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2016年12月21日水曜日

おかげ参り道中 第十三立ち寄り所 関

おかげ参り道中 第十三番立ち寄り所 関宿

関宿 東海道五十三次 第四十七番目宿場町
今回はその関宿に足を運びました。

旅行というとついつい行ってしまうのが寺社城郭、または景勝地。
宿場町にわざわざ足を運ぶ人は少ないでしょう。
ところが宿場町の面白さは意外や意外
結構高い!

是非行ってみよう宿場町ということで今回は関宿です!









すったもんだがあり
関宿入り口にたどり着いたのは

11:11

入り口の大鳥居をくぐり
宿場町の入り口東の追分にたどり着いた。


追分周辺はさっと見ると
その奇妙な大鳥居とその近くに常夜灯がある。

しかし気になるその大鳥居。
近くに神社などはありそうもないがなぜここに鳥居が…

説明の立て看板をみて驚いた!


なんとこの大鳥居…
伊勢神宮の第一の鳥居だそうだ…

え?伊勢神宮w

ここから近い側の下宮までとしても直線距離にして50kmあります。
そんなところにすでに第一の鳥居が…

しかもこの大鳥居。
単なる鳥居ではなく、式年遷宮の時の内宮宇治橋南詰の鳥居を移築するそうだ…
結構本格的な鳥居ということである。

なるほど関宿は東海道五十三次の四十七番目宿場町。
そしてここの東の追分はちょうど東海道と伊勢別街道の分かれ道。
その分岐にある宿場町に第一の鳥居があっても差して不思議はない。

そういえばこの鳥居のすぐ下に現在の国道一号線が走っている。
ありがたいことに道の駅まであるw

その分岐にある宿場町。
なんだろうとてもワクワクするじゃないか!?

臨時駐車場でいただいたマップを開いてみる。



江戸時代おかげ参りの人々ももう伊勢を目の前にしてここの宿場町に立ち寄る瞬間のから騒ぎが目に浮かぶ。どれだけワクワクした感覚だったのか…
その宿場町に入る…


宿場町、どんなに派手なところか?と期待をしていたのだが以外と白けた…

軒の低い町家造りの家々が連なっているだけ…
確かに古い建物だがこれといって面白そうでもなんでもない…
あれ?期待はずれ??

しかも今日はお祭りだという…

うそ?どこがお祭り?? 人もまばら…そういえば臨時駐車場とやらも
車はまばらだった。
期待はずれ? まぁせっかく来たんだ。もう少し先に進もう。


しかし建物は確かに古い。格子戸が連なる


ついつい写真が進む。


そもそもここ関宿も含む東海道五十三次
江戸幕府の国家政策として作られた公営の宿場町だ。
ここ関宿は旅籠数42、本陣2、脇本陣2 飲食店99 軒数632 人口 2000人ほどだったそうで現在でも200軒ほどの町家が保存状態良く残っている。そのためこの地域は国指定の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。





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しかも現在でもその町家には人々が暮らし、生活の息吹が感じられる。

古い看板も時折ある。



なんだろう注連飾りがある。すでにお正月なのか?


途中休憩所だろうか?一服亭なるものがあったのでちょっと覗かせてもらった。



うーん 古さを感じる。梁がとても太い。
ここで関宿イラスト案内図なるものを手にいれた。


今回の旅でも東海道五十三次宿場町を二ヶ所通ってきた。
岡崎城のある岡崎宿 旅籠数112軒
熱田神宮のある宮宿 旅籠数247軒
それらの宿場町に比べれば小さい関宿だが
多分旅人のワクワク感はここが最高潮だったのではないだろうか?
東の追分に入るところの常夜灯。
その直ぐ近くの大鳥居。いよいよ伊勢に入る!ってそんな場所でワクワクしないわけがない。ちょっとこの宿場に立ち寄って一休みなんて気分もそりゃわかる!

ちなみに歌川広重の東海道五十三次 関 で描かれているのは
大名行列の一行が旅立つ間際の慌ただしさを描いているようだ。
当時は朝四時頃出発するのが常。大所帯の大名行列だ、朝の忙しさはさぞかしすごかったろう…




足を進めよう。

塗籠という方法での建物が目を引く。


おぉ流石にお祭りだけはある。徐々に人が増えてきた。


でもそれにしてもまだお祭り感が薄い…
本当に大丈夫か?

でもここの町並みは絵になる。

と…


足を進めると…

むむむっ 遠くに…あれは…


山車だ〜〜〜










関東地方に住む私たちにとって
山車というのはとても珍しい。

大概お祭りというと神輿になってしまい
山車でのお祭りはあまり見ないからだ。

おぉぉ すごい… 人も多い!


本当にお祭りだったんだ…と感動。

そしてもう少し歩くと…

もう一つ山車がある!


ナンテコッタイ!なんかすごいところに出くわした感じすら出てきた。

しかしこの山車、関宿の軒ギリギリを通っている。
うーん ギリギリだ〜
良くぶつからないね…

と…実はこのギリギリの山車
から「関の山」という言葉が生まれたそう…
もうこれ以上のないもののたとえの関の山。
この狭い関宿にギリギリの大きな山車をみて
人々は「まるで関宿の山車のようにそれ以上の物は出来ない」という意味から
関の山という言葉が生まれたそうな…


その語源となっている関の山を僕らは今見ている…


それは感動すらするものだ。
そして美しい掛け声もまたいい…






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そんな不意の出会いに感動しつつ
山車を追い抜き先に進む…


すると?


むむむっ これは花魁道中…



どういうことじゃ?



もしかしたらパレード形式なのだろうか?
そこに山車が加わっている感じか…
なるほど


ここ関宿には当然のごとく芸妓置屋があったのだから
遊郭とは違い花魁道中は行われたことはないだろうが
百歩譲るとする…w







まぁ大見得だとは思うが関宿の最盛期には二千人の女郎がいたともいう。
実際そんなにいたとなると伊勢の古市が小さく見える。三大遊郭と言われた古市で
千人の遊女だったわけだから流石に二千人というのは大袈裟だろう。そもそも遊女と女郎では格が違うのでもしかしたら実際二千人女郎がいたのかもしれないがそこは歴史に埋没している。それでも「関は千軒、女郎屋は沽券、女郎屋なくては関たたん」との歌にもあるほどだから関宿には多くの女郎がいたことは間違いなさそうだ。

戦争と交通の要所に女郎ありというから当たり前だ。

さて相当混み合っている道を人をかき分けつつ進む。


そしてそこには…


名物 志ら玉

の文字が…

思わず購入する。


食べ歩き 
これもまた旅の醍醐味だ。
賑わう祭りの街角
もしかしたら江戸時代の関宿はこんな感じの賑わいだったのではないだろうか?

しばらく歩くと大きなお堂が見えてきた。


その前には武者に扮した人たちがいる。
なんか時代はめちゃくちゃだがなんとなく許してしまいそうになるw


このお堂は地蔵堂


国の重要文化財だ。

うん、立派だ!



神奈川県の南足柄、あそこの足柄峠に向かう道すがらにも地蔵堂があるが
それを巨大にした感じw
そしてその隣にある愛染堂というのも重要文化財に指定されている。


なんかこういうのがランドマークと言うのだろうと感じる。
ここのお地蔵様の云くが面白い!
この地蔵を修繕した際、たまたま通った一休和尚に村人は開眼供養を依頼する。
快く引き受けた一休は「釈迦はすぎ、弥勒は未だいでぬ間の かかる浮世にめあかしめ地蔵」と詩を詠み、立ち小便をして去ってしまった。怒った村人は他のお坊さんに再度開眼供養をしてもらうがその夜住民の村人が高熱で倒れ、その夢枕に地蔵が立ち「せっかく高僧一休に開眼してもらえたのにやり直すとは何事か!元のようにせよっ!」と激昂。慌てた他の村人達が一休の足取りを追いかけると桑名宿にいた一休を見つけて相談する。
すると古びた下帯を手渡され「これを地蔵の首にかけ詠んだ詩をみんなで三回唱えろ」と言われその通りすると高熱が冷めたとの言い伝えがある。

その後ここの地蔵には下帯がかけられているというがそれはお目にかかっていない。






まぁ開眼している一休は世の中の無情さを知っているから当然適当なことを言ったにちがいないが高熱で倒れるも倒れぬもその村人の問題で本来お地蔵様とは関係ないものだろう。下帯を渡して変な文句を三回唱えるなんて本当に一休らしいいい加減さだと思う。そんなんで高熱は治らないwでも勝手に村人たちはそれを伝説化するのだから面白いものだ。


さて…ここまで来て11:55ころ…

いい加減お腹が空いてきた。

ふとお堂の隣、街道沿いに目をやると蕎麦屋がある…


うーんせっかくの東海道。古人になぞらって旅人らしく蕎麦でもすするか…
と入ったお店は会津屋


また随分古びたお店。

中に入るとお祭りのせいか大変混み合っている。
とりあえず自分の名前を書いて順番待ち。


お店に入ったのが11:58


なんと席につけたのが12:25


蕎麦が出てきたのは12:33


しかもお店は上へ下への大騒ぎw


賑やかで良い!笑

蕎麦はやはり美味い!
なんともヘルシーな味。
一品一品がしっかり味が付いている。
まぁここまで豪華だったかは知らないが
江戸時代の旅人の雰囲気を味わった。



さてこの古びた店内には何やら説明文があちこち掲げてある。



どうもここは昔、山田屋という旅籠だったようだ。
しかも関宿では鶴屋、玉屋と共に有数な大旅籠だったようだ。
そんな山田屋で蕎麦をすすれるなんてなんて贅沢なことか…

しかしそこかしこに小万、小万と書かれている


これはなんだ?と調べてみると…
なんともドラマチックな話が隠れていた。

第十代将軍家治の時代、この山田屋に一人の身重の女が宿泊する。
そこで産気づいた女が女の子を出産するが難産のためそのまま亡くなる。
その女が臨終の間際、宿の主人庄兵衛(吉右衛門とも言われる)にこの度は仇討ちの旅だと伝える。

この女は九州久留米藩二十一万石有馬家の家臣、剣道指南役牧藤左衛門の妻であり、
夫は口論の末、同僚、小野元成に殺されてしまう。
その小野元成は小林軍太夫と名前を変えて亀山藩に仕えているのがわかり
成敗しに行く途中だったと語る。

その義侠心に心を打たれた宿の主人庄兵衛はその子供に小万と名付け養育をし始める。
成長した小万を亀山の剣術師範、榊原権八郎(加毛寛斎ともいわれる)の元に通わせてから六年、師範の許しがおり、天明三年(1783年)八月、小万は亀山城大手前の辻で馬子姿に扮し軍太夫を打つのである。

仇討ち小万を描いてみました。
暴漢に襲われかけた小万は
関宿入り口の松陰に隠れて難を逃れたと言います。
そのシーンです。
小万は馬子の格好で宿敵小林軍太夫を打ったそうですが
亀山城下までの道すがらも男装していたのではないかという想像の元
描いてみました。
なんかちょっとエロいのは…
まぁそりゃね…ウフッ

これまたこの小万は絶世の美女と言われており、仇討ちをしたうら若き美しい女性みたさに山田屋は大繁盛したと言われる。
剣術修行の際、無頼漢に襲われそうになった小万が隠れた松が「小万のもたれ松」と称して関宿東の入り口にあるそうだ。
小万は享和三年(1803年)三十八でこの世を去っている。

歌舞伎などでの演目では小万は女郎と伝えられたりしているが
女郎の小万は別の小万だそうで以前からあった女郎小万の話と
仇討ちの小万の話がごちゃまぜになったとの説がある。

何にせよ天明三年といえばそれこそ伊勢の古市が賑わったころ…
その話は東海道を通じて江戸にまで行き渡ったことだろう。

ちなみにその十数年後古市で油屋騒動が起きている。

美女が絡むとなんらかの事件が起きるものなのだろうかw
それとも美人OL殺人事件などのようになんでも美人をつけたがるのか…w



13:00


食事を終え店を出る。


↓ここからご予約!
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会津屋
会津屋
ジャンル:和食定食そば処
アクセス:JR関西本線関駅 徒歩10分
住所:〒519-1111 三重県亀山市関町新所1771-1(地図
周辺のお店のネット予約:
居楽屋白木屋 名張駅前店のコース一覧
魚民 名張西口駅前店のコース一覧
えびすや 伊賀上野店のコース一覧
周辺のお店:ぐるなびぐるなび 亀山×定食・食事処
情報掲載日:2017年8月20日
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先ほど動いていた山車が地蔵堂のところに来ていた。


山車と地蔵堂… 絵になる!

私たちはとぼとぼと来た道を戻る。


店でくつろぎながら関宿イラスト案内図をさらっと眺めたので関宿の知識が少しインスコされた私、街中を歩くのも一味違う。



一度撮ったのに飽き足らず、帰りもまたバシャバシャ写真を撮ってしまう。



ここは高札場(こうさつば)跡だそうだ。現在では郵便局となっている。


高札場とは幕府や領主が決めた法度や掟書などを木の板で書かれて掲げられた場所だそうだ。

お茶屋さんがある。ここであの伊勢茶を購入w


そして歩いていくと…

なるほどこれが玉屋か…


「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謳われた玉屋である。
うーん趣があるね。白壁に浮かぶ玉屋のマークがかっこいい!

残念ながら時間の問題もあり、建物内には入らなかった。


さっと入り口を撮影。



当時ここで飯盛女達が旅人の足を洗ったりしたのだろうか…


玉屋の周辺に今となっては数軒になってしまった宿屋がある。
ゲストハウス石垣屋と御茶新だ…
昔の宿場町に宿泊したい方は是非泊まってもらいたい。



玉屋から少し歩くとあるのが百六里庭と眺関亭。
別段ここに歴史的価値はないのだがここの階段を上がると
関の町並みを眺めることができる展望台がある。
時間はかからないので登ってみた。


町並みの作りが良く分かる。


まだ動いていない山車が見える。近づいてみよう。


うんいい山車だ。
さすが関の山の語源だけはある。

この山車倉あたりが川北本陣跡だそうだ。

そしてこのすぐ東隣にあるのが鶴屋だ…


黄色い壁が可愛らしい…


町並みは続く。
知識を入れると旅はより楽しくなる。


しばらく進むと見えてきたのは御馳走場。


ここは席に出入りする大名行列一行を宿役人が出迎えたり見送ったりした場所だそうだ。


その目の前にあるこの建物が男性なら誰でもが興味がそそられる
妓楼、開雲楼と松鶴楼である。


女郎も随分囲っていたのではないだろうか?






さてせっかくなのでもう一人の小万の話をしよう。
敵討ちの小万とごちゃまぜになった女郎小万の話だ。

こちらは鈴鹿馬子唄にも歌われた人物で女郎だ。
馬子唄とは民謡の一分類で馬追いが馬をひきながら歌う歌だ。

成立年代は仇討小万よりも70年ほど昔。
近松門左衛門が「丹波与作侍夜の小室節」として創作されている。

丹波国由留木家の幼い調べの姫が江戸の入間家へ嫁入りをすることになったが
姫がむずかったため乳母の滋野井が姫の機嫌を直そうと馬子の三吉を呼び
双六相手をさせていた。
姫の機嫌は直り褒美をもらった三吉は滋野井を自分の母親だという。
三吉は滋野井と別れた夫与作との間に生まれた与之介だった。
由留木家を追放になった与作は行方知れず。三吉は今まで一人で生きてきた。
しかし乳母として姫君に使える滋野井が親子の名乗りをあげることはできず。
一行はそのまま東海道関宿にたどり着く。
関宿の本陣の隣には白子屋という妓楼があり、多くの遊女が客を引いており、
その中に遊女小万がいた。小万には丹波の与作という恋人がおり、
その恋人がいる亀山の街まで日夜通っていたという。
しかしその愛しい与作は博打三昧。
また小万の父は年貢が払えず水牢にいれられるなど不運が続いていた。


遊女小万を描いてみました。
「本当、ダメなお人…」っていう感じを出してます。


石部の八蔵に大金を借り、商売用の馬を質入れしてしまって首が回らなくなった与作は
白子屋の小万に泣きつきにしさしぶりに白子屋に顔をだす。ちょうどそこへ八蔵が現れて大喧嘩になり、おまんは父親のために貯めていた大金を八蔵に渡してしまう。
博打の借金のため小万の金を使わせた与作は隣の本陣にいた三吉に大名の金を盗むようけしかける。父の風貌に似た与作に三吉は盗みに入るがすぐ捕まってしまう。
息子の罪に滋野井はうろたえ、立場も忘れて三吉の命乞いをするが、三吉は代官所に引き渡されてしまう。三吉が実の息子だと知った与作は我が子に罪を負わせてしまったことを後悔し小万と共に心中しようと試みる。


UTでTシャツ作りました。
よろしければこ購入ください。
画像をクリック!

伊勢街道の千貫松までやってきた与作と小万が心中しようとすると調の姫一行がやってきて滋野井と三吉のけなげさに免じて与作共々赦し小万も助けるというハッピーエンドとなる。

なんだかギリシャの戯曲 オディプス王を逆にしたような話だが
この女郎小万が仇討小万と重なるようだ。







鈴鹿馬子唄

坂は照照鈴鹿は曇る
あいの土山雨が降る
馬がものいうた鈴鹿の坂で
おさん女郎なら乗しよというた
坂の下では大竹小竹
宿がとりたや小竹屋に
手綱片手の浮雲ぐらし
馬の鼻唄通り雨
与作思えば照る日も曇る
関の小万の涙雨
関の小万が亀山通い
月に雪駄が二十五足
関の小万の米かす音は
一理聞こえて二里ひびく
馬はいんだにお主は見えぬ
関の小万がとめたやら
昔恋しい鈴鹿を越えりゃ
関の小万の声がする



名前と亀山通いのあたりが混同されてしまう理由だろう。
多分山田屋の主人が馬子唄に歌われる小万という名前を
仇討小万に名付けたのではないかという説もある。

しかし鈴鹿馬子唄はなんか少し切ない感じがする。

本陣は関宿には二箇所。伊藤本陣と川北本陣だけだから
白子屋があったとするとその辺りだろうか?
まぁあくまでも芝居の脚本の中での話だからもしかしたら開雲楼と松鶴楼にゆかりがあるかもしれない。
ただし鈴鹿馬子唄の成立はこの関宿の一歩隣、坂下宿と言われる。
関宿の物語が鈴鹿峠の一歩手前にある坂下宿の馬子に伝えられ馬子唄になったのかと思われる。






なんとこの小さな宿場町に三つもの伝説が残っているというのは本当に驚きだ。

さて、この三つの伝説と常に絡みのある亀山であるが
昔からここ関が亀山と深いつながりがあるのがよく分かる。
まぁ現在、関は亀山市なのだから当然かもしれないが…

一休宗純が生きたのは明徳五年(1394年)から文明十三年(1481年)。一休さんが近畿諸国を行脚するのは正長元年(1428年:一休38歳)から永享四年(1432年)まで…その頃の亀山は関盛雅(せきもりまさ)統治の時代。関盛雅は正長二年に元南朝の皇子、小倉宮、北畠満雅(きたばたけみつまさ)らと共謀し室町幕府側と戦ってい敗北。盛雅は逃亡し、一旦領地が幕府に没収されている。

時代が下って女郎小万 鈴鹿馬子唄の成立年代は残念ながら調べはつかなかったものの
近松門左衛門が「丹波与作待夜(たんばよさくまつよ)の小室節」を創作したのが宝永四年(1707年)、そもそも流行歌となっていた鈴鹿馬子唄からきているので成立はそれよりも前と思われる。近松は大阪竹本座の人形浄瑠璃で先の物語を創作しているので当時交通の要所だった鈴鹿の馬子唄は早く伝わったものと思われる。とするとその10年ほどの範囲になるのではないかと感じる。
だとすると女郎小万の物語は1690年代後半から1700年代初頭あたり、元禄(1688年〜1704年)の頃ではないかと思われる。その頃の亀山というと領主がとにかくめまぐるしく変わった時期で、領民も大変だったと思われる。寛文九年(1669年)下総の関宿(ここの関とはちがうよw)から板倉重常が五万石で転封され宝永七年(1710年)に伊勢志摩藩に移封されるまでの11年間統治しているのでその頃の話と考えられる。

さらにくだって仇討小万のほうは年代がはっきりしている。
天明三年(1783年)が仇討の年。小万18歳。小万が13歳位から亀山通いをしてたとして5年間。安永八年(1778年)からだ。
当時亀山藩は延享元年(1744年)石川総慶(いしかわふさよし)が亀山藩に移封されてから藩主が定着しており、その石川家の統治時代に入る。仇討小万の時代は五代藩主石川総博(ふさひろ)の時代。石川総博は亀山支族の旗本大島石川家の石川総恒の子供で当時藩主だった石川総純(ふさずみ)死去(安永五年:西暦1776年)に伴い養子となり家督を継いだ。
小万が亀山通いをしていた頃は明和五年一揆のあと生田理左衛門に命じての鈴鹿川治水大工事の最中だ。仇討の後の天明五年(1785年)には前田冬藏を学頭に藩校「明倫舎」を創設している。

そんな遠い昔に思いを馳せながら



13:15

伊勢神宮一の鳥居をくぐって関宿を後にした…



関 総評:

いや…こりゃ行ってよかったよ。というか行くべき。
三つの物語を楽しむもよし、純粋に関宿を楽しむもよし
まぁ確かにお祭りがあったというのは大きいかもしれません。
江戸時代の賑わいを感じ取れたと思います。
でもそうでなくてものんびり関を楽しむもありだと感じました。

近くを通るならむしろ足を向けて損はない場所、否、足を向けないとそんな場所だと思います。


参考資料ページ

東海道の昔の話
バーベキュー鈴鹿峠
近松TOP世話物24作品



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