李氏朝鮮の朝鮮の中心的宮殿。
今回はその朝鮮の中心の中の中心。
景福宮に行ってみます。
景福宮
韓国の中心的宮殿です。
1395年 李成桂により建設された宮殿です。
しかし実際には秀吉の朝鮮出兵の際、
民衆により焼き討ちにあって消失。
その後1865年まで再建されることはなく、
興宣大院君により再建された。
ただし興宣大院君は王ではなく王の父である。
しかし王である高宗はほとんどこの宮殿で政務をとらず
結局1910年に日本の併合によりその機能は失われたわけなので
ほとんど朝鮮の中心的政務は執り行われておらず。
形だけの宮殿といえなくもない。
さて場所であるが...
朝鮮の都も、中国のそれに倣っているわけで
宮殿はソウル市街地の北側に位置している。
最寄り駅は地下鉄
景福宮駅。
でると景福宮の南に向いて左側に出る。
階段を上がった先にはデデンと広い敷地が広がる。
凄いね~
見所の宮殿周辺は広く感じるが
江戸城の三分の一くらいの広さしかない。
景福宮全体でもざっくり皇居前広場くらいの広さです。
京都御所と比較しても一回り小さい大きさとなります。
しかし広い敷地には樹木などは植えず
広場としているためにとても広大に感じる。
皇居前広場は確かに広いんだけど木が植わっているからね~
丁度近衛兵の交代式が始まるところだった。
交代式を見に行ってみる。
韓国語、日本語、英語、中国語と説明が入る。
とても親切だね。
さすが観光立国を日本同様に目指している韓国だけあります。
しかし多種の言語をあげるところなどは日本より進んでいるかも...
ただ近いだけあってなんとなく中国って感じですよね。
でも本当に当時こんなことしていたのかな?
少し気になるところだよね。馬鹿にするわけではないけどなんとなく韓国って少し盛っている感じもするので本来はこの半分と思ったほうがいいかもしれないね。
交代式はおよそ10分程度で終わりました。
せっかくなので正面玄関を見てみたいということで
宮殿正面にあるゲートをに向かいます。
光化門
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光化門側から広場を見てみるとこんな感じ
実はココにね。朝鮮総督府が有りました。
今は破壊されてしまいましたが
まぁ確かにココにデデンとあるとね~うーん。
なかなか荘厳な建物だったのですが台湾とは違い
それは撤去されてしまいました。
残念では有りますがやはり場所が悪いですね。
朝鮮王朝メイン宮殿の目の前にぶったててしまったのですから
そりゃそれこそ日本支配の象徴ととられても致し方ない。
そんな昔に思いを馳せながら
話しを光化門に戻しましょう。
ゲートの下には色鮮やかな亀の絵が描かれていました。
門の前には先ほどの交代式で現れた衛兵がいます。
正面から見るとこんな感じ。
光化門とあります。
なるほど...
この光化門。
この目の前は韓国の中心街。
政府関係やら大使館やらの建物が連なっています。
もう一度光化門を潜り抜けて中に入っていきます。
今度は違うがわの門から...
こちらには鹿?キリンかな?
が描かれていました。
さてこの景福宮内部を観覧するには当然入場料を取ります。
ということでチケットを購入。
短観チケットもあるのですが今回はソウル均衡五大宮(景福宮、昌徳宮、徳寿宮、昌慶宮、昌慶宮)および宗廟を
めぐれる総合チケットを購入しました。
金額は 10000ウォン
この購入で間違ってしまうことになるのですがそれは後ほど...
さぁでは入りますよ!
向かうは
興禮門
ここが入り口になります。
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しかしきらびやかな門ですね。
ここ景福宮にこられる方は驚くと思います。
何もかもが結構原色。
古い建物なのになんでこんなに原色なの?
まぁ塗り替えられているというのもあるのですが
実はここ景福宮は再建された建物なんですね。
だからこんなに原色で綺麗なんです。
日本の統治時代多くの建物が取り壊されたためなのですが
実はそれはこの景福宮の隣にある昌徳宮再建と博覧会のためだったようです。
昌徳宮は火事により一部失われる事態になっていました。
当時の感覚でいえば建てられて間もない景福宮よりも
歴史的に価値のある昌徳宮を補修したほうがいいという感覚だったのでしょう。
しかし宮殿を壊して宮殿を再建するのではなく新しい木材で再建するほうがよかった
のでは?
という疑問も沸きはしますね。
ということでここ景福宮は世界遺産などには指定されていません。
さぁ御託はいいですね。
中に入りましょう。
チケットを渡し
門をくぐると...
デデンとこんな感じ...
門の向こうに更に門が...
正殿はその向こうにあるようです。
この広場の真ん中には水路があり、
その真ん中を石橋がかかっています。
これを
永済橋というようです。
水路のようなものに水は張られていませんでしたが
その意匠が面白い。
トラが何かを狙っているような像があったり
龍が飾られていたりと
王の住まう場所らしい装飾が施されています。
これらも多分風水に即したつくりだと考えられます。
勤政門
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勤政殿
へ...
これが勤政殿前の広場となります。
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なるほどね。
さぁ 勤政殿に向かいますよ。
うん 大きい!
特に周りに木などがない平地に建っているだけあって
その大きさが際立ちますね。
でも実際にはその建物の高さ自体はそれほどでも有りません。
小田原城や沖縄の
首里城はその平面積が700平方メートルほど
対して景福宮は1000平方メートルほどなので
1.5倍ほどのサイズ。高さも当然小田原城のほうが高いので
そう考えると規模としてはそれほど大きいとはいえないんですよね。
しかしその構図がその大きさを印象付けます。
建物は独立して立っており
周りを壁を利用した回廊で取り囲んでいます。
建物は反りがある八作屋根。
正面の広場は粗削りの薄石を利用しているようです。
外部二階内部一階のドーム式構造。
この建物自体は1867年に
興宣大院君が再建したそのままの建物です。
何せ単独で建っている姿と周囲に何も配置しない構造がその大きさを演出しています。
日本の城は実際行くと大きいのですが
その大きさをあまり感じさせません。
というのも城というのはその性質上
要塞という意味合いが強いので
威厳というよりも周囲を見張る物見やぐらの発展形。
ということで起伏の多い土地に建っていることが多く
更に周囲に森林などを配置して防御の役目も出すのでどうしても
あまり大きく感じない配置になっているわけです。
その点宮殿というのはその心配を考えず建てられているので
威厳のほうが強く印象付けられます。
しかし張り出した屋根はやはり王の住まう場所に相応しい構造ですし
色も派手ですよね。
さて建物内をのぞいてみましょうかね。
玉座はこのようになっています。
背後には
日月五峰図がかかっています。
日月五峰図とは日と月と五つの峰を描いた図で
李氏朝鮮時代の屏風によく描かれている伝統的絵画で一万ウォン札にも描かれています。
シンメトリーになっており 玉座に相応しいですね。
ここは明治政府の際も取り壊されず残っていたので再建された当時のままです。
韓国国宝223号に指定されています。
さて正殿である勤政殿を堪能した後は後宮へ向かいます。
思政門
を通り、
思政殿
へ...
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思政殿は王が実務をする場所ですね。
意外と質素ですね。
まぁでも政務を実際に行う場所ですからね。
別段豪華にする必要はありません。
しかし座の頭上には龍の絵が
そして背後にはやはり日月五峰図がありますね。
ここは韓国の宝物1789号になっています。
思政殿から勤政殿を望むとこんな感じ。
脇にある建物を見ると...
オンドルの煙突が!?
おぉぉぉ なんとなく韓国って感じですね。
しかし総合的に見ると韓国の宮殿確かに広大なのですが...
なんとなく一棟づつ見ると小さいよね。
オンドルで部屋は暖かいだろうけど
建物と建物をわたるには基本屋外にでることになるようなので
冬とかめちゃ寒かったんじゃないかな~
つづいて
嚮五門
の奥にあるのが
康寧殿
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王様の寝室兼生活空間だそうです。
1917年昌徳宮の火災の際、昌徳宮再建のために移築されました。
そのため現物は昌徳宮にあることになります。
韓国の人たちは景福宮は日本政府によって破壊されたと思い込んでいる人も
多いようですが実は当時まだ新しく歴史も薄い景福宮よりも
歴史が厚く殆どの朝鮮王が政務を営んでいた昌徳宮のほうに価値があるだろう
と思った結果であり、結果的に実際昌徳宮は世界遺産に選ばれている点を考えると
当時の日本政府は正しい行いをしたのかもしれませんね。
こちらは復元されたものですが
なかなか立派ですね。
その脇で日本語ツアーをしていました。
参加者はチマチョゴリ着てますね。
実はチョゴリ着ると入場無料なんだそうです。
彼女たちは皆日本の女性たちでした。
さて康寧殿を過ぎた裏にあるのが
交泰殿
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こちらは王妃が暮らしていた日常空間になります。
建物の独立性が薄く回廊のように見えますね。
ここでは撮影していませんが
裏には庭があり、王妃が楽しめるような優雅な配置になっています。
ここ景福宮は権威を象徴した配置になっているのですが
その中で唯一女性らしさをしのばせるのがこの交泰殿の区画となるわけです。
交泰殿の左脇にあるのが
含元殿
こちらは仏教を基準とした宗教的儀式が行われた場所のようですね。
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含元殿の前には欽敬閣があるのですが
こちらは時計代わりの装置が置かれていたそうで
時と宗教を寝室の近くに置いたということになりますね。
さて続いてですが
われらはその
含元殿の左側から通路に出ます。
その先にあるのは...
あの 有名な
池に浮かぶあの建物...
慶会楼
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王が臣下たちのために宴会を開いたり
外国からの施設が訪れた際の接待に利用したり
科挙試験や雨乞いの祭祀が行われた建物だそうです。
旅行のパンフには良く出ている建物ですよね。
パンフレット
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には文禄の役の際に全焼と
豊臣勢が焼き討ちでもしたかのような誤解の生まれそうな書き方になっていますが
あくまでも焼き討ちしたのは市民で豊臣勢ではありませんw
さてこの建物は日本統治後も残り
韓国国宝224号に指定されています。
しかしなにぶんにも1867年再建なので世界遺産級の価値はないとのことで世界遺産登録はされていないようです。
池に映りこむ姿がなかなか美しいですね。
この慶会楼の前にあるのが
修政殿
です。
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こちらは韓国国宝1760号に指定されています。
ということは明治政府の取り壊しを免れた建物ということですね。
1867年に建てられたものです。
修政殿が立てられる前集賢殿なるものが有ったようで
そこでハングルが作られたとのことでした。
その修政殿を横に
景福宮の紅葉
池のほとりを歩いていきます。
慶会楼を描く画家の方が幾人もいました。
時季は秋。
紅葉がとてもすばらしいです。
建物のみならず
紅葉をバックに写真を撮影されている方も何人もいました。
さて足は慶会楼の池を半周廻るようにして
現在再建された宮殿の裏側に入り、
そのまま裏を進むようにして廻るように進んでいきます。
途中色づいた紅葉を見ながら歩いていきますと
勤政殿をはさんで逆サイド側にかかります。
実は勤政殿の裏 奥には香遠亭なる裏庭が広がっているんですが
そこは当時工事中だったので入っておりません。
よってそのまま勤政殿の左岸の建物を見ながら進んでいきます。
慈慶殿
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景福宮を立て直した際の高宗の養母の為に建てたものだそうで
宝物809号となっています。
自分達は裏手側から入っていったのですが
そこには独特のオンドルの煙突がありました。
慈慶殿十長生煙突だそうで
これも韓国宝物に指定されており810号となっています。
色々な装飾が施されており なかなか見ごたえが有ります。
厄払いと長寿祈願だそうです。
養母を大切にしていたようですね。
さて慈慶殿の前にあるのが
焼厨房
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ココはその名のとおり厨房で宮殿の調理を総括した。
現在復元されて今ではレストランとしても利用されている様子。
その建物の前にあるのが
資善堂と丕顕閣
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ここはいわば東宮といわれており
時期王位継承者の為の施設。
なんだかその割にはやたらこじんまりしている感じがする。
昔は東宮は宮殿の外側にあったそうだが後に宮殿内に建てられるようになった。
皇太子はいわば次期党首。よって太陽の昇る東側に設置されていたようだ。
日本統治時代に博覧会催しの為に撤去されたが戦後復元された。
しかしココまで来るともうだんだん見飽きてくるもので...
じっくり見ようとする感覚が薄れてくる。
現職バリバリに彩られた韓国の復元宮殿は
さすがに大きくてちょっと飽きが来るね。
ということでぐるっと一回りして
勤政門の前の広場まで戻り、その後
元朝鮮総督府のあった広場を抜けて
光化門をとおり
景福宮を跡にしました。
11:07に入って12:10に敷地を出ましたので
およそ一時間ほどの見学でした。
総評:
さて
総合的な感想ですが...
うん さすがに広大ですばらしいですね。
ただ歩いてくるとやはり飽きる。
大きいけどメインは勤政殿と慶会楼
まぁその二つといっていいでしょう。
そのほかの建物というとどれも似たり寄ったりでわざわざ見て廻るほどのものでもな
い感じです。韓国時代劇が好きな方ならまぁいいと思いますが
何せ殆どは復元遺産なので貴重なモノも少ないです。
ただし李氏朝鮮時代の王の栄華を知るには一度訪れるのも悪く有りません。
しかし確かに規模はでかいのですが
一棟一棟独立しているためか建物自体はとても小さく感じます。
日本の宮殿式建物が複雑に増築されて規模が巨大化しているのと比べると
かわいらしい建物が多い感じです。
宮殿といいつつも一棟は庶民の建物とあまり規模が変わりません。
日本は建物内に上げて人を接待するのに対して
韓国の場合は宮殿前の敷地に人をいれて拝謁する仕組みの為に
宮殿を大きくする必要がなかったように感じます。
これは多分封建時代を経ているかどうかの違いではないでしょうか?
封建時代日本は武士団の長としての征夷大将軍は居ましたが
あくまでも階級としては軍隊の長。しかも天皇の任命が必要となっていたので
例え皇帝の地位的な征夷大将軍ですら入れ替えが利く領主長でしかない。
各武士の領主はだれもがその武士団長になる資格があるのでいわば
平等な立場だったということになります。そう考えると平等な立場の相手を
野ざらしにすることはできないということで室内謁見というのが
日本のスタンダードとなっていたと考えられます。
そういうのを感じるのにはいいですね。
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