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2018年8月6日月曜日

【海老名】人柱の松

海老名にある伝説
というよりも事実なのかもしれない...

この悲しくも惨い話...

今回はその惨い話 松について書きたいと思います。


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前回 座間の桜田伝説および護王姫伝説から突如として派生的発生したこちらの伝説。
はじめ小桜姫を殺した母親が自ら身を投げ出し人柱になったなる話しにつづいていたもののそれはどうも無いだろうとの見解から海老名に残るこの人柱伝説に移っていった経緯が有ります。

たしかにそちらのほうが真実味あるし
時代の違いからもそちらのほうが正しいと思われます。

桜田伝説については座間に残る「座間古説」からの情報として得られるのですが
この海老名に残る人柱伝説については古い書物からの引用ではなく昔から口伝えのいわば昔話と実際にその現場となった場所にすえられているお地蔵様にその情報の痕跡を得ることができます。

さてならばまずその伝説の地へ足を向けましょう。

前回同様座間に向かってすすみます。
そして桜田伝説の地、小桜姫の塚までついたら
入谷二丁目の集落内を南に抜けていきます。
ただしこの集落。とても路が狭い!
注意して進んでください。

すると水路と鉄道が複雑に交差する場所に出ます。
そこが座間と海老名の市境。
そして海老名側に入った地区が上今泉地区になり
その市境こそが人柱の伝説がある場所なのです。

車は駐車する場所は無いものの道幅が広いので
お地蔵様へのお参り程度ならその道端に駐車するのも手です。

鉄道は踏切があり其の渡った先にお地蔵様が綺麗に安置されていますが
車で渡るにはちょっと厳しい踏み切り。


やはり踏み切りの手前の路上に車を止めるのがいいでしょう。


歩いて踏み切りを渡るとゴウゴウと大きな音


水路が幾重にも重なりつつ轟音を響き渡らせています。
その水路の水門の先に綺麗に整備されてあるのが



お松地蔵です。


綺麗に整備されていますね。
大切にされていることを感じます。


あれ??でも新しくね??

そう新しいんです。実はお地蔵様盗まれてるんです...。
1970年代になくなったそうなんです。

以前はこんな感じのお地蔵様がありました。


現在はこう!


平成五年(1993)地元の人が新たなお地蔵様を建立したそうです。
花もたくさん手向けられてます。
本当に大切にされているのがわかりますね。
なぜここまで大切にされているのか...


小田原の酒匂川もそうですが
この海老名周辺、相模川は水量が多いだけに氾濫する危険性が高い川でした。
ひとたび氾濫すると手のつけようが無い酷い有様。
相模川を中心にその両側一キロほどの範囲で水没する可能性が高かったわけです。
なんて暴れ川なんだ!なんて思うかもしれないですがね...
これは人間の側の問題。川のほうからすれば冗談じゃない!
そもそも相模川の河川敷はその両側一キロずつ。その向こう側にはちゃんと小高い大地になっている。本来ならその台地側に生活圏を作るべきで河川敷に入り込むほうがいけないんですね。竜神様が御通りになる道こそがいわば河川敷なわけです。
其の台地。最近ブラタモリなどで知名度が高まったいわば河岸段丘。
簡単に言えばその台地側なら当然水は入り込まないわけです。
でも確かに虎穴にいらずんば虎児を得ず。
危険を冒してこそ利益は高いものでたとえ高水敷であってもそこには広大な平地がある。
開拓すればとうぜん莫大な富を生み出せるわけです。
ということで人間の人生は冒険だ!ということでどんどん人はその高水敷に足を伸ばしていくことになります。
当然大雨 台風 なんてなれば被害がでるわけで
其のたびに人は唖然とし、そして一家離散。当然死者もでることでしょう。
そのような狂気な状況に陥れば人は恐怖におののくわけで...

その恐怖を何で回避するかというとシャーマニズム的な原始的信仰に頼ることになります。神様が怒ってなさる...
神を祀らなければ...お祭りをしよう!
「祭」という字は「タ」は肉であり「又」は手、「示」は生贄を捧げる台のこと...
殷の時代生贄といえば当然人でした。そう人の肉を差し出すことになります。
神様に人を差し出すことで難を逃れようとしたわけです。
アジア文化圏に所属する日本も当然其の分に漏れず、オオキミが亡くなり墳墓造成の折には多くの人を生き埋めにしたわけです。
しかしあまりに残酷なこの風習は徐々に廃れていきます。国家規模で言えば早い段階でなくなるのですが残念なことに民衆レベルでは近代まで残ってしまうわけです。

それが人柱。

建物を建てる際やこの例のように川の氾濫、火山の噴火など人間の人知が及ばない範囲についてはやはり神頼みをしてしまうものなのです。



寛文二年(1662)このあたりを治めていたのは久世大和守広之(くぜやまとのかみひろゆき)
一念発起!この相模川周辺に治水工事を行おうとします。
その際に人柱が立てられたのがこの現在の海老名市北部上今泉の場所なのです。

詳しくはこちらをご覧ください。
えびなめぐり
海老名市 えびなむかしばなし お松の碑

うーん なんともかわいそうな話。惨いことです。

久世大和守広之とは下総関宿の藩主...
関宿??
なんともこのブログと関宿とは何らかの因縁があるのか
伊勢旅行の際、ふらっと立ち寄ったのが三重県の関宿でしたね。
しかもその関宿を支配する亀山藩の藩主は下総関宿の藩主が移ってきたことも書きました。しかしその際に書いたのは板倉重常。

話を戻して久世大和守広之。実はこの方、分家なのですが
本家より大きくなってしまい大名までのし上がった人物。
父親が徳川家康の直参になったため2500石を有して旗本に列せられた。
その後長男広当(ひろまさ)に家督を譲り、弟の広之には500石を与えられ
寛永十二年(1635)に徒頭(かちがしら)に...。徒頭とはいわば徒士(歩兵集団)の頭のこと...
しかしあくまでも頭でしかなく指揮官ではない。指揮官は馬上の武士。
ただし農耕民出身の足軽とは違い、徒士はあくまでも士族。
その後立身出世していき、慶安元年(1648年)に武蔵国小机領、そしてこの海老名領など5000石を加えられ計一万石の大名に列せられる。
最終的には五万石の大名になるわけだから立身出世の人といえるね。

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さてその久世大和守広之のことは「座間古説」にも記載されています。

「座間古説」より久世大和守広之 原文

「座間古説」より久世大和守広之 関連 読み下し

入谷に当時住んでいた大和守お抱えの座頭貞愍(じょうみん)が検地を行い、あまり価値が合わないので大和守が貞愍の体裁を守るために石高の水増しをして農民は難儀したとある。どういうこと?なんで殿様が家来である貞愍の体裁を守らなければならないのかがわからんし、水増しまでする必要があるんだ??
まぁ疑問は尽きないがとにかく農民達にとってはめんどくさいことではあったようだ。

【上記の間違え!】
恐縮です。後ほど座間古説を読み返し
上記の記述に誤りがあることが判りました。

座間の地は久世の知行地だったのですが
殿様のお抱えの座頭貞愍(じょうみん)が入谷という場所に住んでいました。
ここでいう殿様とは久世のことではなく江戸のお殿様のこと。「縄延び」とは計測した帳簿上の土地よりも実測地の方が大きかったことを指しており、貞愍は江戸の殿様にそのことを親告、久世はその貞愍の報告を確認するために領地を実測することになる。コレが貞愍縄と言うことだそうだ。ところが計測してみると本来一万石あった領地が縄延びどころか一万石に満たなかった。こりゃ貞愍の立場がないということで石盛を行ったためいわば地元民からすれば増税させられた格好になったわけです。石盛とはその土地の生産力のことで本来石高とは石盛×面積で算出される。一万石に満たなかったわけだから本来取れる生産力を少し水増ししていわゆる貞愍の間違いを帳簿上で補填したということ。 そりゃ住民たちは難儀するわ...
貞愍が下手な報告しなければ増税にならずに済んだのに...

1660年代の知行地地図無いか調べてみたんだけどまぁ解らんのですわ
細かいのがねネット上で見当たらない。
でもこんなページありました。


ちょっと解りづらいねw
詳しくはこちら...

因みに幕末?あたりはこんな感じになってます。

詳しくはこちら...

とにかく相模原から座間にかけてを支配したのが久世広之ということになりそう。

久世広之は江戸時代の文治政治の立役者の一人として有名らしいです。
文治政治とは簡単に言うと文人統治です。
江戸開幕から三代に渡って行われた武断政治により
国内が疲弊した中、起こった寛永の大飢饉を引き金に武力的な政治から徐々に代わっていったようです。以前伊勢旅行のブログの際に江戸時代初期に亀山藩の藩主がめまぐるしく変わった話は記載していると思いますがまさに其の時代を武断政治時代、その後藩主が安定し始めた頃を文治政治という感じでしょうかね?
久世広之はその文治政治時代の老中でしたので強力に文治政治を推し進めた一人。
当然治水工事や堤防工事などにも積極的に介入するわけです。

さて脱線しまくりですがね
久世広之が相模川に堤防を作ろうとしたのですが
実は今回舞台の人柱伝説があった海老名は久世の支配地域から外れてるんですよね。

其の場所は上今泉村。
現在は海老名市になっています。
新編相模風土記によればこうあります。

新編相模風土記上今泉

護王姫伝説の件も記載されてますね。
上今泉村についての記述はこれのみ。
学術的にも上今泉村についてはこれ以上の文献は出てこないだろうとのことです。

しかしこの中で人柱の件は何も触れていません。
もしかしたら人柱伝説自体が単なる空想だったかもしれませんが
新編相模風土記が書かれたのは天保十二年(1841)。
文治政治により、流通が盛んになったため庶民にも読み書きそろばんが普及し
シャーマニズム的民間信仰が徐々に廃れた1800年代において人柱の件は
やはり体裁の悪い件。伝えづらい件だったかもしれません。
人柱自体も近代中期以降はお地蔵様に変容しているとも聞きました。

こちらも参考に...
江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ

ではなぜその上今泉から人柱が出されたのでしょう?
もしかしたら久世広之は相模川のこの当たり一帯の治水工事を行おうとしたのかもしれません。当然文治政治の立役者の一人であり、江戸幕府の老中であったわけですから自藩のみならず天領である海老名側にも目を向けていたものと思われます。
しかし上今泉の集落の人たちは関係の無い自分達の地域にまで治水工事が及ぶことにつき恐縮し何かこちらからもしないといけないと感じたのかもしれません。
それが久世広之にとっては関係の無い上今泉からの人柱だったとも考えられます。
またはその周辺の地域の村との関係もあったのかもしれませんね。





何にしてもその寛文二年(1662)に白羽の矢が立ったのは
本当に哀れで見目麗しい村の生娘 お松...。
先にも出した
海老名市 えびなむかしばなし お松の碑
によると彼女は桶に入れられて生き埋めにされたということです。
家族がせめて少しでも生きながらえるようにと桶に穴を通した竹を刺して
先端が土表から出るようにしたといわれていますが
返ってそれは彼女の苦しみを長らえてしまったのではないかと私は感じます。
一週間、もしかしたら二週間くらい地中で生きていたかもしれません。
そりゃ中は惨憺たる状況だったでしょうね...
悲しみの声は多分その竹筒を通って周囲に聞こえたかもしれません。
この周囲を歩く人は多分目を背けたんじゃないでしょうか...
本当に不安で怖くて苦しいことだったに違い有りません。
一人地中に生き埋めにされる時之彼女の心持を察するには自分はまだまだ経験不足と感じます。



その地蔵の前にこのような標語がありました...


海老名市の郷土かるただそうです。

 水害から村を救ったお松の碑

なんとなく美談になっていますが
単なる当時の村の集団ヒステリーでしか有りません。
その犠牲になったお松の無念を思わざるを得ません。

実はこのお松地蔵。移築されてるんです。
元々は踏み切りの手前。

車を停めた場所辺りね。


そこに榎戸橋なるものが昔ありました。
そのあたりにお松さんは人柱になったそうで
その人柱の横に榎を植え、その後それが成長し
其の当たり一帯を榎戸と呼ばれるようになったそうで
その場所に架けた橋が榎戸橋だったようです。


今は地名も榎自体も無くなってますがその跡に建てられた碑に
無残にも殺された娘を思ってか今後このようなことがおきないようにの誓いか
其の場所を大切にしたいというこの地域の人たちの思いを感じざるを得ません。


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