。ほかの村人達はたぶんその遊郭で大いに遊んでおったので当然川の氾濫を口実にのんびり女を抱いていようとでも思っていたのでしょう。しかし新妻を残してきたこの若者は新妻に操立てて遊女を抱かずいろいろたまってしまったのか...。または若妻が夜這いをかけられるのを心配したのか...。ただし夜這いの風習は貴族が多く通い婚の風習が根強くあった西日本に多く武士世界の東には少なかったとは聞きます。もしかしたら旅先の西国で夜這いを何度か目にして我妻になにかあったら...と心配になったのかもしれません。何にしてもあせっちゃったんでしょうね...
しかし遊女髪の島田髷が流行って結果白無垢に合わせる文金高島田になるなんて...。
なんだかもしかしたら貞節と不貞とは髪一重なのかも知れません。
女性はもしかしたら根は皆遊女なのかもしれませんね...。怖い...。
現代の若い女性が結婚式に花魁の衣装を着るのには正直眉を顰めるのですが
もしかしたら日本人古来の性格としてありなのかもしれませんねw
さて話を元にもどしまして...。村人達はその若者を弔った後、土屋郷に戻るのですが、その若妻を見るに忍びず、「あなたにあいたさ一身で先に船で伊豆を経由しこゆるぎ浜へ向かったようだがまだ帰ってこないか?」と口からでまかせを言ってしまいます。
それからその若妻は土屋郷から相模灘の見えるこの展望の大地まで毎日のように通い夫の帰りを待つようになります。その不安からか徐々に彼女の心は蝕まれ、家に帰るのも忘れ主人の名を叫びながらこの地をさまようようになり、そのお地蔵様がある場所の近くでひっそりと亡くなったそうです。
そのためこの地を泣きが原と呼ぶようになりました。
この話を聞いた一人の女性がその話に心が揺り動かされて、この地にお地蔵様を立てたそうです。そして婚礼などのお祝い事の際にはこの地を避けて通るようになったとか...
そんな悲しい逸話があります。
お地蔵様が立てられたのは180年ほど前といいます。
1830年代くらいですね。天保(1830-1844)年間ですね。
土屋郷からこの泣きが原まで5.9km
いくら想い人を待つためとはいえ
ちょっと遠いよね。
伊勢国亀山藩関宿の女郎小万の話は浄瑠璃ではすでに成立しており
この若い夫もその話は関あたりで耳にしていると思います。
お玉が亡くなったのは元禄十五年なのでこちらの話も耳にはしているでしょうね。
宝永の富士山噴火からあまり時間も経っていないので新妻はそんな不安も抱いていたのでしょうかね...
悲哀のお地蔵様に会いに行こう!宿泊はこちら↓
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