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2018年4月15日日曜日

【您好、臺灣(台湾)!国立故宮博物院編】漢字源流展 毛公鼎と宗周鐘


さていよいよ国立故宮博物院に入った私達は
何故か三階から攻めることにしました。
どうして三階にいったんやろ...?

まぁええか...w

そこで目にしたのは
再び鼎!
やはり中国というと鼎なのかね...
日本の銅鐸のような感じで鼎がやたら重要になってくる。
ということで今回は鼎 

部屋番号 301

漢字源流展



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まずは漢字の成り立ちエリア。
そこにあるのが青銅器ってどういうこと?

青銅器には色んな銘文がきざまれてるんですね。しかも漢字の原型の文字がイッパイ!そこで鼎や鐘などの青銅器が展示されてるわけです。

中国における青銅器文化は歴史の初期、伝説の王朝 夏 から始めての帝国 秦 まで…。
しかし、すでに秦のころには製鉄が盛んになっており、その後は鉄器にいれかわってきます。

まずこの項で中心に飾られてたのは

毛公鼎。





こちらは西周の宣王の叔父で重臣の毛公が造らせたものなので毛公鼎といわれてます。毛公鼎には500の銘文が刻まれており漢字の成り立ちを知るための貴重な資料となってます。
中華思想の源流をなす儒教。その儒教の創始孔子が手本としたのが夏から始まる殷、周(西周)の三王朝統治思想。特に周の周公旦が布いた法令制度から始まる封建制は中国の統治制度の根本をなすものとなっている。しかし彼が布いた血縁重視の封建制は血が薄まることで崩壊の恐れが高まる。その弱点である崩壊を恐れて成立したのが「制礼作楽」という上下関係を重んじる年功序列型文化制度です。礼楽文化といわれるその文化こそが孔子が手本とし、果ては儒教の根本思想に繋がるものとなっておるようです。その礼楽文化は礼器(祭祀において使われる器物)においても序列があり、鼎は首位に当たるそうです。



ちょっと話を中華思想に移します。
日本人は勘違いをしているようで、時に日本が中国に与えた恩恵に触れ、日本も決して悪いことばかりしたわけではないというような発言をしてしまうことが有ります。
その発想が日本と中国のずれを産むことになります。儒教の根本理念は上下関係の序列にあるわけです。その上下関係の序列からすると日本は下位に属することになります。
なぜなら日本が独立を確立したのは1300年ほど前のこと...。これは4000年の歴史のある中国にとってはつい最近の若造と一緒。しかも中国から色々な教えを受けて独立したわけです。なので日本はおのずと下位に属することになるわけです。その下位に属する国が上位の国に迷惑をかけただけでなく対等にいようとすること自体が中国にとっては礼を逸する行為そのものになるわけです。
三跪九叩頭の礼。韓国や沖縄は礼を重んじる国として中国からお墨付きをもらっています。迎恩門や守礼門はその中国皇帝の使者をお迎えするための門ということになり、その使者をお迎えする際に行われたのが三跪九叩頭の礼ということになります。
上位である中国に対し礼を尽くす。これが儒教の根本ということになります。その点からするとあくまで上位である中国に対し礼を尽くさない日本は本当に礼節を知らない民族ということになるわけです。
韓国が時に「日本はわがままな国で礼を重んじない国だ。」などと言うことがありますが、日本の感覚だと同じ国家間の問題で通常儀礼を行っているにもかかわらず礼がなっていないとはどういうことだ!とついつい腹立ててしまいますが、彼らにとって礼とは順位が決まっておりその順位に則した礼を尽くすべき、日本は韓国よりも順位は下なのだから上のものに対する礼節をとれ!というのが彼らの主張な訳です。
この感情は実は儒教の影響を少なからず受けた日本にも有ります。たとえば会社内で一生懸命上司の言うことを聞いて頑張ってきた人がポッと入ってきた新人がその上司と為口をきいているのを見て腹が立つことがあると思います。それと同じ印象なのです。
そりゃまぁ失礼な奴らと思うのでしょうね。

まぁ中華思想については此の位として、とにかく毛公鼎はそのような意味においてとても貴重なモノということになります。

そしてもう一つ、

宗周鐘。



こちらの方が日本人には馴染みやすい。青銅製の鐘です。
日本の銅鐸の元だね。たぶん…。
こちらは西周の厲王時代のもの。122文字刻印されています。
この鐘も礼楽文化の楽器部門において上位に位置している。
しかし、鐘が大切にされる文化は今の日本に引き継がれているよね。お寺にある釣り鐘、あれこそまさに太古の息吹って感じます。


この項で出てきた西周、正式には周だがのちに東周ができたので西周と呼ばれるようになったそうで、紀元前1046年から紀元前256年までつづいた王朝だそうです。
周といえば僕が思い出すのはやはり太公望。
川で釣りをしていた太公望。針が付いていない釣竿をみて子供たちが笑い「そんなものでは魚はつれるわけが無い!」と太公望をからかいます。太公望はそんな子供たちに「私は魚よりももっと大きなものを釣ろうとしているのだ」と答えているところに後の周建国の王、文王が通りかかる出会いの名シーンです。
このシーンは明時代の大衆小説、封神演義に描かれています。
封神演義はまだ仙人、道士、神、人とが別れていない時代である殷末期、高位の仙人たちが話し合い、殷末期の混乱に乗じ道士や能力の高い人、妖怪などを神に封じる改革を行ったとされるストーリー。そのために封神演義という題名になっている。
私はその封神演義は読んだがとにかくめちゃくちゃな内容w 今のマンガ、ドラゴンボールみたいに戦ってばかりの内容w 人が戦争するとそのたびに神やら道士やら仙人やらが入り混じって戦うというもうめちゃくちゃさw
子供たちは楽しめそうな感じです。

その作中で殷王朝はまるで絢爛豪華な大宮殿を有しているように描かれていますがそれはあくまでも小説の中でのこと...殷王朝どころか周王朝ですら都市国家の連合国家的な様相をていしていたので当然それほど大規模な宮殿は維持できないはず。

↓殷の首都 殷墟 復元(wikiより)

↓殷の影響力範囲(wikiより)

何せ周ですら総人口は3000万しかいなかったそうですからそれより遡る殷となるとだいたい想像ができてきます。とはいえ江戸時代の日本の人口が3000万ほどでしたからそう考えるとすでに3000年前に3000万人の人口を抱えていた中国という文化圏は本当にすごいわ...

↓周の国家規模(wikiより)


さてココに出てくる周王朝ですが...
まずは厲王はれいおうと読むそうで在位期間が前857年? - 前842年?頃といわれてます。
司馬遷の「史記」の書き出しはここからされているようで、それによれば厲王は暴政を極めた人物で民衆の蜂起により逃亡。その後は周公と召公が代わって朝政をみていたそう...
「竹書年記」によれば諸侯から選出された共伯の和という人物が政治を執り行ったのでそこから共和制という言葉が出てきたとか...
前828年厲王が死去。代わって宣王が即位することになります。
宣王は賛否分かれる王で、国勢が中興したので賞賛される一方、周辺民族征伐に失敗し、晩年は厲王同様暴君振りが現れ、結果周没落を早めた人物といわれているそうです。


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