その分かれ道の先、県道78号線沿いに
恐ろしく巨大な石碑が建っています。
恐怖を覚えるくらいの大きさです。
今回はその恐怖の石碑。
唯念大名号碑です。
足柄街道。
足柄峠を目指す街道で古代の交通の要。
以前紹介しましたよね。
歴史が交錯する場所。
足柄峠。
峠の坂の東側だから坂東。
関東は坂東でしたよね。
その足柄街道を御殿場方面に下り、
分かれ道を左折した先に突然巨大な石碑が見えてきます。
本当に何も無い山間部のちょっと湿り気を帯びたうら寒い静かな地域に突如として
ぬっ...
とあらわれる巨大石碑に多分此の道を始めて使った人なら
驚かされると思います。
それが唯念大名号碑です。
ちょっと怖いよこれ...
これじゃぁ大きさわからんだろうけどね。
人の高さがだいたい一番下の文字のチョイ上くらい。
一種肝試しだわ...
熊だとかもいそうだし...
しかも書かれている文字のなんとも不気味さ...
きょっきょわい...汗
なっ なんなのよこれ!?なんなのよっ!!
唯念大名号碑
大名号碑?
名号(みょうごう)とは仏菩薩の称号のことを言うらしい。
種類があるらしく
六字、九字、十字名号がある。
ここで描かれているのは
六字名号。
南無阿弥陀仏
いわれて見ればそんな気がする。
浄土真宗では号名を本尊とする教えがあるようです。
じゃぁ唯念ってだれやねん!
寛政三年(1791年)~明治十三年(1880年)めっちゃ長生きヤン。 幕末明治期の僧侶。
肥後の国(現在の熊本県)八代の藩士滝沢家に生まれ十四歳で出家。下総国(現在の千葉県)の徳願寺弁瑞上人の弟子となり諸国を遍歴、山篭りなどの苦行を続けた。
甲州(今の山梨県)で年老いた尼と出会い導かれたのが山梨県と静岡県の堺にある明神峠。そこに庵を結び道場とした。
草庵を結んだ後、隣国を廻り念仏講をつくったり名号塔を辻々に建てるなどして人々の苦難を救う努力を続けた。名号碑の数は駿河、相模、豆州、甲州などに計一千あまりもあるという。
そういえばこの石碑の文字。なんかどこかで見たことあるんだよね。
唯念上人は享年91でなくなっているというから大往生だね。
そしてこの狂気なほど巨大な石碑は...
小山町指定文化財になっています。
なお...
石碑には説明文が当然あり...
このように書かれています。
これは日本一大きな石佛だそうです。
なるほどどおりで狂気なほどにでかいんだな...
説明文には
天保年間、富士山麓の一帯は飢饉と大疫病に襲われ足柄地方は多大なる犠牲者が相次いだ。そのころ一の滝で修行していた唯念上人はその惨状を救おうと災難厄除けの祈願をつづけそれに村人が呼応し、上人が描いた号名を巨大な石に彫り、天保十年(1839年)栗の木沢の此の地に建立したとある。
そのおかげかそのご流行り病は収束したとのことだ。
天保の大飢饉は江戸四大飢饉の一つといわれ天保四年(1833年)に始まり天保十年(1839年)まで続いた大規模飢饉。だから上記説明文にはあたかも足柄地方だけのような記載に見えるが日本全国規模の大飢饉が起きていた。
百姓の餓死者が急増。米価が急騰し、百姓一揆や打ちこわしが相次いだ...
救済処置も取られたが6000人規模の救済施設に対して必要としていた人々は70万人を超えていたという。
幕府直轄領の甲斐では百姓の大規模一揆が起こり甲斐国一国を巻き込む大騒動にまで発展する。コレを天保騒動という。
関西では大塩平八郎が反乱を起こすなど日本全国上よ下への大騒ぎになった。
そんな中、小田原藩には救世主二宮金次郎がいた。藩から金千両を与えられ、蔵米を開放し、村々を救済して廻る。その後伊豆韮山の代官江川氏の招きで伊豆周辺の村々の復興まで手がけていった。
面白いものだね。方や山一つ挟んだ小田原では理詰めで改革を押しすすめ人々の苦境を救った英雄が現れ、方や駿河小山周辺では宗教に縋って苦難を乗り越えようとし、もう方や山を越えた甲州では暴力に訴えた。
それぞれ最後は収束に向かうんだけれどそう考えると小田原藩はこの地域の先端を行っていた技術の力が高かったともいえるね。
尚、此のブログでは天保七年(1836年)に小田原藩主大久保忠真が徳川家康陣地跡の碑を建立している記事を書いてます。
矢口長者の回、かりがね姫の回では此のブログでもよく出ている新編相模風土記稿において天保の記述が有ります。新編相模風土記稿は天保十二年(1841年)に成立しています。
泣きが原の地蔵の回のお地蔵さんは天保年間に立てられました。
この名号碑は高さ三十五メートル 幅一メートル半。
この名号碑を彫った石工は深沢(現御殿場市)の松の助、
関東大震災で倒れ沢に落ちたそうだがその復旧に尽力したのは
松の助の子孫だそうだ。
なるほどね...
でも
どんなにご利益があろうと...
絶対夜にはこれないわ...
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