さて303号室は...
貴貴琳瑯游牧人─故宮所蔵清代モンゴル・ウイグル・チベット文物特別展
清王朝は巨大な地域をその領域としました。
西側の砂漠地帯もその一帯となっています。
砂漠地帯はモンゴル ウイグル チベットなどの人たちです。
基本的には藩属国と呼ばれているようで藩属国とはいわば宗主国に対する植民地のような存在だがそれぞれには国王ないしは君主がいる場合が多い。ただし通常の柵封関係の国々に対し藩属国はその従属関係がとても強い国々であることが多い。
そんな関係の藩属国の国々の貢物各種の展示だ...
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中国における藩属国の関係は以下の地図を見てもらうと解りやすい。
濃い黄色が中華を彩る中心の地域。いわば元来の中国というべき場所で明の領土である。
対して薄黄色が藩属国となっている。
中国ってのは本来はそれほど大きくないのね。
その大半は藩属国ということになるみたい。
オレンジ色は柵封国。柵封国は藩属国に比べて独立性は高いが国王の承認などは中国皇帝が行うものであり藩属国と同様宗主国は中国ということになる。
wikiより...
女真族は満州一帯から発生した一族なのだが
なぜかその満州一帯はあくまでも藩属国の範囲にあるということ...
実はこの満州一帯は旗地(きち)と呼ばれ
旗人(きじん)の所有地ということだったようだ。
旗人とはなにかというと清の政治、軍事を担うエリート組織
八旗制をかたちどった人々のことで女真族の巻狩りのシステムから形成されていったものだそうで八つの旗からきているらしい。
さて藩属国の話に戻そう。
展示されている文物はそれら西域の地域から貢がれた貴重なモノばかり。
西域はこの地域になる。
西域のいわばシルクロードのことだね~
都市国家群が連なるオアシス国家地域と北方遊牧民の地域
そしてチベット地域などになる。
井上靖の楼蘭。あれを読んだ記憶有りますが
中国の西域になんとも心惹かれましたね。
それを元に自分はマンガを描いたことがありますがw
まぁ恥ずかしい話ですw
金鑲樺皮鳳冠頂(帽子の装飾品)
樺(かば)の樹で作られた装飾品
18世紀から19世紀あたりの作品だそうだ。
遊牧民の作品のようです。
つづいてあるのがチベットの作品。
木製の茶碗だそうで19世紀製作された。
あとポット。
チベットは独特の宗教文化が根付いている。
そもそもの土着の宗教、「苯教」(ボン教)がインド仏教と融合し、チベット仏教となり、15世紀から隆盛を極める。
清朝とチベットとの従属関係は1751年、ダライ・ラマ7世と乾隆帝との間の柵封関係成立から続くことになる。その後定期的に清朝皇帝に謁見しなくてはならなくなったとのことだ。
上の作品は違うようだが
康熙年間から毎年初春にチベットから献上品としてこの木椀が届けられている。
木椀は樺や躑躅、雑木の根で作られており、特に蒿(コウ)とう植物の根に寄生しているこぶ上の塊であるチベット用語での「咱」を使ったものが最高級品と呼ばれている。
熱いものを入れても碗自体は熱くならず火傷もしない。
清朝中ではよくその碗でミルクティーを飲んだことから「奶子碗」と称された。
面白いのがその碗を入れている器のほう...
金色で装飾されている。
そちらのほうがぜいたく品のように感じるが
そこはなにぶんにも献上品なので
デコらないといけないようです。
綺麗な細工だよね。
チベットといえば当然チベット仏教。
僧たちが愛用したものも献上されてます。
チベット密教の必須道具、金剛鈴(こんごうれい:九鈷鈴)&金剛杵(こんごうしょ)
鈴は仏菩薩の注意を引くためのものだそうで
杵は元々帝釈天の雷を操る武器だそうで、仏の教えが煩悩を滅ぼして菩提心(悟りを求める心)を表す様だそうだ。まぁかっこいいからとりいれたんだろうねw
18-19世紀の作品だそうです。
次はチベット産の入れ物ふたつき壷だそうです。
宝石がちりばめられてとても綺麗ですよね。
続いてこちらはまた金ぴかですね。
ケトルとかいてある
まぁ戦う僧達。アリかも知れませんね。
武装僧は日本でも定番です。
これも美しい作品ですね。ナイフといっても武器という意味じゃないですね。
装飾品という感じでしょう。どうもこれは儀式に対し悪魔を殺すナイフだそうです。
悪魔祓いの代物ですね。
こちらは羊の角の短刀だそうです。
続いてはイスラム教地域の宝物品献上品です。
中国でイスラム教の一派一族を回族といいます。
回族はウイグル系の一族になりますが
中国ではいわば西域に位置しているものです。
モンゴルの下に位置してます。
前回訪れた夜市、寧夏夜市ですが中国にあるその寧夏の位置がウイグルの自治区となります。その地域のものでしょうね。
綺麗ですね。なんとなくドリアみたいw
ボタン?
続いては金のボールです。
またこれも綺麗ですね。
これも回族の献上品のようです。
18世紀の作品です。
続いて回族の帽子の上につける羽飾り
こちらもとても綺麗ですね。
そして帽子飾りは続きます。
綺麗な帽子飾りですね~
これも回族の作品。
包金嵌珠石帽花。
向かって左側は回族の作品ですが
向かって右側はムガール帝国の作品だそうです。
献上されたものかどうかは不明。
ムガル帝国はモンゴル帝国の略語。
モンゴル人が開いた帝国という意味だそうです。
建国は1526年。初代皇帝はバーブル。
彼の出身はティムール(ペルシャ地域の王朝)の王族、フェルガーナ君主であるウマル・シャイフ2世の息子だ。それなのになぜモンゴルの名を冠した帝国がインドにできたか...であるがその彼の母がジンギス・ハンの次男、チャガタイ・ハンを祖とするモグーリスターン・ハン家の出、更に彼の妻がモンゴル帝室の皇女を妃としたためほぼモンゴルの血で構成されていたためだという。
彼は既に分裂しかけていたティムール王朝を離れアフガニスタンのカブールを拠点に展開しはじめ中央アジアに勢力を伸ばそうと画策したが失敗。
ためしにインドに侵入してみる。すると案外いけるじゃん!みたいな話になってどんどん南進。大砲などの火器を駆使して兵力差10倍のローディ王朝を壊滅させて北インドを征服する。
その後帝国は一時衰退の憂き目に会うが三代目のアクバルにより再興され領土を拡大する。
そして「世界皇帝」を意味する五代目シャー・ジャハンが即位。デカン高原を占領し、ムガル帝国最盛期を達成する。
しかしモンゴル帝国ってすごいんやな~
アジアの歴史に突如として現れて突如として世界秩序を変えてしまった存在。
すごいわ...
続いて展示されているのはこちら...
これも美しいナイフですね~
dagger 「短刀」とあるので殺傷武器なのでしょうね。
こちらはOttoman Empireの作品だそうです。
オスマン帝国ですね。
オスマン帝国はまさに東ローマの領域を最大領域とした大帝国。
国教こそ違うもののほぼ基盤を引き継いだ感が有りますね。
そもそもオスマン(OSMAN)は東ローマ(ビザンツ)帝国とルーム・セルジューク朝の間にあった小国ウジに決起した遊牧民の武装集団の首長、オスマン一世が創始した帝国。
この始まりには面白い伝説がある。
オスマンは若く貧しかった頃、長老エデバリの娘、マルカトゥに恋をした。しかし格の違いから相手にされないだろうと考えキルメンジク(GERMIYAN)城の城主、ギリシャ人のケセ・ミカルを捕えるが意気投合し友人となる。
あるときオスマンは夢を見、長老の胸から昇った月がオスマンの胸に沈みそこから大樹が生え、天を覆いつくし、その根はチグリス・ユーフラテス、ナイル、ドナウの川になった。そしてその大樹の葉が風に吹かれコンスタンティノープルの方角を差したという。
それを聞いたエデバリはオスマンが世界制覇をするお告げと解釈しマルカトゥをオスマンの嫁にしたという。
なんてこったい!世界帝国オスマンの成立は一つの恋から始まったということなんだねw
1281年父エルトゥールルが死去。彼の小国を引き継いだオスマンはいわば無頼派の人間だったが辺境の地という立地上、周辺諸国から逃れてきた多くの優秀な人材を集めカラジャヒサル城を中心に勢力を伸ばし、1299年セルジュークからの独立を成し遂げる。
セルジュークは東にモンゴルという大帝国があり、その争いに疲弊しており、ビザンツ側の辺境に目を向けることができなかったとも考えられるよね。
期に乗じて勢力を伸ばしたのがオスマンということなのだろう。
その後オスマン帝国は領土を拡大。スレイマン一世の時期(1520年 - 1566年)には最盛期を迎え、1683年には最大領土がほぼ旧東ローマ帝国の範囲に広がっている。
小さな恋から始まった一人の少年の行動がまさに世界帝国へのし上がったということだね。
世界の歴史はつながっている。
オスマン同様、ヨーロッパの辺境にあったオーストリアはオスマンとの度重なる戦いで勢力を伸ばしかの名家ハプスブルグ家として発展していく、
同時にオスマン帝国がシルクロードを牛耳ったために海路に活路を見出したポルトガルやスペインが海洋に乗り出していく。
オーストリアはその後オスマンの弱体により余裕が生まれてヨーロッパ各国に娘を嫁がせて婚姻により領土を広げるという大勢に代わっていく。
しかしココにもモンゴルの動向がかかわってきていることを考えるとやっぱモンゴルってのはすごいやね~
そしてこちら...
こちらはロシアの製品。
まぁロシアとは日本も因縁の多い国。
歴史は語らなくてもわかるよねw
ということでココの展示で見えることは中国がいかに世界とかかわっていたかということ...
藩属国、柵封国、対等の帝国同士。世界と繋がる中国がわかります。
日本はどうかというと通商は有りましたが日本はあくまでも中国との関係は濃く有りませんでした。柵封も受けていません。中国側からすると対等という気持ちはさらさら無かったでしょうが日本も多分中国のほうが上だと思いつつも別段下だとも考えていなかったのでしょう。
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