海老名にある伝説
というよりも事実なのかもしれない...
この悲しくも惨い話...
今回はその惨い話 松について書きたいと思います。
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前回 座間の
桜田伝説および護王姫伝説から突如として派生的発生したこちらの伝説。
はじめ小桜姫を殺した母親が自ら身を投げ出し人柱になったなる話しにつづいていたもののそれはどうも無いだろうとの見解から海老名に残るこの人柱伝説に移っていった経緯が有ります。
たしかにそちらのほうが真実味あるし
時代の違いからもそちらのほうが正しいと思われます。
桜田伝説については座間に残る「座間古説」からの情報として得られるのですが
この海老名に残る人柱伝説については古い書物からの引用ではなく昔から口伝えのいわば昔話と実際にその現場となった場所にすえられているお地蔵様にその情報の痕跡を得ることができます。
さてならばまずその伝説の地へ足を向けましょう。
前回同様座間に向かってすすみます。
そして桜田伝説の地、小桜姫の塚までついたら
入谷二丁目の集落内を南に抜けていきます。
ただしこの集落。とても路が狭い!
注意して進んでください。
すると水路と鉄道が複雑に交差する場所に出ます。
そこが座間と海老名の市境。
そして海老名側に入った地区が上今泉地区になり
その市境こそが人柱の伝説がある場所なのです。
車は駐車する場所は無いものの道幅が広いので
お地蔵様へのお参り程度ならその道端に駐車するのも手です。
鉄道は踏切があり其の渡った先にお地蔵様が綺麗に安置されていますが
車で渡るにはちょっと厳しい踏み切り。
やはり踏み切りの手前の路上に車を止めるのがいいでしょう。
歩いて踏み切りを渡るとゴウゴウと大きな音
水路が幾重にも重なりつつ轟音を響き渡らせています。
その水路の水門の先に綺麗に整備されてあるのが
お松地蔵です。
綺麗に整備されていますね。
大切にされていることを感じます。
あれ??でも新しくね??
そう新しいんです。実はお地蔵様盗まれてるんです...。
1970年代になくなったそうなんです。
以前はこんな感じのお地蔵様がありました。
現在はこう!
平成五年(1993)地元の人が新たなお地蔵様を建立したそうです。
花もたくさん手向けられてます。
本当に大切にされているのがわかりますね。
なぜここまで大切にされているのか...
小田原の酒匂川もそうですが
この海老名周辺、相模川は水量が多いだけに氾濫する危険性が高い川でした。
ひとたび氾濫すると手のつけようが無い酷い有様。
相模川を中心にその両側一キロほどの範囲で水没する可能性が高かったわけです。
なんて暴れ川なんだ!なんて思うかもしれないですがね...
これは人間の側の問題。川のほうからすれば冗談じゃない!
そもそも相模川の河川敷はその両側一キロずつ。その向こう側にはちゃんと小高い大地になっている。本来ならその台地側に生活圏を作るべきで河川敷に入り込むほうがいけないんですね。竜神様が御通りになる道こそがいわば河川敷なわけです。
其の台地。最近ブラタモリなどで知名度が高まったいわば河岸段丘。
簡単に言えばその台地側なら当然水は入り込まないわけです。
でも確かに虎穴にいらずんば虎児を得ず。
危険を冒してこそ利益は高いものでたとえ高水敷であってもそこには広大な平地がある。
開拓すればとうぜん莫大な富を生み出せるわけです。
ということで人間の人生は冒険だ!ということでどんどん人はその高水敷に足を伸ばしていくことになります。
当然大雨 台風 なんてなれば被害がでるわけで
其のたびに人は唖然とし、そして一家離散。当然死者もでることでしょう。
そのような狂気な状況に陥れば人は恐怖におののくわけで...
その恐怖を何で回避するかというとシャーマニズム的な原始的信仰に頼ることになります。神様が怒ってなさる...
神を祀らなければ...お祭りをしよう!
「祭」という字は「タ」は肉であり「又」は手、「示」は生贄を捧げる台のこと...
殷の時代生贄といえば当然人でした。そう人の肉を差し出すことになります。
神様に人を差し出すことで難を逃れようとしたわけです。
アジア文化圏に所属する日本も当然其の分に漏れず、オオキミが亡くなり墳墓造成の折には多くの人を生き埋めにしたわけです。
しかしあまりに残酷なこの風習は徐々に廃れていきます。国家規模で言えば早い段階でなくなるのですが残念なことに民衆レベルでは近代まで残ってしまうわけです。
それが人柱。
建物を建てる際やこの例のように川の氾濫、火山の噴火など人間の人知が及ばない範囲についてはやはり神頼みをしてしまうものなのです。
寛文二年(1662)このあたりを治めていたのは久世大和守広之(くぜやまとのかみひろゆき)
一念発起!この相模川周辺に治水工事を行おうとします。
その際に人柱が立てられたのがこの現在の海老名市北部上今泉の場所なのです。
詳しくはこちらをご覧ください。
えびなめぐり
海老名市 えびなむかしばなし お松の碑
うーん なんともかわいそうな話。惨いことです。
久世大和守広之とは下総関宿の藩主...
関宿??
なんともこのブログと関宿とは何らかの因縁があるのか
伊勢旅行の際、ふらっと立ち寄ったのが三重県の関宿でしたね。
しかもその
関宿を支配する亀山藩の藩主は下総関宿の藩主が移ってきたことも書きました。しかしその際に書いたのは板倉重常。
話を戻して久世大和守広之。実はこの方、分家なのですが
本家より大きくなってしまい大名までのし上がった人物。
父親が徳川家康の直参になったため2500石を有して旗本に列せられた。
その後長男広当(ひろまさ)に家督を譲り、弟の広之には500石を与えられ
寛永十二年(1635)に徒頭(かちがしら)に...。徒頭とはいわば徒士(歩兵集団)の頭のこと...
しかしあくまでも頭でしかなく指揮官ではない。指揮官は馬上の武士。
ただし農耕民出身の足軽とは違い、徒士はあくまでも士族。
その後立身出世していき、慶安元年(1648年)に武蔵国小机領、そしてこの海老名領など5000石を加えられ計一万石の大名に列せられる。
最終的には五万石の大名になるわけだから立身出世の人といえるね。
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さてその久世大和守広之のことは「座間古説」にも記載されています。
「座間古説」より久世大和守広之 原文
折りたたむ
太字が久世大和守広之に関連した項目
鎮守之北ニ渋谷高間と申者在、幼少之時父母ニおくれ、成人之後妻子ヲ持給ふ、娘小桜姫と申、其母死去し後妻を置、又一人娘出来小柳と申、然ニ、高間菩提後家今ハ我が心に任セんとおもひ、家老を近付内談いたし、あの桜姫ハ先腹也、我子の小柳を立てるべきと存、家老を頼、夜の内にしめころし、やのふけにしづミにかけるなり、妹是をきき、あら邪見之母上かな、姉様ハいづく江追出し候や、きけばやのふけに沈ミにかけ候と申、母上様扨はじゃけんの事也、此事父上様にきこへなハ、母ハ申におよハず、我らともに御にくミ有べしとなげきかなしミ給ふなり、我等も姉様と一所にかうせんの旅に趣かんと頓てやのふけに行給ふ、いかに姉様よ、私も御供申さんと同所に身を投死したり、其比座間・今泉之さかいに水よけの土手をつく、相模川北ハ猿ヶ島之西を流れ、、今の牛池と申ハ其時本川にて、今泉・川内・国分・恩馬・長池になかれ、比村々の者共、座間・今泉のさかいに土手つけとも成就せず、其時右之まま母まつと申者、是を人柱に立る、既ち土手成就仕、比土手を松戸の土手といふ、其大川西にながれ、下依知下大川と成、其間ニ村出来ル、土手の北ハ古川、牛之様成けだ物すミ、是ハまつか生かわりと申、死しての後川原にあけ、其所に大日堂を立、其後高間ハ帰国いたし、鎮守之東、瀧之下の菩提寺に来り、まま母之仕方聞給ひ、不便なるかな子供等となげきかなしミ給ふ、娘之ために施餓鬼供養あり、死したる所に塚をつき印に桜柳を植、比桜今に在、角力之名のりに是ヲ小桜と申なり、しかるに、高間ハ菩提寺に有しが、零落仕候により建立す、甲州上野原報福寺末、水上山龍源院と寺号付、其後天文之比、小田原北条時正より野武士七人座間・磯部逸知行にもらい座間七騎と申也、其内に若林大炊之助と申武士、座間之地頭也、大炊之助鈴鹿之森之脇 ニ居しか、天正十八年に小田原亡び、其時大炊之助立退、親殿ハ老人成しが、其下の龍源院中かう檀那寺と成而老を葬、宮川と高間之石之堂在、南に又座間山心岩寺と申在、鎌倉建長寺末也、然ニ、七騎之内白井織部之屋敷寺之北に有しが、 心岩寺中かう開基と成、又円教寺之北ニ橋本備前と申七騎之内屋敷あり、其并ニ鎌倉鍛治の弟子遠行村より来り、北条時政江打物を上ケ、鍛治のつかさの書物をもらい、天正之比庵之判すわる、又新戸村長松寺開基安藤、名主宰之書物を貰ひ 天文十二年之時也、磯部能徳寺ハ野口左近進開基なり、其外〆て七人座間七騎と申なり、其外小沢古帳に有、星谷之御朱印ハ天正十八年に出る、其外ニ後慶長之比出ル、慶長八年家康将軍、十一年に江戸御城立、同十二年に駿河之御城立、其比御地頭内藤修理守、今之下宿ニ陣屋立、鈴鹿之森之東に池を御ほり被也、其池之場所池田と申、其古ヘ名主ハ長右衛門と申、陣屋之東木之下屋敷也、其比座間より百姓二人新田を開、右ハ高百八十五石弐斗八升六合座間之込高也、後ニ御地頭定り、初にハ御年貢鈴鹿御蔵に納め、名主ハ長右衛門、然ルに、御地頭より仰出され候、比度江戸四ツ屋より新道駿河御城江の道中、段々に一里塚をつき道御改り、其時馬つきの宿なる成へしと御すすめあり、然に、他所之新田とハ違ひ、めいめい座間宿地主有之ニ付、他所之者不参、長宿・ほしのや・南原・羽沢より出ル、山本ハ長宿より出上宿江出るなり、若林ハ上の屋敷より上宿江出る、稲垣 ハ六屋敷より出、鈴木ハかじやにて円教寺之東より出、其所の清水ハ其節かじや川と申、横丁瀬戸も長宿より出、安斉円教寺之下ら出る、吉山鈴鹿より出、野島長宿より出、小又是も鈴鹿より出、奥津羽沢ら出る、しかるに、夫より東ハ黒沼屋敷、南東ハぢんや屋敷也、比陣屋屋敷之跡ねがい、今ハ分ケ家之者出る也、 川原吉山すずかより出る、同鈴木鈴鹿心岩寺之脇らでる、同沢田ハ南原より出、高橋ハ長宿より出る、林ハ木の下より出る中宿江出る、あとに弟金左衛門を置、其子ハ百平と申、其いせき九兵衛と申、他所より来り、其孫一郎右衛門と申、林長右衛門名主之時、村高座間千石と申、鎮守之森下之宮川も上宿江屋敷替仕、其節鈴鹿明神も、六月祭礼にハはた川江はまおりに出、上宿宮川の前に御休あり(以下重複により中略)貞享之比、宮川娘おやふと申者、早川より養子ヲ貰ひ長左衛門と申(中略)其時より宮川絶申也、其屋敷稲垣と名をかへ居申候へ共、前々より鈴鹿様に宮川伊勢より付来ルにより、今に宮川の跡に六月ハ年々御祭礼之時御かり屋に被成御座、近年享保之比ら職に牛頭天王と書付候、尤其古へ牛頭天王も勧請仕候、是も御心信可被致候へ共、しかれ共、鈴鹿明神と牛頭天王とハ御位ちかふなり、宮川にハ縁なき神、宮川の前にハ鈴鹿の興昔より御休有、故に、幟にハ鈴鹿大明神と書べし、牛頭天王と誤りなり、鈴鹿山は今明和七年丑ノ年迄千二百三十四年に成、牛頭天王ハ後に勧請あり、鈴鹿惣鎮守誠ニ古き事也、上之屋敷の長宿、比迄に六百甘三年ニ成、今ハ古道あと、北ハ天神さい之神とがう之姫の墓所森計有、元禄十六年十一月甘二日大地震之時、上之屋敷通りに昔の穴くらくミ、承応之時ハ相模川段々西に成、但シ、座間河内之落水、松戸の土手下古川牛池江落る、
其後寛文之比、久世大和守御知行之時新堀をほる、それより座間耕地水沢ニなる、其時今泉・国分・川内渇水いたし、右之村座間落水を願ひ、国分・今泉へ引、但し、高堰ならず、高堰仕ハ桜田道り稲腐る、其の時ら国分・今泉ハ座間普請に参り、国分は其後柏ヶ谷より逆川を掘、今ハふしんに不参也、然に、承応二年ニ名主長右衛門役あかる、其時之組頭上宿若林清左衛門・中宿吉山次右衛門・長宿瀬戸弥右衛門・鈴鹿渡辺佐右衛門・人之谷福田権兵衛・南原兵左衛門、此時より名主二人に成、上宿清左衛門・入之谷権兵衛江定る、入之谷之内北ハ新戸之者開、乃ち新戸ふんと成、権兵衛ふれ下ハ長宿・鈴鹿・南原・羽沢・星谷・下宿此村高五百五十二石一斗五升三合、内野石高十石入、清左衛門触下ハ宿·河原·中川原此高四百四十三石二斗壱升二合、內野高拾石入、都合九百九十五石三斗六升五合、故に座間千石といふ、然ルに、其後寛文比、久世大和守御知行と成、御蔵ハ宿之うらに清左衛門かかりの御蔵有、古へより鈴鹿御蔵ハ権兵衛しはいの御蔵あり、其時宿・入谷と分ル、入之谷権兵衛触下に成、其節大川新戸向大水之時ハ下タ河原宮川新田ニ押掛申により、大和守ら磯部・新戸・座間・新田迄河よけの土手をつき、其村土手内に用水堀をほり、磯部之入口に水門を立、其時宿之下ニ宮川新田出来ルなり、比宮川新田と申ハ下タ河原也、宮川いつとふにて開初めるなり、故ニ宮川新田と言、御縄入又大野ハ今中原と申まで大野之内也、其比大野中原通り座間ら新畑ニ開、栗原も新田も新戸・磯部迄皆向通りを開発す、其時中原通りへ御縄入、作場と大野之界に並木うハる、其節入之谷ニ貞愍と申座頭有、殿様御抱被成、相模御知行縄延之様に申上候により、大和守様御老中也、御縄入是を貞愍縄と申、御宿ハ座間入之谷権兵衛之処、其并ニ玉江七右衛門殿と申代官あり、江戸ら米川武右衛門・川田彦左衛門・花井加兵衛以上四人、前々ら一万石、但シ十四ヶ村、北ハ田名村より御打被成候処ニ、昔より町歩不足ニ成、右之一万石に合ざりし故、座頭難儀被致と存じられ、座間ニ而盛ヲ上ケ、右ハ上十二ヲ十四、十ヲ十二と成、田畑ともに二ツ宛上り近村ら盛高く也難儀に候、然ルに、古水帳千石内五百五十石余権兵衛支配内、四百四十石余清左衛門支配なり、其御水帳つふしに成、比度大和守様御検地御水帳座間ハ入之谷権兵衛所二而、南原治兵衛と申者田畑本水帳を書、然ルに、新高古水帳ら高殖千四百石余內六百六十三石三斗八升七合野石高也、內拾石村高ニ入、権兵衛持帳內七百六拾壱石九升弐合五勺五才、内野石高十石昔ら村高に入、右之通り次兵衛書本御水帳右之通り権兵衛分清左衛門分書出、両方一冊宛諸持在、但シ、権兵衛方にハ控水帳有之也、本御水帳ハ伊奈半左衛門様江上り、相州高座郡座間村其時之御役人米川武右衛門印・河田吉左衛門・花井加兵衛印・代官玉江七右衛門印・案内名主権兵衛印・同名主清左衛門印と座間と書上、寛文二寅ノ年九月
「座間古説」より久世大和守広之 関連 読み下し
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太字が久世大和守広之に関連した項目
鎮守の北に渋谷高間という武士がいた。幼少のころ父母に死なれ、成人してから妻子を持ち、その小桜姫といった。小桜姫の母は亡くなったので後妻をもらい、また一人娘ができて、こちらを小柳姫といった。そのうち、高間は突然菩提心を起こし、甲州の上野原に行き、報福寺で髪をおろし僧侶となり、諸国修行に出かけた。その時、後妻は自分の思うようにしようと考え「あの小桜姫は先妻の子だから、わが子の小柳姫を跡目にたてたい」と、家老を引き込んで内談した。そして、とうとう夜のうちに締め殺し桜田の谷(や)の深(ふけ)の中に沈めてしまった。
この様子を察した妹は「お母様、一体お姉様をどこへ追い出してしまったの」と聞くと、母は「谷の深に沈めてしまった」と答えたので、「お母様なんてひどいことを、このことがお父様に聞こえたならば、お母様はもちろん、私のこともお憎みになる」と嘆き悲しんだ。そして私も一緒に黄泉の旅に赴こうと谷の深に行き「お姉様、私もお供いたします」と、身を投げて死んでしまった。
そのころ、座間と今泉の境に水よけの土手を築こうとしていた。相模川は、北の方では猿ヶ島(厚木市)の西側を流れていた。今の牛池(座間二丁目)という所はそのころ相模川の本流が流れ、南 の方は今泉・河内・恩馬・長池(以上海老名市)を流れていた。この村々の人たちは、座間・今泉の境の所に何度も土手を築こうとしたが、洪水のたびに壊されなかなかできなかった。そこで、前に述べた継母のまつを人柱に立てた。そのためかやっと土手は完成し、この土手を松戸の土手とい う。以来相模川は西の方に流れを変え、下依知(厚木市)の下を流れるようになり、その間に村が できた。また、土手の北に古川があり、ここに牛のような獣が住んでいた。これは人柱に立ったまつの生まれ変わりといい、この牛が死んだのちに川原に埋葬し、その所に大日堂を建立した。
その後、渋谷高間は諸国修業より帰国し、鎮守の東の瀧の下の菩提寺に落ち着いた。そこで継母のやったことを聞いた高間は、「不憫な子供たちよ」と嘆き悲しみ、娘のために施餓鬼供養をし、娘の死んだ所に塚を築いて、目印に桜と柳を植えた。この桜は今も残っており、角力の名乗りに小桜というのも、これにちなんだものである。渋谷高間は菩提寺に住んでいたが、お寺が零落していたので再建し、この寺に甲州上野原報福寺末、水上山龍源院と寺号を付けた。
それより後天文(一五三二~五五)のころ、小田原北条時正(氏康か氏政のことか)より野武士七人、座間・磯部までを知行地にもらい、これを座間七騎といった。その七人のうちの若林大炊之助という武士が座間の地頭となり、鈴鹿の森の脇に居住していたが、天正十八年(一五九○)に小田 原の北条氏が滅んだため、他の地へ立ち退いていった。大炊之助は屋敷の下の龍源院を中興の壇那寺として、親をここに葬った。なお、宮川と渋谷高間の石の堂も龍源院の中にあった。
また、鎮守の南に座間山心岩寺というお寺があり、鎌倉建長寺の末寺である。七騎のうちの白井織 部の屋敷がこの寺の北にあり、白井織部は心岩寺の中興の開基となった。 円教寺の北に橋本備前という、七騎のうちの一人の屋敷があった。その並びに、鎌倉鍛治の弟子が 円行村 藤沢市)より来て、北条氏政へ打物(刀)を納め、鍛治の司の書き物をもらった。そして天正(一五七三~九二)のころに、北条氏の虎印を押した年貢免除の文書をもらった。 新戸村の長松寺開基の安藤は、名主宰(名主職任命書)の書き物をもらった。これは天文十二年(一五四三)のことであった。磯部の能徳寺は野口佐近進が開基であった。以上の人々とそのほかの人々を含めて、七人の武士を座間七騎といった。そのほか小沢という名前が古帳に記載されてい
る。
星の谷の御朱印は天正十八年(一五九○)に出された。また後の慶長のころにも出されている。慶長八年(一六○三)家康は征夷大将軍に任ぜられ、同十一年に江戸城を築き、同十二年駿河に城を築いた。そのころ、座間の地頭内藤修理亮は今の下宿に陣屋を作り、鈴鹿の森の東に池を掘った。 その池の場所を池田という。また、名主に長右衛門という人がいて、陣屋の東の木の下という所に屋敷を持っていた。そのころ、座間より百姓二人が新田(宿)を開いた。この新田(宿)の石高は
一八五石二斗八升六合で、座間の込高であった。後に御地頭が定まるが、最初は御年貢を鈴鹿御蔵に納め、名主は長右衛門であった。
その後、御地頭よりお指図があり、この度、江戸四ッ谷より新道駿河城への道中、だんだんに一里塚を築いて改修すれば、座間はいずれ馬継ぎの宿駅になるであろうと、お勧めがあった。こうして人が移ってきて座間の宿ができたわけであるが、ここは他所の新田とは違い、それぞれ地主がきまっているので、他所の者は入って来ず、長宿・星の谷・皆原・羽根沢より人々が移り住んできたものである。
具体的に述べると、山本は長宿より上宿へ、若林は上の屋敷より上宿へ、稲垣は六屋敷より上宿へ出た。鈴木は鍛治屋で円教寺の東から中宿へ出た。元の場所の清水はかじや川といっていた。横丁の瀬戸も長宿より中宿へ、安斉は円教寺の下から中宿へ、吉山は鈴鹿より中宿へ出た。野島は長宿より下宿へ、小俣も鈴鹿より下宿へ、奥津は羽根沢より下宿へ出た。それより東は黒沼屋敷、また、 南東は陣屋々敷であった。この陣屋々敷の跡は、お願いして分家の者が出ることにした。河原宿の吉山は鈴鹿より出た。河原宿の鈴木は鈴鹿の心岩寺の脇から出て来た。沢田は皆原より中河原へ 高橋は長宿より中河原へ出た。林長右衛門は木の下より中宿へ出、そのあとには弟の金左衛門を住まわせた。その子供は百平といい、百平の後継ぎの九兵衛という人は他所から来た人であり、百平の孫は一郎右衛門といった。また、林長右衛門が名主のとき、村高座間千石といわれていた。
鎮守の森下にいた宮川も上宿へ屋敷替えをした。そのため、鈴鹿明神も六月の御祭礼には鳩川へ浜降りに出た後、上宿の宮川の前にお休みになるようになった。貞享(一六八四~八八)のころ、宮川の娘「おやふ」という人は早川より養子をもらい、名前を長左衛門といった。その屋敷は今では 稲垣と名前が変わっているが、宮川は鈴鹿様に従って伊勢よりお供をして来た家柄であるので、今も宮川の跡に六月の御祭礼のときには、神興が御仮屋にお入りになっている。
近年になって享保(一七一六〜三六)のころより、宮川の前に立てる職に牛頭天王と書いてあるが、 確かに牛頭天王も昔に勧請してあるので、これも御信心なさるべきだと思う。しかし、牛頭天王は 鈴鹿明神と位が違うし、宮川とは縁のない神様である。宮川の前は昔から鈴鹿明神の神興がお休みになる場所なので、当然職には鈴鹿大明神と書くべきであり、牛頭天王と書くのは誤りである。鈴鹿様は明和七年寅ノ年(一七七○)まで、一二三四年になるが、牛頭天王はその後に勧請されたも
ので、鈴鹿の総鎮守様は誠に古い神様なのである。
上の屋敷にあった長宿は、これまでに六二三年を経ている。今は古い道路の跡や、北の方に天神様賽の神様・護王の姫の墓所と森があるばかりである。元禄十六年(一七○三)十一月二十二日 大地震のとき、上の屋敷通りにあった昔の穴が崩れてしまった。
承応(一六五二~五五)の時に、相模川はだんだんと西の方へ移動した。けれど、座間河内は、松戸の土手下の古川牛池に落ち込んでいた。その後、寛文年間(一六六一~七三)の久世大和守御知行のとき新堀を掘った。それ以来、座間の耕地は灌漑用水が豊かになった。今泉・国分・河内(海老名市)は渇水していたので、この村々は座間への落水を願った。そこで、今泉へ水を引かせた。ただし高堰は許さなかった。その理由は、高堰を作ると、桜田一帯は水がたまり稲が腐るからであった。その時から、国分・今泉は座間の堀普請に参加しているが、その後、国分の方は柏ヶ谷(海老名市)より逆川を掘ったので、今は普請には参加していない。
承応二年(一六五三)に名主の長右衛門が退任した。その時の組頭は上宿若林清左衛門・中宿吉山次右衛門・長宿瀬戸弥右衛門・鈴鹿渡辺佐右衛門・入の谷福田権兵衛・皆原の兵左衛門であった。 そして、この時より名主は二人となり、組頭の中から上宿清左衛門・入の谷権兵衛が名主に決まった。また、入の谷のうち、北の方は新戸の人が開拓したので、新戸分となった。
権兵衛の触下は、長宿・鈴鹿・皆原・羽根沢・星の谷・下宿で、この村高は五五三石一斗五井三合、 そのうち野石として、高一○石が含まれている。清左衛門の触下は、宿・河原宿・中河原、この高は四四三石二斗一升一合で、そのうち野石として高一○石を含んでいた。よって合計九九五石三斗六升五合となり、このため一般に座間千石という。
その後寛文 (一六六一~七三)のころに、久世大和守の御知行となって、宿の裏に清左衛門支配の御蔵ができ、昔からの鈴鹿の御蔵は権兵衛支配の御蔵となった。その時、宿と入谷とに分かれて、 入谷は権兵衛の触下になった。 そのころ、相模川が大水になると、新戸向から下タ河原の宮川新田に濁流が押し寄せて来るので、 大和守は、磯部・新戸から座間新田まで洪水を防ぐ土手を築き、併せて、土手の内側に用水堀を掘り、磯部の入口に水門を作った。その時に、宿の下に宮川新田ができた。この宮川新圧というのは 下タ河原のことであり、宮川の一族で開拓したので、宮川新田という。
大和守様の御縄入(検地)まで、大野というのは今の中原といっている所まで入っていた。そのころ、大野の中原通りを座間の者が新しく畑に開いた。また、栗原も新田宿も新戸・磯部の者までもみな向通りを開発した。その時、中原通りへ御縄入があり、作場と大野の境に並木が植えられた。 このころ、入の谷に貞愍(じょうみん)という座頭がおり、殿様のお抱えになっていた。ある時、殿様へ相模の御知行所に縄延びがあるように申し上げたので、御老中であった大和守様は、早速御縄入を命ぜられた。これを貞愍縄と呼んでいる。貞愍の宿は、入の谷権兵衛の家であり、その家の並びに玉江七右衛門という代官がいた。そのほかに江戸より米川武右衛門・川田彦左衛門・花井加兵衛などが来て、以上四人で縄入を行った。
大和守の領地は、一万石といわれていた。ただし、これは一四ヶ村の合計であった。これらの領地に対し、北の方の田名村から順次御縄入を行ってきたが、この地は昔から町歩不足の所で、再検査 の結果も一万石に合わなかった。これでは座頭貞愍の立場がないと殿様は考えられて、座間において石盛を上げることにした。そして、上田の一二というのを一四、一○というのを一二というように、田畑ともに二ツずつ上げ水増しされた。このため、近村よりも石盛が高くなり、村人は大変難 儀をした。
古い水帳の座間千石の内訳は、五五○石余が名主権兵衛の支配地で、四四○石余が名主清左衛門の配地であったが、この御水帳は廃棄処分とされた。この度の大和守様御検地の御水帳は、担当が入の谷の名主権兵衛で、皆原の治兵衛という人が書き役となり、田畑本水帳を書き上げた。
これによれば、新石高はもとの水帳より増加して一四○○石余となり、そのうち、権兵衛の受け持ちの石高は、六六三石三斗八升七合であった。このうちの一○石は、野石として村高に加えられたものである。清左衛門の受け持ちの石高は、七六一石九升二合五句五才であり、そのうち一○石は、 昔から野石として村高に付け加えられていた。以上の通りに、書き役の皆原の治兵衛は本水帳に書き、それぞれ権兵衛分と清左衛門分とに書き出し、これを両名主が一冊ずつ所持した。ただし、権兵衛方には控えの水帳があったので、本水帳は伊奈半左衛門様へ差し上げた。この水帳は、相州高 座郡座間村として、その時の役人である次の人々の署名捺印がなされていた。
米川武右衛門印 名主清左衛門印 花井加兵衛印 代官玉江七右衛門印 同名主清兵衛門印
末尾に座間と書き上げ、年月は寛文二年寅ノ年(一六六二)九月とあった。
入谷に当時住んでいた大和守お抱えの座頭貞愍(じょうみん)が検地を行い、あまり価値が合わないので大和守が貞愍の体裁を守るために石高の水増しをして農民は難儀したとある。どういうこと?なんで殿様が家来である貞愍の体裁を守らなければならないのかがわからんし、水増しまでする必要があるんだ??
まぁ疑問は尽きないがとにかく農民達にとってはめんどくさいことではあったようだ。
【上記の間違え!】
恐縮です。後ほど座間古説を読み返し
上記の記述に誤りがあることが判りました。
座間の地は久世の知行地だったのですが
殿様のお抱えの座頭貞愍(じょうみん)が入谷という場所に住んでいました。
ここでいう殿様とは久世のことではなく江戸のお殿様のこと。「縄延び」とは計測した帳簿上の土地よりも実測地の方が大きかったことを指しており、貞愍は江戸の殿様にそのことを親告、久世はその貞愍の報告を確認するために領地を実測することになる。コレが貞愍縄と言うことだそうだ。ところが計測してみると本来一万石あった領地が縄延びどころか一万石に満たなかった。こりゃ貞愍の立場がないということで石盛を行ったためいわば地元民からすれば増税させられた格好になったわけです。石盛とはその土地の生産力のことで本来石高とは石盛×面積で算出される。一万石に満たなかったわけだから本来取れる生産力を少し水増ししていわゆる貞愍の間違いを帳簿上で補填したということ。 そりゃ住民たちは難儀するわ...
貞愍が下手な報告しなければ増税にならずに済んだのに...
1660年代の知行地地図無いか調べてみたんだけどまぁ解らんのですわ
細かいのがねネット上で見当たらない。
でもこんなページありました。
ちょっと解りづらいねw
詳しくは
こちら...
因みに幕末?あたりはこんな感じになってます。
詳しくは
こちら...
とにかく相模原から座間にかけてを支配したのが久世広之ということになりそう。
久世広之は江戸時代の文治政治の立役者の一人として有名らしいです。
文治政治とは簡単に言うと文人統治です。
江戸開幕から三代に渡って行われた武断政治により
国内が疲弊した中、起こった寛永の大飢饉を引き金に武力的な政治から徐々に代わっていったようです。以前
伊勢旅行のブログの際に江戸時代初期に亀山藩の藩主がめまぐるしく変わった話は記載していると思いますがまさに其の時代を武断政治時代、その後藩主が安定し始めた頃を文治政治という感じでしょうかね?
久世広之はその文治政治時代の老中でしたので強力に文治政治を推し進めた一人。
当然治水工事や堤防工事などにも積極的に介入するわけです。
さて脱線しまくりですがね
久世広之が相模川に堤防を作ろうとしたのですが
実は今回舞台の人柱伝説があった海老名は久世の支配地域から外れてるんですよね。
其の場所は上今泉村。
現在は海老名市になっています。
新編相模風土記によればこうあります。
新編相模風土記上今泉
護王姫伝説の件も記載されてますね。
上今泉村についての記述はこれのみ。
学術的にも上今泉村についてはこれ以上の文献は出てこないだろうとのことです。
しかしこの中で人柱の件は何も触れていません。
もしかしたら人柱伝説自体が単なる空想だったかもしれませんが
新編相模風土記が書かれたのは天保十二年(1841)。
文治政治により、流通が盛んになったため庶民にも読み書きそろばんが普及し
シャーマニズム的民間信仰が徐々に廃れた1800年代において人柱の件は
やはり体裁の悪い件。伝えづらい件だったかもしれません。
人柱自体も近代中期以降はお地蔵様に変容しているとも聞きました。
こちらも参考に...
江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ
ではなぜその上今泉から人柱が出されたのでしょう?
もしかしたら久世広之は相模川のこの当たり一帯の治水工事を行おうとしたのかもしれません。当然文治政治の立役者の一人であり、江戸幕府の老中であったわけですから自藩のみならず天領である海老名側にも目を向けていたものと思われます。
しかし上今泉の集落の人たちは関係の無い自分達の地域にまで治水工事が及ぶことにつき恐縮し何かこちらからもしないといけないと感じたのかもしれません。
それが久世広之にとっては関係の無い上今泉からの人柱だったとも考えられます。
またはその周辺の地域の村との関係もあったのかもしれませんね。
何にしてもその寛文二年(1662)に白羽の矢が立ったのは
本当に哀れで見目麗しい村の生娘 お松...。
先にも出した
海老名市 えびなむかしばなし お松の碑
によると彼女は桶に入れられて生き埋めにされたということです。
家族がせめて少しでも生きながらえるようにと桶に穴を通した竹を刺して
先端が土表から出るようにしたといわれていますが
返ってそれは彼女の苦しみを長らえてしまったのではないかと私は感じます。
一週間、もしかしたら二週間くらい地中で生きていたかもしれません。
そりゃ中は惨憺たる状況だったでしょうね...
悲しみの声は多分その竹筒を通って周囲に聞こえたかもしれません。
この周囲を歩く人は多分目を背けたんじゃないでしょうか...
本当に不安で怖くて苦しいことだったに違い有りません。
一人地中に生き埋めにされる時之彼女の心持を察するには自分はまだまだ経験不足と感じます。
その地蔵の前にこのような標語がありました...
海老名市の郷土かるただそうです。
水害から村を救ったお松の碑
なんとなく美談になっていますが
単なる当時の村の集団ヒステリーでしか有りません。
その犠牲になったお松の無念を思わざるを得ません。
実はこのお松地蔵。移築されてるんです。
元々は踏み切りの手前。
車を停めた場所辺りね。
そこに榎戸橋なるものが昔ありました。
そのあたりにお松さんは人柱になったそうで
その人柱の横に榎を植え、その後それが成長し
其の当たり一帯を榎戸と呼ばれるようになったそうで
その場所に架けた橋が榎戸橋だったようです。
今は地名も榎自体も無くなってますがその跡に建てられた碑に
無残にも殺された娘を思ってか今後このようなことがおきないようにの誓いか
其の場所を大切にしたいというこの地域の人たちの思いを感じざるを得ません。
↓お松の無念を慰めよう!
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