韓国ソウルにある五つの宮殿
その中で一番価値が高いとされるのがこの昌徳宮(창덕궁)です。
ついついソウルの宮殿という意味では景福宮を思い出しますが
実は李氏朝鮮においてその殆どの時代の中心となっていたのが
この昌徳宮。
ということでこの昌徳宮を逃すことはできませんね。
今回はその昌徳宮をまわります。
昌徳宮(창덕궁)
場所はソウル市街地から見て東側
宗廟の上に有ります。
宿泊したホテルからも近く
歩いていけなくはありませんが
僕たちは11月7日に宗廟方面から徒歩できたので
ちょっとホテルからの距離はつかんでいません。
しかし宗廟からで言うとそれほど距離があるようには
感じませんでした。歩いて充分たどり着きますからね。
コチラの地図のほうが建物が漢字で掛かれてて分かり安いです。
実はここ昌徳宮には今回の旅で二度訪れました。
翌日の11月8日です。
なぜ二回も訪れたかというと実はここ
昌徳宮の裏手に広がる庭園への入場が11月7日にはできなかったからです。
日本語ツアーに申し込みたかったのですが
それが一日目ではかなわなかったからなのです。
そこでトラブルが発生しました。
自分は係りの方に「今回日本語ツアー間に合わなかったのだが
次回また入場料はかかるか?」と尋ねたら「窓口で言ってくれればかからない」と
いわれ翌日再度トライしたという経緯があるのですが
なんと入り口チケット売り場で話を聞くと駄目とのこと...
なんてこったい まぁそりゃそうだわな...
と大変残念に思ったのですがそれでも入場料は日本円にするとたいした額じゃないので
再度支払って入場したわけです。
とそんなこんながあったのですがまぁそれも旅の思い出としてはありですよね。
さてということでその二日間分をここで紹介します。
入り口は交通量の多い主要道路に面しています。
交通量の多いYulgok-ROを通っていると
突如デデンと大きな門が見えてきます。
そこがまさに昌徳宮です。
このおきな門。
敦化門
敦化門詳細はコチラ↓
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は韓国最古の門といわれており
1412年 李氏朝鮮 太宗12年 に建築された。
当初建築そのままを残しているようです。
李氏朝鮮が始まったのは1392年ですから
建国二十年目に建てられた貴重なものですね。
日本では丁度戦国時代に突入し始めたころですね。
秀吉の朝鮮出兵時の火災によりこの門意外はすべて焼失したというから
この門だけが当時の建物として残ったという経緯があります。
うそか本当かその火災は秀吉軍によるものではなく
宮殿を捨てて逃げた後に民衆が火を放ったというわけですから
もしそれが本当なら朝鮮とは昔から民衆と為政者との間であまり仲がよくなかったのでしょうね。
うん確かにとても立派で大きな門ですね。
しかしどうも国宝指定はされていない様子。
どうしてなのでしょうかね?
昌徳宮自体が世界遺産に指定されたからわざわざ個別で指定する必要がなくなったということでしょうか?
さて色々あるのですが結果始めの昌徳宮は当然チケットは景福宮で購入した総合チケットを利用したのでそのママはいります。
さてその貴重な門をくぐって敷地内に入っていきます。
逆側から敦化門を見てみるとこのような感じです。
紅葉が綺麗ですね。
そもそもが離宮として作られていた感じがします。
形が面白く、景福宮と違い横に広がるといった感じです。
なぜ景福宮を復旧させるのではなく
こちらを優先したのでしょうか?
真意はわかりませんがもしかしたら
秘苑があったからかもしれません。
秘苑とは宮殿の裏側に広がる広大な庭のこと
しかし、西洋のそれや日本のそれとは違い
庭を造るというよりも
山や森、池にいかように建物をマッチさせるかという
自然主体の造園方法がとられており
後宮でありながらもとても質素でしかしその自然豊かさはほかに類を見ないもの
であるようです。
この質素さも世界遺産に選ばれた要因だといわれています。
この秘苑については後ほど詳しく記載します。
昌徳宮自体はもう政殿が正門である敦化門のすぐ近くの右手側に据えられているのですが
その前に敦化門から真正面にある建物を紹介しておきましょう。
闕内各司
写真は遠めでしか撮影していませんが
こちらは闕内各司
闕内各司詳細はコチラ↓
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まぁ字のとおり
行政区とでも言うべきでしょうかね?
役人たちが働いた事務所です。
玉堂
君主が教書の講義などを聞かれる経筵(けいえん)が行われた場所
いかにもお役所といった感じの建物も有りますw
璿源殿
闕内各司の奥、
萬福門でつながっており
璿源殿詳細はコチラ↓
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政殿の真となり。左側で政殿への入り口脇にあるのが
璿源殿一帯です。
こちらは歴代王の御真影を祭る殿閣です。
御真影というのはいわば肖像画のようなものです。
どうも昔は政殿の真裏に立てたなんて話も聞いていますが
祖先の御真影を祭る場所ですから日が沈む西側に建てたのでしょうか?
しかし肖像画を飾るだけの建物を建てるなんてのは驚きですね。
養志堂
璿源殿で祭祀を行う前にとまる齋室
養志堂からは政殿である仁政殿が見えます。
この建物は復元されたものです。
璿源殿
そして璿源殿。こちらは1695年(肅宗21)に建てられようです。
当時のままが残されており、韓国国宝817号となっています。
さてそれではいよいよ
錦川橋
現存する韓国最古の石橋といわれています。
進善門
から入って政殿前の広場に入ります。
続いて
仁政門
仁政門詳細はコチラ↓
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こちらにもチマチョゴリをきた女性たちがいました。
写真撮影に余念が有りませんでしたね。
インスタ栄えを目指しているようですが
天気があいにくだったのが少し残念かな?
を潜り抜けた先にあるのが...
仁政殿前の広場...
うん威厳があるように広く造られていますね。
そして...
でたーーー
どどーーーんとある
政殿である
仁政殿
仁政殿詳細はコチラ↓
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でかいね~
というか配置上でかく見えるといったほうがいいかも
上手に作られています。
遠くから切り妻の屋根が見えていましたが
周りの建物をわざとなのか小さくあるので
特にでかく見えるんです。
これは凄い効果だね。
韓国国宝第225号に指定されています。
景福宮の勤政殿同様
吹き抜けドーム的な建物
床面積がおよそ800平方メートル
勤政殿の床面積がおよそ1200平方メートルなので
一回り小さい感じですね。
それでも結構大きく見えるのは
ほかの建物との対比によるものと思われます。
小田原城天守閣の底辺面積がおよそ600平方メートルなので
小田原城天守閣を一回り大きくしたような感じですかね。
切り妻屋根に施された装飾はとても煌びやか
しかし他の宮殿に比べて少し抑えられた印象が有りますね。
朝鮮半島の経済は李氏朝鮮を通じて
それほど裕福では有りませんでした。
科挙制度があったにせよ
両班(ヤンバン)と呼ばれる貴族達の横暴が目立ち
民衆が虐げられ生産性も上がらないという状況がつづいていたとか...
両班は基本仕事をしないというのが常。
しかも民衆がこぞって両班の身分を闇で購入するようになり
全国民の半分が両班だったという記録もあるくらいです。
しかし貴族といえどやはり全国民の半分が両班だったと言うのは無理があり
その両班の妻たちが内緒で内職をするなんて光景は結構有ったようで
当時の日本と比べても日本の庶民のほうが余程裕福だったといわれています。
王宮には仁政殿だとか勤政殿などあたかも政治に真摯に向き合った印象を
もたせるネーミングが多いが逆を言えばそのように装わなければならなかったと
言ったほうがよかったようです。
そのためそれほど経済力がなかったためか
この昌徳宮においては一般的に質素に仕立て上げられています。
江戸時代の日本は逆に民衆が余りに力をつけてしまい。
江戸時代を通じて何度も民衆の贅沢を禁じる法令が出されたりもしています。
この違いはドコに有ったのでしょうか?
やはり大陸と地続きというのはそれだけリスクが高かったのかはわかりませんね。
さて宮殿内ですがちょっと暗いですがこのようになっています。
玉座が見えますね。
そう思うとこの玉座もなんとも質素な感じしますよね。
もしかしたら朝鮮王朝は別に質素なものを望んだというよりも
そうせざるを得なかったというのが正しいものの見方なのかもしれません。
そういえば朝鮮半島の白磁。もうそれだけでとても洗練されているのですが
それも色をつけることができなかったとも言います。
用は色をつけるほどの予算をかけられなかった。
そう考えるとその中であれまで美を極められるというのは凄い話ですね。
さてこの玉座も景福宮にある玉座同様 日月五峰図 がかかっていますね。
玉座からの眺めはこのようになっています。
そんな貧しかった朝鮮半島がよくここまで発展したと思うほどですね。
西側に見える高層ビル群が
今の半島の力強さを印象付けています。
さてこの昌徳宮
秀吉の朝鮮出兵のころに民衆によって火を放たれたといいましたが
それ以外にも何度も火災にあっています。
その数合計四回といわれています。
そのたびごとに修復しているのですが
そもそもは1404年9月第三代国王太宗が造営を命じ
突貫工事にて1405年10月に完成させたとか...
このころから半島では突貫工事の伝統が受け継がれてきたのか!?w
しかしこれだけの規模の建物群を一年ほどで計画から作り上げてしまうのは
凄いといえば凄い。
まぁ当時はまだそれでも小規模のものだったろうとは思うのですが...
しかしその後拡張に拡張を重ねて1460年第七代国王世祖の時代に
完成を見たということですからまぁそういうことなのでしょう。
秘苑の造園はその世祖の代だったようです。
二度目の火災の際、15年をかけて再建を試み1647年におおかた再建が終了したとのことでしたがそのころからここ昌徳宮が正宮として使われるようになったそうです。
僕らは政殿である仁政殿を後にして
仁政門を抜けて左折します。
この昌徳宮のつくりから
政殿の東側に位置する
場所からがいわば後宮となるわけです。
粛章門
を抜けていきます。
ここから先のいわゆる後宮ですが
ざっと
六つのブロックに分かれています。
宣政殿
宣政殿詳細はコチラ↓
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宣政門から入った先にあるのが...
宣政殿
なにやら入り口から屋根が付いていますね。
復道閣というそうです。
そもそもこちらは王の会議室兼政務室だそうです。
それがいつの間にやら位牌を祀る施設として使われるようになったようです。
朝鮮王朝では位牌を王宮に祀るのは三年。
それ以降は後に紹介する世界遺産宗廟に移されます。
当然粗末に扱うわけには行かなかったので
政殿の隣に配したということなのでしょう。
復道閣は祖先のお位牌を大切にした現われのようですね。
しかしなぜ東なのかね~?
さて宣政殿の東隣にあるのが...
熙政堂
熙政堂詳細はコチラ↓
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入り口がとても堂々とした装飾に飾られた場所ですね。
天井の装飾がとても美しいです。
こちらは
熙政堂
ココより奥にはいけませんでしたので
熙政堂の前面写真は撮れませんでした。
脇から見るとこんな感じです。
王様の研究室兼政務室として使われたようです。
簡単にいえば宣政殿が国葬に使われるようになったので
その代わりとして建てられた建物ですね。
研究室兼政務室とありますが
王の生活拠点がこことなります。
その熙政堂の奥にあるのが...
大造殿
大造殿の詳細はコチラ↓
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王妃の生活拠点です。
ここ昌徳宮というとよく語られるのが
日本の
梨本宮家から嫁ぎ、大韓帝国最後の皇太子李垠の妃となった李方子(まさこ)様
がここ昌徳宮にお住まいになられたようですがこの大造殿では有りません!
昌徳宮に方子様がお住まいになられたのは戦後なんですね。驚きです。
この大造殿は1917年の火災により焼失。
その後1920年景福宮にあった寝殿を移築したのがこの大造殿だそうです。
景福宮時代の大造殿は単体だったようですがここ昌徳宮に合わせて
翼棟を造り
裏手にある景薫閣とつなげたようです。
今回はなにやらイベントごとで利用されているようでライトアップされた大造殿が綺麗でした。
大造殿は裏手に廻ることができます。
コチラは左翼側の棟です。
裏手に廻るとオンドルの煙突が見えますね。
大造殿の裏手にある
景薫閣
景薫閣詳細はコチラ↓
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地味な建物ですが
オンドルの施設があったようですね。
このあたり一帯が昔の昌徳宮の姿を残す貴重なエリアだということですが
観光客的にはあまりパッとしませんね。
オンドルの施設も見えます。
ということで王様 王妃様のムフフエリアからおさらばです。
誠正閣一帯
誠正閣
誠正閣詳細はコチラ↓
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誠正閣は朝鮮時代の貴族、士大夫の屋敷に似せて造られています。
高床式
オンドルの部屋も有ります。
ここは王子たちが勉学に励んだ場所とのことです。
この誠正閣の前には保護聖躬と調和御薬という棟があり
ここではいわば王家の健康管理を担っていました。
いわばこの一角は知識の宝庫ということになりますね。
誠正閣の裏手には
観物軒と喜雨楼が有ります。
この建物は書院や講堂のようなものだそうで書筵や経筵が開かれていたようです。
1884年12月4日、日本の後ろ盾を得た独立党が清朝勢力の事大党の一掃を図り
王宮を占領し新政権を樹立した
甲申政変(こうしんせいへん)が起きた舞台がこことのことです。
青年官僚である
金玉均(キム・オッキュン、김옥균、きん ぎょくきん)
が高宗を擁護しここ観物軒喜雨楼に立てこもり独立を宣言するも清軍の介入を経て結果敗北。
高宗(ゴジョン、こうそう、고종)が后のいる宮殿に逃げ帰るという結末に終わる。
結果三日天下として半島では知られるがその後金玉均は日本へ亡命している。
宮殿に流れ込んだ清軍は
袁世凱
率いる800名、呉兆有率いる400名。
対して金玉均率いる朝鮮軍は400名および日本軍150名だった。
しかし日本朝鮮軍は奮戦し清軍53名が死亡したのに対し日本軍は1名のみ。
ただし多勢に無勢で結果敗北したという。
その後清軍や朝鮮人は暴徒化し、昌徳宮に火をつけたり、漢城にいた日本人に暴行するなど傍若無人に走り日本人が退去して半島から離れるという事態に陥っている。
金玉均はその後日本の冷遇に耐えかねて上海に渡るがそこで殺害されている。
金の妻子は政変の失敗から10年間行方知れず。1894年忠清道沃川付近で
東学党の乱鎮圧に当たっていた日本軍により偶然発見されたが見るも無残な姿だったとか...
李方子さんが朝鮮皇太子と結婚する36年前の出来事...
そんな歴史的大事件が起きた誠正閣一帯のとなりここから秘苑へ入る入り口となるのですがその前にその秘苑の向こう側(東側)にまだ建物が残されているのでそちらを見てみましょう。
樂善齋一帯
樂善齋一帯詳細はコチラ↓
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このあたりはこまごまとした建物が密集しています。
ココはいったい何のエリアかというと
いわば隠居の場所といったかんじだろうか?
元王だとか王妃だとかが居を構えて過ごされたエリア。
女性達の歴史が刻まれたエリアはココ!
では一つ一つ見ていこうかね。
その区画の一番宮殿寄りにあるのが...
樂善齋
樂善齋詳細はコチラ↓
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華やかな王宮にあってなんとも質素な建物ですね。
色合いもシックにまとめて有ります。
建物は韓国風にこじんまりとしており
庭などもなくとてもつつましい感じですね。
しかしそれで居て確りとした佇まいは
シックな中にも力強さを感じます。
誠正閣にも似た形で韓国貴族風の建物ですね。
そもそもココは憲宋の書斎兼逢引の部屋。
憲宋(ホンジョン)は1834年に数え年八歳で即位した朝鮮第24代国王。
憲宋の妻 純元王后との間に子供ができなかったので後宮(側室)に柵封(任命)された
慶嬪(キョンビン)金氏の為につくった家。
憲宋は幼少で即位しただけに権力闘争に巻き込まれたり、カトリック大弾圧である己亥迫害が起こるなど朝鮮国内は荒れに荒れた。1849年に亡くなるのだが子をもうけることはできなかった。
その後玄祖父まで遡った
荘献世子(そうけんせいし、チャンホンセジャ)の次男の系図に居た
哲宗(てっそう/チョルジョン 철종)が第二十五代国王に即位している。
しかしその哲宗も子供には恵まれず、男子五人居たが全て夭折(ようせつ:若くして亡くなること)した。そして荘献世子の三男の家系である
興宣大院君(こうせんだいいんくん、흥선대원군、フンソンデウォングン)の子供、
高宗(ゴジョン、こうそう、고종)が26代国王に即位した。
その子供が
李垠(イ・ウン、 이은)で
方子様の後主人です。方子様と李垠の子供である李玖には子供がなく李垠の兄の孫である李源が養子になっている。
このように李家は複雑に複数存在し、どの系図が正当といえるか未だ係争中。
現時点では李朝宗家第三十代当主となっているのは
李玖(イ グ、이 구)
の養子である
李源(り げん/イ・ウォン)
なのだが2006年に即位したとされる高宗三男
李堈(り こう/イ・ガン)
の第五公女、
李海瑗(り かいえん/イ・ヘウォン.이해원. 李源の大叔母)ともめている様子。
オンドルの煙突がかわいらしいですよね。
話しは脱線してしまったが
実はここの
李方子(まさこ)様が晩年お過ごしになった場所がここ樂善齋です。
まぁもうあちこちのブログで紹介されているので
わざわざ書くのも馬鹿らしいのですが
李方子様は結婚を大磯に有る別荘で新聞を見て知ったとかw
凄い話しだなw
旧梨本宮大磯別邸跡地
因みに大磯には
滄浪閣なる伊藤博文の本宅もあり
そこには李垠も足しげく通い、伊藤は常々李垠に次期国王になるべく
色々な言い聞かせをしていたようで二人が浜辺を仲良く歩いているところを
町民もよく目にしたそうです。その後この地は李王家に譲渡されており
伊藤と李垠の仲を忍ばせます。
滄浪閣はその後西武鉄道の所有となり、現在は某建設会社の持ち物となっています。
保存か再開発かでもめているようですが町との折り合いがつかづ現在は宙ぶらりん状態。
しかしやっと政府が動き出し「
明治維新150年」を契機に整備が始まるようです。
ちょっと期待ですね。しかしこんなに貴重な文化遺産が残っているのに今までほったらかしだったというのはなんとも情けないですね...
さて話しを戻しましょう。
どうも子供ができない体だということで朝鮮王朝を終焉させるために
送り込まれたというまことしやかな話しがあるが実際には子供はできているw
本来結婚は1919年に行われる予定だったが直前に高宗が脳溢血の為死去。コレを日本側の毒殺という噂が流れ
三・一独立運動が始まったため延期。
1920年4月28日にご結婚されたということ。李垠とは日本で生活していたが高宗と側室の子供である
徳恵翁主(トッケオンジュ)
が統合失調症だったこともありその介護をかいがいしく行ったそうだ。戦後李垠は韓国への帰国をはかったがなかなか許可が下なかったが
朴正煕(パク・チョンヒ 박정희)
が大統領になった際日韓国交正常化が行われたこともあり許可が折りたため1963年韓国に夫婦共々移り先に帰国していた徳恵翁主と共に樂善齋に居を構えた。
建物はやはりそれほど大きなものではなくこじんまりとしかし夫婦家族で生活するには充分な広さだったと思わ
れます。オンドルもあるので暖かかったのではないかな?
その後1970年金婚式の三日後に李垠が他界。李垠は王位は継承していなかったが朴正煕の許可を経て王家の宗廟である永寧殿に「懿愍太子」の諡号で位牌が納められている。
壁のつくりが亀の甲羅のように作られています。長寿を願う形ですね。
李垠没後方子様は障碍児教育に力を注ぎ1981年韓国政府から「牡丹勲章」を授与されている。1989年(平成元年)4月30日逝去。葬儀は韓国皇太子妃準国葬として執り行われ、韓国の勲一等を追贈されている。
建物の裏手は傾斜を利用し階段状につくられてそこにオンドルの煙突がすえられています。煙突の上の壁の向こうは上涼亭だそうですがそこには入れませんでした。
因みに方子様方が後を追うようにしていた徳恵翁主の人生はというと
病気を抱えながらも1931年旧対馬藩主宗家の伯爵
宗武志(そう たけゆき)に嫁いでいる。
これまた宗武志、なかなかの男前なんだわ...
今で言う
玉木宏みたいな感じです。徳恵翁主もかわいらしい感じの人だしね。美男美女でいいんじゃないかしらね。
政略結婚とは言え二人はとても中むつまじく
正恵を出産している。しかし病気が悪化し1955年離婚。その後1962年に韓国に帰国している。長らく病気と闘いながら1989年4月21日にここ樂善齋で死去している。
李方子様は徳恵翁主の死の九日後に亡くなっていることを考えると本当に李方子様の晩年はこの徳恵翁主を支えていたことを感じざるを得ない。
李方子様、徳恵翁主関連の映画 「ラスト・プリンセス 大韓帝国最後の皇女」
もご覧いただきたい。方子様は1901年生まれ、徳恵翁主は1912年生まれ。
さて足は裏手側から隣の敷地に入ります。
やはりオンドルの煙突がかわいらしいですね。
上に見えるは間静堂ですがそちらには足を伸ばしていません。
そしてこの敷地が
錫福軒
錫福軒詳細はコチラ↓
折りたたむ
憲宗が慶嬪の家として作らせた建物です。
コチラは建物が回廊形式になっており
中庭が有ります。韓屋ってこんな感じの造り多いよね。
コチラもとてもこじんまりとしていますね。
なおこの回廊の入り口側に身の回りの世話をする人の控えの間があったとか...
ちなみに慶嬪金氏は1907年没。それまで慎ましやかにすごしたとのことでした。
寿康斎
寿康斎詳細はコチラ↓
折りたたむ
錫福軒の隣にあるのが寿康斎(スガンジェ)。
徳恵翁主(トッケオンジュ)は主にココに居たそうです。
さてコレで何とか昌徳宮を走り抜けてきたことになります。
さぁ帰りますよ。
やはり紅葉がとても綺麗でした。
さて「宮廷女官チャングムの誓い」はココを舞台にしています。
行く前に見てみるのはいいかも知れませんね。
秘苑がまだ残されていますが
この広大な庭園の話しはまた後ほどにしましょう。
総評:
景福宮がお飾りの宮殿だとしたら
この昌徳宮はまさに時代を見てきた宮殿ということになりますね。
見る価値有りとうか必見の宮殿です。
ココにこなければソウルにきた意味がないとまではいいませんが
来て欲しい宮殿です。
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