しかし神奈川というのはつくづく邸宅には恵まれていますなw
しかも別邸としての邸宅が多いので
対外的に目立とうとする迎賓館的のりではなく
自宅のような要は落ち着いた空間を演出されている建物が多い。
生活が見える。それが神奈川の邸宅なんですわ...
今回訪れるのは松永記念館 老欅荘。
ここは松永安左ヱ門氏の邸宅として創られました。
松永安左ヱ門? その話は後程としまして
こんかいは松永記念館 老欅荘です。
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場所はちょっとわかりにくいんだわな~
でもその道すがらがなかなかいいんだよ。
自転車などで回るにはちょうどいい距離だわ...
なかなか古い建物邸宅が色々並んでます。
もちろん殆どは建物内を見ることはできません。
でも
醤油醸造所 内野邸 は有料ですが見学ができます。
さて松永記念館ですがその内野邸の先にあります。
ここはね。清閑亭同様入館無料です。
駐車場も無料であります。
午後四時半まで開館しています。
行ったのは春先ですがね。
じつはここ秋がいいんですわ...
老欅荘は実はこの建物じゃないんですわ...
ここはあくまでも記念館。
記念館には松永安左ヱ門氏の色々な情報が展示されています。
松永安左ヱ門氏とは何者か...
この人です。
なんとも厳しい顔立ちの方ですね。
この人 日本の電力王といわれています。
でなにやったひとさ...
といわれるとなんなんでしょうか? 笑
良くわからないのですがとにかく日本の電力事業に多大なる影響力を見せた人物と見ることができます。
この方は戦前と戦後に分ける必要があるのですが
まず戦前においての電気事業は民間供給会社が次々と立ち上がった時代であることを忘れてはいけません。その中において福沢諭吉に感銘を受けた松永安左ヱ門は慶応義塾に入るが勉強に飽きてやめてしまう。しかし福沢には師事し福沢の後をついて歩くようになり、福沢の娘婿となった福沢桃介に引っ張られて東邦電力副社長になる。その後電気会社の吸収合併などをすすめ戦前における五大電力会社の一翼を担うことになる。
しかし戦争に進んでいく中、軍閥に傾倒し電力事業の国有化を模索している官僚達に対し「人間のくず」と語るなど当局ににらまれるなどして結果電力事業は国有化され一線を退くことになる。
お茶を好んだ松永安左ヱ門は所沢の邸宅にて茶の湯三昧の生活を送っていた。
戦後まもなく移り住んだのがここ小田原の老欅荘だそうだ。
このまま埋もれていくかと思われた松永安左ヱ門であるが
戦後GHQ体制になり電力供給が課題になる中で軍部に傾倒しなかった松永安左ヱ門は注目を浴びることに成り電気事業の再編審議会の委員に任命される。
そこで彼が提唱したのが電力事業の九分轄案である。戦前の雨後のたけのこのようにできた電力企業の競争により供給不安に陥った電力を安定供給させるための案でもアリ、また電力供給の国有ではなく民間主導を尊重した折衷案であったそうだ。
しかしGHQなどが当時薦めていたのは十分割案であったがその決定的違いは各電力会社同士の相互乗り入れがないという点である。
反対勢力が大勢を占める中、強力にその案を推し進め、更に電力安定供給と将来の経済発展を見据えて電力料金値上げを断行するなど松永安左ヱ門は電力王ならず電力の鬼とまで言われるようになる。
東北震災の際 東京電力の電力量不足により関西側から電力供給を受けることができたのはこの松永安左ヱ門の案があったからだということだろうね。
自分はこの九分割案(現在は沖縄電力を含む十電力事業者になっている)には震災(東北震災)前から反対だった。それは東電の原発事故は寡占状態だった電力供給に問題があり驕りが出てしまったのではないかと感じているからなんだけど...
松永安左ヱ門の考えに反対だったというわけではなくむしろ先見の明をもった彼に逆に感動すらしています。
戦後まもなくから高度経済成長期、電力の安定供給という意味から寡占状態は必要だった。ただ松永安左ヱ門が民間に任せるためにとった九分割案、特に相互乗り入れ可能にする仕組みは震災後の関西電力からの電力供給という意味からも、また電力寡占状態への疑問から複数事情を認める大勢へ移る移行をしやすくしたという意味で大きなものだったのではないかと考える。
おかげで今は色々な企業が電力に参加しており、ここでまた切磋琢磨されていくのであろうと感じる。
松永安左ヱ門翁のこの仕組みは必要な供給を安定的に提供し、かつ民間の力を確り活用できる状態を維持するのに大きな貢献をしたといえる。
さてではその邸宅、老欅荘に向かってみましょう。
老欅荘は松永記念館の裏手にあります。
傾斜地を登っていくと...
お屋敷の前に欅の巨木が...
これが老欅荘の名前の由来の欅の木です。
そして階段を上った先にあるのが...
これが老欅荘です。
日本電力の鬼と呼ばれた人がお住まいになるにはとても小さく質素な建物ですね。
小田原三茶人とも言われただけあって建物の概観や門から見える庭になんとなくワビサビを感じます。造りも独特ですね。
これは荘内にはいってから係りの方に伺ったのですがこの表玄関はいわば寄付(よりつき)になっており玄関自体が腰掛となります。客はその後門から入って露地をの飛び石を通り裏手側の茶室のにじり口から入るようになっています。
面白いですね玄関をそのまま茶道の形式に用いるなんてなんて粋なんでしょう。
観覧者が入ることのできる入り口の近くに建物の図面があります。
そこにもここ老欅荘全体が茶庵になっていることが伺えます。
入り口はこのような感じになってます。
当然靴は脱ぎましょう。
早速なかに入ってみましょう。
なかにはいると...
古いお宅って感じですね。でもとっても広々...
松永安左ヱ門(耳庵)の略年譜が記載されてました。
これも係りの方からの話なのですがこの建物は増築を繰り返しており
八年から九年かけて完成したようです。
十畳の広間。広々としてますね。
そこからは露地が良く見えます。
瓦塀がいい感じですね。
広間にあるったこの文字。
「仁遠乎哉」
これは論語の中にある「子曰く仁は遠からんや」からきています。
訳は「孔子曰く仁(人間の愛)の道は我らの手に届かない遠くにあるものではない。」となります。
これには続きがありまして...
「我欲仁斯仁至矣」
「私が仁を求めればすぐにそれは手に入るものだ。」ということだそうです。
そのとおりですね。
さてこの部屋ですがとてもすっきりしていますよね。
あたかも松永安左ヱ門翁が簡素な暮らしをしていたと思いガチですが...
実は家具類などは全て片付けてしまったのでこうなっているんだそうですw
松永安左ヱ門翁は多くの女中さんや書生さんを住まわせており身の回りの世話をしてもらっていたそうですがその彼らが言うには、部屋にはテレビなどもあったし、とにかく本が多かったとのことでした。まぁそりゃそうですよね。松永安左ヱ門だって人間ですからねw 生活はあくまでも人間臭いものだったのでしょうw
さて入り口から左側すぐ本玄関側に寄付(よりつき)があります。
この寄付でもお茶をたてられるように炉があります。
この寄付の隣には水屋があります。
この部屋の前に10畳の部屋があります。
これは松永安左ヱ門婦人の部屋があります。
一番眺めのいい気持ちのいい部屋がご夫人の部屋とはなかなかご夫人想いですよね。
さて経路は少し廻って
茶室のほうへ...
八畳の鎖の間。
ここはお茶をいただいた後にゆっくり食事や酒を楽しむ
場所だそうです。しきたりに厳しい茶の湯の作法から開放されて宴を楽しむ場として用意されたそうです。そのために淵のない琉球畳が敷き詰められています。
そしてその鎖の間に隣接しているのが大き目の水屋です。
ここにも炉がありますがここは準備用ですね。
そして...
メインの茶室...
松下亭
広めの茶室ですね。
床の間には一幅の掛け軸が...
お部屋はここまで
二階もあるそうですがそちらは納戸として使われていたそうです。
うん なかなか茶人らしい素朴なお家でしたね。
さて建物はここで出ましょう。
入り口の前には
九重の塔がありました。
さて実はねここ秋がお勧めといった理由があります。
松永記念館の前に池をたたえた小さな庭園があるんです。
もちろん春先でもね。
花などが咲いて綺麗なんですが
秋の紅葉の時季がまたいいんですわ...
ということで秋がお勧めなんです。
さぁ皆さんも出かけて見ましょう!
総評:そりゃお勧めですよw あなたも鉄人の一端を知りましょう...
故人 松永安左ヱ門は1971年にこの世を去っています。
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