GCS step1

全国のライブカメラを地図上に表記

 全国のライブカメラの位置です。 いろいろご利用ください。 https://www.google.com/maps/d/edit?mid=12xkj87OQ_G_CbWapzBhV-c4lc6CExdPl&usp=sharing

2019年8月15日木曜日

【戦国北条の城】山中城

箱根を超えた先に古い古城がある...
山中城
今はひっそりとその土塁だけが残されているのだが
これがまた結構綺麗に残されている。

戦国時代
100年に渡って関東を支配した北条一門の要の城

今回はその要の城山中城に行ってみたので
ご紹介します。

今回は山中城です。


写真協力:箱根全山

国道一号線を走っていると箱根山を越えたなだらかな下り坂の箇所で
山中城という名前を目にする。
今はそのあたりはバイパスで通過してしまうが
以前はそのとおりを通るたびに気になっていた。
でも箱根を越える=目的地がその先にある。
ということでね。なかなか立ち寄るまでにはいかなかったんです。

でも今回は満を持して行って見ようとなりました。

場所はまぁわかると思います。
国道一号を箱根を越えた先。

そんなに難しくないよね。
でも今はバイパスが通ってしまい。
そのママ何も考えずに進むと通り過ぎてしまいます。
トンネルの手前を左折すると無料駐車場売店 トイレがあります。


いけばわかる
そんな感じですかね。

このあたり一体は
ハイキングコースとしても整備されているようで
ハイキングコースの看板も立っていました。


山中城は戦国期北条方の城で
豊臣の小田原征伐の際には激戦となった城です。

東海道、現在の国道一号線をまたぐように作られて
いわば小田原西の要の城となります。


駐車場はその東海道。現在の国道一号線にあるので
いわば真ん中に駐車場があるという形式です。
その駐車場自体も実はお城の丸の一部で北の丸というそうです。


今回はその城の出丸側ではなく本丸側のほうを散策します。

全体図などが看板としてあるのでそれを見て順ぐる廻るのもいいですね。


国指定史跡山中城跡の看板も見えます。


それによるとこの城は永禄年間(1560年代)に小田原防備の為に作られたとあります。北条家二代目当主、北条氏康の時代に作られたようですね。


歩いて行きましょう。
垣根の続く道を進んでいきます。


とても綺麗に整備されていますね。
コレは三の丸堀に沿った道で後々整備されたものでしょう。
写真協力:箱根全山

その先に池がありました。


田尻の池というそうです。
田尻の池から二の丸方面に進んでいきましょう。


すると第二の池が見えます。


こちらは箱井戸だそうです。
城内の水を確保するためにため池として利用したのでしょうか?

階段をあがっていくと大きな土塁が見えてきます。


なかなか大規模ですよね。


二の丸虎口と架け橋の看板が...


なるほど本丸が狭い部分を補うために
二の丸がココに整備されたということのようですね。

その先が二の丸です。


二の丸は結構広い感じです。

本丸側に行く前に
元西櫓の位置にいって見ます。


西櫓から二の丸を見た眺めです。

二の丸に戻り本丸側に進みます。

本丸掘りと櫓台のたて看板。


本丸と二の丸を隔てる堀があるのですが
そこは数種類の堀で構成されており
橋の真下は薬研掘。
その先に箱掘がなされているよう。


箱掘りはとても立派で確かに鎧を着た武者達がここを超えて丸に昇ってくるのは難しいと思われますね。
階段がその大きさを示しています。


さて本丸ですが
ココにも山中城の説明看板が立っていました。


写真の小屋のあたりが兵糧庫、その右脇に弾薬庫があったようです。


今は何も無いですが、土塁の風化を抑えるための芝生がとてもいいですね。
散歩の公園としても楽しめそう。

さてこの山中城。豊臣勢が押し寄せた天正十八年(1590年)はこの城を主将、北条氏勝、松田康長、副将、間宮康俊、及び松田康郷、蔭山氏広らが三千の手勢で守備していました。
当然激烈な戦いとなりましたが半日で落城しています。
まぁ当然といえば当然。何せ相手は豊臣秀次率いる七万もの兵です。
それで半日持っただけでも凄いといえば凄い。

松田康長(まつだやすなが)は松田康定の長男で松田一門。
申次衆を管轄する奉行衆としての任務についており寺社関連や楽市などに携わった記録があるようです。豊臣勢との関係悪化に伴い天正十五年(1587年)から山中城の整備に携わり、山中城城主となります。彼自身は山中城で討死、享年五十四。息子の直長はそのご徳川家に仕え旗本になっている。

松田康郷(まつだやすさと)は康長の弟。
北条氏の知勇に優れた武将として知られ、永禄九年(1566年)の臼井城の戦いでは100騎を率いて総勢一万五千の兵を有する敵上杉軍に切り込み本陣近くにまで猛攻するにいたり、上杉軍を撤退させた立役者として有名。その際に朱色の甲冑を身につけていたため「松田の赤鬼」と異名を受ける。臼井城の守備兵は二千だったことからしても大勝利。この臼井城の戦いは後の越相同盟の締結に繋がる。
山中城の激戦を生き延びた彼はその後、結城秀康に仕える。



写真協力:箱根全山

間宮康俊(まみややすとし 永正十五年(1518)から天正十八年(1590))
笹下城城主。相模玉縄城主である北条綱成、氏繁、氏舜、氏勝に仕える。伊豆衆の水軍を管理し江戸湾岸警備を担当している。山中城へ援軍として参じ、主将である北条氏勝を撤退させ、「白髪首を敵に供するのは恥」と墨汁で髪を染め、200の兵を率いて敵中に突撃、大名でもある武将一柳直末を討ち取るなどの武功を上げるが多勢に無勢、激烈な戦いの末壮絶な戦死を遂げている。享年七十三。この間宮康俊には五人の男子と徳川家の侍女、豊前氏盛の室となった二人の娘がいる。その後の子孫が間宮林蔵である。


北条氏勝(ほうじょううじかつ)
玉縄城主。山中城落城の際に自害を図ろうとするが制止され玉縄城に逃げ戻り篭城するが玉縄城下の龍寶寺住職に説得され降伏。その後は北条方諸城の無血開城に尽力する。後に家康に仕えるようになり下総岩富に一万石を有し岩富藩の藩主となる。その後氏重が藩を継ぐが、富田藩に移封されたため岩富藩は廃藩となる。




この本丸の先に天守台がありますがそこまでは足を運んでいません。
このお城の見所は天守台ではなく
北条が得意とした障子掘!
それが美しいんですわ...
ということでその醍醐味を味わいに再び二の丸側へ...


橋を渡って...
西の丸へ...


西の丸の説明看板。
なるほど東に傾斜しているのは雨水をためるためなのね...

結構広いです。

さてそこには物見台があるのでそこにえっちらおっちら登ってみると...

ずでーーーーーん!


みえた!
ワッフルのような障子掘!
うーーーん 美しい!

でもコレだけの高低差があると確かに城攻めは大変だよね。
向こうに見える平台は西櫓台です。

さて建物についてですが...
既に500年近く前のもの...
まったく無いのですが
土台すらもなくなっているとか...
というのもこのあたりの住民が耕作してしまったようで
跡形も無い状態でした。まぁね数百年放置されてれば
そうでなくても跡形も無くなるのですがそれでも
コレだけの遺構が残っているのだけでも凄い。

以前、沼津城を取り上げましたがあそこなんて200年も経っていないのに
本当の意味で跡形もありませんでしたよね。そう考えればむしろ残っているほうだと感じます。

建物に関するたて看板を見ると...


そもそも建物自体は掘っ立て小屋程度のものだったのがわかりますね。
お城とはいえ、御殿などがあって常時、お姫様が居たりなどの人が住むような城というより砦という意味合いのほうが強かったのでしょうね。建物にそれほど価値は無かったと感じます。戦いの為の城。むしろ土塁こそがココの城といえるものでしょうね。
そう考えると殆どの遺構が残っているといってもいいすぎじゃないです。

なんとなく当時の様子を示したブログがあり、そちらに詳しく載っているので
もう少し知りたい方はそちらをどうぞ。
関東、歴史旅行情報

今一度 山中城の縄張りを見てみましょう。


本丸を中央にとっていますが連郭式の城というのがわかりますね。

帰りはため池の下側を通って帰ります。


箱掘が美しいね。


芝の為になんだかゴルフ場みたいw
ここは躑躅も見事だそうで五月頃には美しい花が咲き誇るようです。

ざっくり一時間ほどの滞在でした。


総評:城全体としてはやはり砦といわざるを得ないほどに小さい規模ですね。
しかしそんな小さな城にもかかわらず七万という大軍を目の前に3000人で半日持ったって凄いなおい!
本当に綺麗に整備された城なのであまり歴史好きじゃない彼女とでも躑躅の時期には喜んできてくれるんじゃないかな?笑






0 件のコメント:

コメントを投稿