神奈川の女の尻を追いかけている私ですが
そういう視点からみると結構あるもので...
愛川町 海老名市にまたがる姫伝説がありました。
そこでご紹介です。
その名も有鹿姫(あるかひめ)。
今回は有鹿姫です。
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こちらも結構有名な伝説ですね。
まずはその伝説から...
今から約五百年前、愛川の小沢というところに金子掃部助(かねこかもんのすけ)という武将がいました。金子掃部助は、関東管領山ノ内上杉家の家来、長尾景春が起こした戦に加わりましたが、武運つたなく破れ、小沢城を捨てて敗走。
この掃部助と奥方の間には、美しい姫君がいました。姫は早くから有鹿の地、すなわち海老名の河原口に住んでいた海老名氏の青年と婚約中で河原口にある海老名館に来ていましたが、「小沢城危うし!」といううわさに、急いで小沢に戻りました。
しかし、時すでに遅く父は戦死、母は行方知れずと聞き、すっかり生きる望みを失いました。覚悟を決めた姫は、見苦しい姿を人目にさらしたくないと、薄化粧をして、まだ燃えている小沢城を後に天に向かって手を合わせると、ざぶん!と相模川に身を投げたのでした。
するとどうでしょう。美しかった姫の体は、たちまち恐ろしい大蛇に変わり、大きくうねりながら下流に向かって泳ぎ出しました。途中、六倉という所で大きく身震いすると、相模川の水が舞い上がり、中津の原に大きな水たまりができました。
さらに水しぶきを上げながら進み、河原口に近ずくと、姫は再び人間の姿に戻り、息絶えて有鹿神社の裏の河原に打ち上げられました。
神社の氏子らは、海老名の地に嫁ぐ日を夢みていた姫の死を悲しみ、せめてもにと「有鹿姫」の名を贈り、神社の片隅に、その亡きがらを葬りました。現在、有鹿神社と有鹿小学校の間には、若くして散った有鹿姫をしのぶ碑が建てられています。
こどもえびなむかしばなし第4集より
という内容です。
なんとも悲しいお話です。
前々回ご紹介した護王姫、桜田姫伝説。
こちらはこちらと時代としてはかぶります。
面白いですね。
しかも場所の範囲も海老名を中心に護王姫は座間への落ち延びる話。
そしてこちらは愛川町から流される話です。
関西よりいち早く戦国時代に突入した関東。
当然いろいろな悲劇があるわけですが
海老名を中心にその話が展開されている点を考えると
室町中期は海老名界隈が政治の中心だったことを伺えます。
扇ガ谷上杉の拠点は現在の伊勢原と考えるとなんとなくわかりますね。
今回は以前紹介した太田道潅が敵役です。
武蔵七党のひとつ村山党の一族で村山の一族の中で現在の埼玉県。入間郡金子郷に定住した金子六郎が祖。
保元の乱で源氏に着いたことを縁にその後源氏に組し数々の軍功を上げている。
鎌倉では源氏三代についていたが和田の乱にて和田氏について北条方に敗北する。
その後室町時代には関東管領山内上杉氏に組しています。
武蔵七党とは平高望を祖とする同属系武士団で平安中期以降戦国に入るまで関東一円を支配した。
そういえば照手姫も室町期が舞台でしかも関連があるのが横山党。横山党もまた武蔵七党のひとつです。そして有鹿姫が嫁ごうとした先の海老名氏は横山党の一派。て年代的には照手姫の愛した人、小栗判官のモデルとなった小栗満重は応永30年(1423年)に死去しています。
因みに護王姫の一色説では一色氏は海老名舘のすぐ近くにある今泉城が居城。
護王姫は北に逃げるわけですがまめこぞう氏説を取るなら護王姫は桜田伝説における桜田姫の母と同一人物。彼女が逃げ込んだのが渋谷高間邸。
一色氏は清和源氏義国流足利一門。 逃げ込んだ先の渋谷氏は桓武平氏秩父氏の一門です。護王姫が逃げるきっかけとなった永享の乱は1440年。
なんだか色々交差していますね。
そしてその金子掃部助は長尾影春に恩があったため長尾影春の乱のときに影春に組したため太田道灌に彼の居城、小沢城を攻め落とされてしまうわけです。小沢城は一月もの篭城の末、陥落したのが文明9年(1477年)四月十八日、金子氏は一旦撤退するも太田道灌が移動すると再び占拠。翌年道灌の小机城攻略される四月まで持ちこたえ道灌をおびえさせるまでになっています。
ということで小沢城に行って見ましょう!
圏央道経由で行くなら相模原インターで下り、県道510号線を橋本方面へ
県道511号線に乗り換えて相模川沿いを南進。しばらくすると高田橋際交差点が現れます。この地域には似つかわしくない高層マンションが対岸に見えますのでわかりやすいかとおもいます。
この高田橋界隈は昔から交通の要所。
ここに渡し場があったようです。
その高田橋周辺が小沢城ということになります。
実は小沢城は二箇所あります。
高田橋の手前側にあるのが小沢古城。平安末期から鎌倉時代に立てられた城だそうです。
遺構らしきものは見当たりません。
でもその場所に諏訪神社があります。
こじんまりとしていますがなかなか良い神社です。
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眺めもいい。
ちゃんとご神木も有ります。
樹齢200年というのはなかなかですね。
そして県道511号線から連なる63号線から右に折れると県道65号線に入ります。
その坂の中腹辺りが金子掃部助が建てた小沢城です。
ここには多少の遺構があります。
小さな神社(第六天社)があるのですが
そこは出丸だったようですね。
城めぐり
さて坂を登りきるとそこにあるのが本丸。
ちょうど桜の咲く頃でしょうか
でも室町当時ソメイヨシノはまだ流通していないはずですから花の時期というイメージではないと思いますが...
有鹿姫の悲劇はその際に起きたわけですね。
相模川沿いに下りてみるとこんな感じの風景が広がります。
コチラが相模川から見た
小沢古城。
コチラが小沢城
関東では既に戦国時代に突入している状態で、その後北條早雲が疾風の如く駆け上がってきます。尚、金子家は家が断絶してしまうわけでは有りません。金子掃部助の息子は太田道灌の部下になっています。
因みに清川村の矢口長者伝説の熊野権現にあった矢内氏の鰐口は応永元年(1394年)に鋳造されています。
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室町中期、神奈川の中心が相模川を中心とした縦軸にあったことをうかがわせるものが有りますし、永享の乱や長尾影春の乱が神奈川県に及ぼした影響の大きさを知ることもできます。
有鹿姫は相模川をくだって愛しい青年の下に行くんですね。
桃の花が赤く染まっていました。もしかしたら当時は此花が満開だったのかも知れません。
その小沢城から直線距離にして十キロほど南に進むとあるのが
有鹿神社です。
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途中国道246と合流したら左折して相模川を渡ります。
そして県道51号線に当たったら右折。
真っ直ぐ南下します。オレンジ色のマンションらしき建物が見えたらその先を右折。
真っ直ぐ西に進むとそこにあるのが有鹿神社。
そう 有鹿姫の名称の元となったのが
この有鹿神社です。
しかし有鹿神社はとても古いお社で
主神は有鹿比古命。この神はなんと記紀に記載がない
古い神で火の神だそうです。
そして奥宮である六キロ北にある神奈川県相模原市南区磯部の「有鹿谷」には清水が湧き出しており、そこには有鹿比女命というこれまた記紀に名前すらない古い水の女神が祠に鎮座されている。
相模の一宮はこれまた出所のわからない神である寒川の寒川比古命、寒川比女命の二柱(大水上命の子という説有り)があるが
噂によるとこの有鹿神社が相模最古級の神社ということだそうです。
なんでも創建は5000年前という話も...
すげーなw
しかし5000年の根拠はどこにあんねん!って話なんだけど...
この奥宮の東側には有鹿台という台地があるのだがそこには勝坂遺跡という現在国指定史跡となっている縄文時代中期前半の大集落が見つかっているらしく、その有鹿神社奥宮に祭祀遺跡が発見されていることが根拠のようだ...。
うーん なんかすごいね!
もう本来ならこの神社自体を本題とすべきなんだけど
今回はあくまでも有鹿姫の脇役としての登場ですw
境内はそれほど大きくは有りません。
しかしちゃんと手水舎も立派なものが有ります。
本殿に向かいお参り。
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ここの禰宜さんが面白く、少しでもここの神社を盛り上げたいとパンダの頭をつけてパンダ神主として話題造りをしようとしているようです。女性神主だそうで努力が伺えます。
神社の本殿の裏側は
すぐ相模川。
なるほどここに有鹿姫は流れ着いたんですね。
この有鹿姫を葬った地に碑が建っているそうですが、
有鹿小学校と有鹿神社の間にその碑は立替ら得れて未だに建っています。
この神社の近くに海老名市歴史資料収蔵館なる建物があり、
そこの館員さんに伺ったところ
ここの神社、昔は春祭りの際にみこしを担ぎながらその六キロほど上流にある奥宮まで御神体を運び
そこに鎮座させて水源の番をさせたそうで
稲の借り入れがすんだ秋に再びお祭りを行い、みこしを担いでその御神体をお迎えにいくという神事があったそうです。
このお話好きな小太りの館員さんは色々な地元海老名の昔話を幅広く御存知のようでローカル歴史談義に花が咲きました。
永享の乱の当時一色氏は妻子を置いてさっさと逃げてしまった。それが護王姫の話だとか
海老名氏の城といわれた海老名城だが
単なるお屋敷だったらしくしかもその遺構もどこにも出ていないそうで
現在お屋敷跡だろうといわれている場所はあくまでも推定だそうです。
お屋敷跡と目される位置の近くには海老名氏の碑が建っています。
ただし海老名一族の墓の遺物らしきものが見つかったのでそれで推定しているということです。
今泉の館もその推定の分類から逃れられないともおっしゃってました。
面白いので少し調べてみたところ
以前紹介した護王姫の回において立ち寄った鈴鹿明神社とは浅からぬ因縁の仲だったらしくこんな伝説が残っている。
欽明天皇の御代(539年?〜571年?)、伊勢鈴鹿から当地(座間)に遷ってきた鈴鹿神は財宝を持ち豊かに暮らしていた。座間7ヶ村の内の一つであった勝坂(現・相模原市)に有鹿の蛇神が棲んでいた。有鹿は鈴鹿の宝玉を盗むため「鈴鹿の森」に絡まり機会を狙っていたが、鈴鹿の社内にいた梨の木の諏訪明神と諏訪の下(海中)の弁財天がこれを追い払い、続いて谷の深(やのふけ、桜田一帯の低湿地帯)で三神がそれぞれ大蛇に変身して有鹿と戦った。これには適わず、有鹿は相模川沿いに敗走し海老名で有鹿大明神(海老名総鎮守)として祀られたという。
その後、有鹿明神の神輿は勝坂まで巡行していたが梨の木の諏訪坂を避けて進んだものの、鈴鹿の森の西方で神風に遭い巻き落とされてしまった。その場所(現在の座間小学校の辺り)は「輿巻」(こしまき)と呼ばれるようになり、それ以来、有鹿明神の神輿は梨の木の諏訪坂を通らなくなった。
ということだそうだ。
おもしろい。
もしかしたら村落間の何らかの紛争があったのかも知れない水利権の紛争の可能性は高い。水にかかわる動物蛇が出てくるのがそれとない暗示なのかも知れない。
しかし有鹿姫も蛇に変わるところを見るともしかしたら有鹿姫の伝説も水利権に関する何らかの争いを含んでいたのかも知れない。さもなければ洪水に関することかも知れないが...
しかし室町期神奈川では相模川を中心に歴史が色々動いてきたことを知りえましたね。
残念なことに遺跡や史跡は数減りましたが残っている伝承でその地域をめぐってみるのも楽しいものです。
各お姫様たち。もしかしたらどこかで出会っているかもしれませんね。
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