GCS step1

全国のライブカメラを地図上に表記

 全国のライブカメラの位置です。 いろいろご利用ください。 https://www.google.com/maps/d/edit?mid=12xkj87OQ_G_CbWapzBhV-c4lc6CExdPl&usp=sharing

2018年4月28日土曜日

【您好、臺灣(台湾)!国立故宮博物院編】土の百変化―院蔵陶磁コレクション



土の百変化―院蔵陶磁コレクション

201、207号室

世界中で大人気の陶磁器。
宝物として日用品としてとても貴重な人類の友人です。
その陶磁器の本場中国の作品が目白押し
そりゃファンにとってはたまらないでしょう。

そんな陶磁器の展示が行われています。

見てみましょう。




このエントリーをはてなブックマークに追加


↓故宮博物院は一日じゃ満喫できない!
ということで周辺に宿泊するなら鼎をクリック!



焼き物については温度や釉薬の違いなどから三種類に分けられる。

土器 素焼き 窯を使わず 釉薬もかけない 700~900℃
陶器 窯をつかい 釉薬を利用 吸水性あり 1100~1300℃
磁器 半透光性 吸水性無し 硬い 窯をつかい 1300℃程度で焼成


前漢(西漢、紀元前206年 - 8年)


前漢はいわずと知れた劉邦によって建てられた国。
ライバルとしては楚の覇王項羽。
項羽によって劉邦は左遷させられた話は有名。左遷の語源もココからという。
首都からすると辺境、地図的に言えば左側の漢中に遷されたので左遷というわけだ。

まぁ劉邦というオトコは本当に人間臭いオトコらしく
その後勢力を増して秦の咸陽に入った際も酒池肉林。
それを軍師、張良に諌められ我に返ったとか...
これこそまさに君子豹変すですね。


さてそんなところから始まる漢ですが陶器もすばらしいものが残っています。





ずいぶん完成された状態ですね。
高度な技術があったことを伺えます。


唐(618年 - 907年)



さて唐というなんとも日本に近くもまた因縁の多い国名であるが何故かその成り立ちはあまり語られない。中国においても中国文化の礎ともいえる唐という国は無視できないはずなのだが、漢の成り立ちである楚漢戦争、三国志などについては華やかに語られているのにもかかわらずこの唐という国の成り立ちについてあまり語られないというのに不思議を感じていたのだが実はそこにはあまり派手なやり取りが無かったかららしい。
唐の成立は禅譲(ぜんじょう)によってもたらされたかららしい...
唐の前の国は隋。
禅譲とは簡単に言うと血縁関係の無い相手に対して政権を譲り渡すという行為のことを言うんですが、どうもこの禅譲、言葉としては美しいのですがそうとうな力ずくだった場合が多く、隋から唐への禅譲もその多分にもれてないようなのです。

ここの高祖(廟号:簡単に言えば諡(おくりな))、李淵(りえん)は隋末の混乱の最中、太原(たいげん)で挙兵。隋の都、長安を陥落せしめ傀儡の皇帝 恭帝侑(きょうていゆう)を立てる。そしてその恭帝侑から国を譲り受けるという形式を取ったわけです。


唐という名称は山西省にあった古い呼び名で古代中国伝説の帝、堯(ぎょう 伊祁放勲(いきほうくん))が継いだこれまた伝説の国、陶唐という国名からきている。司馬遷の史記、五帝本紀によればこの堯の息子、舜から禅譲を受けたのが治水事業に成功した夏王朝の初代国王、禹であるという。


さてそんなこんなであまり目立たない李淵であるが、日本の宮崎市定氏の学説から言うと李淵は胡姓を大野(だいや)氏といいこれは鮮卑族の姓であるという。しかし当人は五胡十六国の西涼の武昭王の末裔と称していたようだがこれは中原を支配するため自らを漢民族と偽るためについた嘘ではないかとの見解が日本では定説になっている。
しかし当然中国では反発の向きもあるがその意見もごく一部らしい。

ということはやはり中国という国は4000年の歴史といいつつもその歴史の大半は支配された国という形式が多いのかも知れないね。

因みに中国文化の一つを形成している科挙制度(官僚登用試験)は隋の時代、西暦598年に始まりました。なおもう一つ中国の特徴としてある律令制度。こちらは西晋で泰始律令なるものが発布され、隋にて開皇律令が施行されてます。律令は刑法である律と行政法令である。

さてそんな唐なのですが...


唐の陶磁器いえば当然、唐三彩!
釉薬をかけて色落ちがしない美しい三色に色づいたあの唐三彩です。
主に副葬品として扱われたようですね。

美しいよね。









五代十国時代(907年 - 960年

この五代十国時代は唐の滅亡から宋が成り立つまでの間に割拠した国々や地方政権が入り混じった時代のこと
そんな時代にも美しい陶磁器の作品は出来上がっているわけです。


白磁に見えるこちらは南宋の越窯で焼かれた青磁だそうです。
見えないよね。でも青瓷は日本語で青磁のことだから間違いなさそう。
青磁は元々殷代には出来上がっていたようでその後漢の時代に流行しています。
確かによーーーく見てみるとちょっと青っぽいかな?
青白磁って感じかも...この後宋の時代に景徳鎮は隆盛を極めるからもしかしたらその流れができつつあるのかもね。


宋(960年 - 1279年)


さて宋もまた禅譲を受けた国です。
後周の殿前都点検(近衛軍長官)、趙匡胤(ちょうきょういん)が五代最後の後周王朝から禅譲を受けて建国したのが宋です。しかし趙匡胤は志半ばで倒れてしまい。弟の趙匡義(ちょうきょうぎ)が完成させます。


科挙制度が完成するのは彼の子供の世代です。

さて宋といえば景徳鎮。
三代目皇帝真宗 趙恒の時代に景徳の名をいただいたとのことらしい。
そしてブランド化していくんだよね。
景徳鎮といえば青白磁。
その青白磁が続きます。

 北宋(960年 - 1127年)



 南宋(1127年 - 1279年)





明(1368年 - 1644年)


明といえば朱元璋ですね。


浄土三部経ならびに阿弥陀如来や阿弥陀仏を主として奉じる浄土教の結社白蓮教の教徒だった朱元璋は幼少のころ皇覚寺に身を寄せた托鉢僧だった。ほぼ乞食同然だった彼は中国史上最も貧しいところから身を起こした人物としても有名。
元の勢力が弱まる中1351年白蓮教徒たちが各地で反乱を起こし、紅巾の乱が始まる。身を寄せていた皇覚寺が焼け落ちたので朱元璋は郭子興(かくしこう)率いる紅巾軍に参加する。
その後同じ貧農出身の劉邦を真似た行動を取り頭角を示し郭子興の養女馬氏を妻に貰った。これが後の馬皇后である。
郭子興の死後、かの紅巾軍はその子供たちと供に三分割され朱元璋にも与えられるが。朱元璋以外の将軍が運よく亡くなり(w)朱元璋が全軍を率いることになる。
鄱陽湖の戦い(はようこのたたかい)や張士誠との戦いに勝ち、淮南、江南を統一、至正28年(1368年)正月、応天府(現在の南京)にて即位し、元号を洪武、国号を大明とした。
その後北伐を開始し洪武14年(1381年)には段氏の雲南を平定し中国を統一した。

洪武帝となった朱元璋はその後白蓮教徒と袂を分かち知識人などの弾圧に走る。文字の獄としても有名。中国では歴代の王朝それぞれが文字の獄を行っているがその最たるはこの明の時代と清の時代のが有名。朱元璋は卑賤の出だったのでインテリに反感を持っていたとの話もある。

しかし浄土教というのは日本の戦国時代にも戦国武将からしたら大変厄介な代物でしたよね。本願寺派は武装集団で信長なども手を焼いた人たち。中国でも血気盛んだったんですねw

さて、永楽帝の時代には都を北京に遷し、領土拡大を積極的に行っており、鄭和に大艦隊を率いらせアフリカまで遠征を行っています。

鄭和の遠征のせいかわかりませんがこの時期からの文様がなんとなくオリエント的になってる感じしません?














とても綺麗ですよね。

はてさて問題はその明という国
どうも明にとって東は凶だったのではないかと思うのですが
日本との関係で失敗続きをしてしまいます。
まずは本来日本は彼らにとって格下の国。
柵封すべき国なのですが当時の倭寇の問題もあって足利義満を日本王に封じて日明貿易を開始してしまうのです。
その何が問題かというと足利家はあくまでも将軍家。いわば天皇の部下なわけです。部下を国王と認めるということは自動的に天皇は中国皇帝と同列と認めてしまったようなもの...こりゃ大失敗ですよね。
んでもってもう一つの日本との関係の大問題は豊臣秀吉の出現です。
秀吉の朝鮮出兵により明は朝鮮を助けるべく多大な出費をしてしまいます。結果は明が勝利したものの経済的に破綻。後金の勢力が強くなり、最終的に清の支配を許してしまうことになるわけです。



清(1644年 - 1912年)


中国の歴史は300年ごとにリセットされる。
まぁそう感じるのは誰しもかもしれませんね。
倭寇の暗躍 朝鮮出兵に苦しめられた明の後半は惨憺たるもの。
結果国力は衰退し李自成の乱でとどめを刺された明は滅亡。
李自成は一旦皇帝を名乗るもその後ヌルハチ率いる女真族改め満州族に
倒されることになる。


清といえば抵抗勢力の鄭成功!
こちらは士林慈諴宮の回に紹介しましたね。

まぁねここまでくれば結構技術的にも増しているわけだからね。
相当見ごたえが有りますよ!



 













陶器の歴図が有りましたよ。





このエントリーをはてなブックマークに追加


↓故宮博物院は一日じゃ満喫できない!
ということで周辺に宿泊するなら鼎をクリック!

0 件のコメント:

コメントを投稿