迎賓館、
黒田家の別荘小田原の清閑亭、
日本の電力王松永氏の老欅荘、
陸軍大将乃木邸、
内閣総理大臣旧吉田茂邸、
三菱財閥の旧岩崎邸、
鉄道王根津喜一郎の起雲閣。
どれも個性的ですばらしい邸宅ばかり。
それら邸宅シリーズに新たな一ページがくわわります。
そう!テレビドラマなどでもよく使われているあの邸宅。
旧前田侯爵家邸宅
今回は目黒の誇る文化遺産。
旧前田侯爵家邸宅をご案内します。
旧前田侯爵家邸宅
場所はココ!
開館日 水曜~日曜、祝日(年末年始除く)
開館時間 9:00~16:30(洋館) 9:00~16:00(和館)
入場無料
最寄駅は小田急線 代々木上原駅(徒歩14分) 東北沢駅(13分)
京王井の頭線 池ノ上駅(徒歩15分) 駒場東大前(徒歩11分)
前田家とは
詳細はコチラ↓
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前田家は侯爵家である。
侯爵家とはヨーロッパ貴族制度及び日本、中国の華族制度の第二位。
公爵の下、伯爵の上に位置する。英語でのmarquess、独語でのFürst(フュルスト)。
中国における爵位では西周(紀元前1100年頃 - 紀元前771年)時代に設けられた五つの爵位の上から二番目とある。最上位は天子とあるので実質爵位の最上位となり、大きな領土を所有するものと「礼記」に規定されている。しかし当時爵位は存在しておらず、後世の創作ではないかと指摘もされている。
漢代に十二爵位制度がひかれたが、その後魏の時代に下り侯爵位が敷設されている。
隋において国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵位が制定されている。
日本においては明治17年(1884年)華族令が通達されてからはじまる。明治22年(1889年)貴族院令が発布され、華族に序する者は貴族院議員になることができるようになった。
武家においては基本戊辰戦争後の石高15万石位上の領地を所有していた大名に当てられている。
広島藩主池田家、
鳥取藩主池田家、
福岡藩主黒田家、
久保田藩主佐竹家、
名古屋藩主徳川家、
紀州藩主徳川家、
徳島藩主蜂須賀家、
熊本藩主細川家、
金沢藩主前田家、
高知藩主山内家、
福井藩主松平家、
宇和島藩主伊達家、
武家では上記の一族が侯爵とされている。しかし侯爵家は実質名誉爵位の位置づけに近く
国からの資金面での補填は殆どなく、しかも貴族院議員歳費も終身議員である公爵にはなかった。
ということは自ら生活費を生み出していかなくてはならない立場だったということ。さらに華族である位上みっともないことはできないのでそれなりの歳出も考えられ結構立場上はキツイたちばだったといえる。
前田家もここ駒場の邸宅を築く先代、前田 利嗣(まえだ としつぐ、安政5年4月19日(1858年5月31日) - 1900年(明治33年)6月14日) は石狩平野に広大な農場を建設したり、鉄道車両メーカー汽車製造に出資したりしている。
この駒場に移転した前田家16代目当主前田 利為(まえだ としなり、1885年(明治18年)6月5日 - 1942年(昭和17年)9月5日 利嗣の養嗣子)は軍人で陸軍大将を勤めている。1926年東大に金沢藩前田家所有の土地を譲り渡す代わりにこの駒場の敷地を譲り受け、邸宅を構える。東條英機とはそりが合わず「頭が悪くて先が見えない男、あれは国を滅ぼす。」と称している。1942年4月ボルネオにて戦死。
さてこの前田家、もうご存知ですよね。尾張愛知郡土豪前田利昌の四男利家の系統の一族。織田家、豊臣家と功績を挙げ、加賀に100万石を築き明治維新に続いています。
前田家は侯爵家である。
侯爵家とはヨーロッパ貴族制度及び日本、中国の華族制度の第二位。
公爵の下、伯爵の上に位置する。英語でのmarquess、独語でのFürst(フュルスト)。
中国における爵位では西周(紀元前1100年頃 - 紀元前771年)時代に設けられた五つの爵位の上から二番目とある。最上位は天子とあるので実質爵位の最上位となり、大きな領土を所有するものと「礼記」に規定されている。しかし当時爵位は存在しておらず、後世の創作ではないかと指摘もされている。
漢代に十二爵位制度がひかれたが、その後魏の時代に下り侯爵位が敷設されている。
隋において国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵位が制定されている。
日本においては明治17年(1884年)華族令が通達されてからはじまる。明治22年(1889年)貴族院令が発布され、華族に序する者は貴族院議員になることができるようになった。
武家においては基本戊辰戦争後の石高15万石位上の領地を所有していた大名に当てられている。
広島藩主池田家、
鳥取藩主池田家、
福岡藩主黒田家、
久保田藩主佐竹家、
名古屋藩主徳川家、
紀州藩主徳川家、
徳島藩主蜂須賀家、
熊本藩主細川家、
金沢藩主前田家、
高知藩主山内家、
福井藩主松平家、
宇和島藩主伊達家、
武家では上記の一族が侯爵とされている。しかし侯爵家は実質名誉爵位の位置づけに近く
国からの資金面での補填は殆どなく、しかも貴族院議員歳費も終身議員である公爵にはなかった。
ということは自ら生活費を生み出していかなくてはならない立場だったということ。さらに華族である位上みっともないことはできないのでそれなりの歳出も考えられ結構立場上はキツイたちばだったといえる。
前田家もここ駒場の邸宅を築く先代、前田 利嗣(まえだ としつぐ、安政5年4月19日(1858年5月31日) - 1900年(明治33年)6月14日) は石狩平野に広大な農場を建設したり、鉄道車両メーカー汽車製造に出資したりしている。
この駒場に移転した前田家16代目当主前田 利為(まえだ としなり、1885年(明治18年)6月5日 - 1942年(昭和17年)9月5日 利嗣の養嗣子)は軍人で陸軍大将を勤めている。1926年東大に金沢藩前田家所有の土地を譲り渡す代わりにこの駒場の敷地を譲り受け、邸宅を構える。東條英機とはそりが合わず「頭が悪くて先が見えない男、あれは国を滅ぼす。」と称している。1942年4月ボルネオにて戦死。
さてこの前田家、もうご存知ですよね。尾張愛知郡土豪前田利昌の四男利家の系統の一族。織田家、豊臣家と功績を挙げ、加賀に100万石を築き明治維新に続いています。
旧前田侯爵邸
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洋館と和館がそれぞれ併設されている形式。
前述とおり、東京帝国大学との土地のスワップで昭和4年(1929年)にこの地に建設された。1942年当主の前田利為が戦死すると他人手に渡り、中嶋飛行機の本社に利用されたりもしたが戦後は米軍に接収され12年間連合軍極東軍事司令官の官邸などとして使用された。その後 東京都の所有となり1975年目黒区に移管されている。
洋館と和館がそれぞれ併設されている形式。
前述とおり、東京帝国大学との土地のスワップで昭和4年(1929年)にこの地に建設された。1942年当主の前田利為が戦死すると他人手に渡り、中嶋飛行機の本社に利用されたりもしたが戦後は米軍に接収され12年間連合軍極東軍事司令官の官邸などとして使用された。その後 東京都の所有となり1975年目黒区に移管されている。
敷地門と前庭
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前田邸の正門は北側にあります。
面してはいませんが東京都道420号線、鮫洲大山線の一本奥です。
延長線上には小田急線の代々木上原駅があります。
しかしそこまで直通の道路はありません。
正門からは車用の道路が設けられています。
その奥に車寄せがあります。
三角の塔がこの前田邸のシンボルマーク。
かわいらしいですよね。
その車寄せから廻ると裏庭に出ます。
広大な裏庭からは旧前田侯爵邸洋館の全貌が見えます。
今は憩いの場所となっていますが
昔はここでパーティなども開かれたのでしょうか?
前田邸の正門は北側にあります。
面してはいませんが東京都道420号線、鮫洲大山線の一本奥です。
延長線上には小田急線の代々木上原駅があります。
しかしそこまで直通の道路はありません。
正門からは車用の道路が設けられています。
その奥に車寄せがあります。
三角の塔がこの前田邸のシンボルマーク。
かわいらしいですよね。
その車寄せから廻ると裏庭に出ます。
広大な裏庭からは旧前田侯爵邸洋館の全貌が見えます。
今は憩いの場所となっていますが
昔はここでパーティなども開かれたのでしょうか?
洋館
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有名なのは洋館ですよね。
コチラは設計が宮内省内匠寮の高橋貞太郎(たかはし ていたろう、1892年6月26日 - 1970年10月1日)。学士会館、高島屋百貨店東京店、川奈ホテルや帝国ホテル新本館などを設計している
竣工は昭和4年(1929年)
施工は竹中工務店
震災後の建設の為、鉄筋コンクリート造り。
イギリスチューダー洋式で個人邸宅としては東洋一と称された。
チューダー洋式とはイングランドの15世紀から17世紀初頭までの建築様式。
チューダー朝が成立させたばら戦争の終結と共に「チューダーの平和」と呼ばれる戦乱のない時代が訪れ、建物の洋式がゴシックから変化するようになる。宗教改革によって潤沢な資金を得たヘンリー8世とその周辺の人々がこぞってチューダー方式の建物を建てジェントリ層にもてはやされた。
概観
詳細はコチラ↓
一階
エントランス
詳細はコチラ↓
階段広間
詳細はコチラ↓
サロン
詳細はコチラ↓
第一応接室
詳細はコチラ↓
小客室
詳細はコチラ↓
大客室
詳細はコチラ↓
大食堂
詳細はコチラ↓
小食堂
小食堂は大食堂の奥にあります。
大食堂と繋がってはいますが
多分ここは家族のみで食事を取るときに利用していたのではない気でしょうかね?
ただし今回は小食堂は閉鎖されていました。
ということで一階を一回りしましたよ。
次は前田侯爵御一家の生活を感じさせてくれる二階に移ります。
二階
階段広間
詳細はコチラ↓
書斎及び次の間
詳細はコチラ↓
次女居室
詳細はコチラ↓
婦人室
詳細はコチラ↓
寝室
詳細はコチラ↓
浴室
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三女居室
詳細はコチラ↓
三女居室の前からは格子から階段を眺めることができます。窓からは建物の内側の構造がわかります。煙突がありますね。
展示室
展示室にはこの前田邸ゆかりのものが展示されています。
窓からは和館がみえますね。
展示室の隣に階段がありました。
多分ね 屋根裏部屋に通じる階段だと思いますわ...
女中部屋
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会議室
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会議室は母屋から少し低い位置にあるようで階段で母屋に繋がっています。
従者室
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従者室の隣には一階にいける階段がある。
玄関から直接会議室に直接入れるのはいいですよね。
通路もとてもきれいですね。窓の外も意匠はなかなかです。
どこを見ても豪華ですね。
三男居室(図書室)
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長女居室
詳細はコチラ↓
さぁ一通り洋館は終了しました。
華族の栄華を感じますよね。
すばらしいです。
有名なのは洋館ですよね。
コチラは設計が宮内省内匠寮の高橋貞太郎(たかはし ていたろう、1892年6月26日 - 1970年10月1日)。学士会館、高島屋百貨店東京店、川奈ホテルや帝国ホテル新本館などを設計している
竣工は昭和4年(1929年)
施工は竹中工務店
震災後の建設の為、鉄筋コンクリート造り。
イギリスチューダー洋式で個人邸宅としては東洋一と称された。
チューダー洋式とはイングランドの15世紀から17世紀初頭までの建築様式。
チューダー朝が成立させたばら戦争の終結と共に「チューダーの平和」と呼ばれる戦乱のない時代が訪れ、建物の洋式がゴシックから変化するようになる。宗教改革によって潤沢な資金を得たヘンリー8世とその周辺の人々がこぞってチューダー方式の建物を建てジェントリ層にもてはやされた。
概観
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チューダー洋式の概観はなんとも落ち着いた雰囲気。
東洋一と称されるだけありますね。
シンボルマークともいえる三角屋根が程よい高さでかつまた建物自体を落ち着いた雰囲気にしています。
入り口の車寄せは確りした屋根と装飾が付いておりシックな中でも豪華さをあらわしています。
裏側から見るとこのような形。
各部屋からこの広い庭を望むことができ
更に室内から出れるように階段が設置されています。
逆側は建物自体としては裏側。スタッフオンリー的なエリアです。
しかしその意匠はなかなかなものでなんとも重厚感を感じます。
手抜きがありません。
さぁでは入ってみましょう!
チューダー洋式の概観はなんとも落ち着いた雰囲気。
東洋一と称されるだけありますね。
シンボルマークともいえる三角屋根が程よい高さでかつまた建物自体を落ち着いた雰囲気にしています。
入り口の車寄せは確りした屋根と装飾が付いておりシックな中でも豪華さをあらわしています。
裏側から見るとこのような形。
各部屋からこの広い庭を望むことができ
更に室内から出れるように階段が設置されています。
逆側は建物自体としては裏側。スタッフオンリー的なエリアです。
しかしその意匠はなかなかなものでなんとも重厚感を感じます。
手抜きがありません。
さぁでは入ってみましょう!
一階
エントランス
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入り口は広く取ってあります。
入場料などはありませんので事務所のようなものはありません。
そのままはいりましょう。
車寄せの天井にはなんとも素敵なランプがあります。こういうのを
みるのもなかなか楽しいですね。
僕らは靴を脱いでビニール袋にいれて持ち歩きます。
絨毯がひいてあるので気持ちよく歩けますよ。
どうですか なんともシックで落ち着いた内装じゃないですか!?
概観同様重厚感もあります。
入り口は広く取ってあります。
入場料などはありませんので事務所のようなものはありません。
そのままはいりましょう。
車寄せの天井にはなんとも素敵なランプがあります。こういうのを
みるのもなかなか楽しいですね。
僕らは靴を脱いでビニール袋にいれて持ち歩きます。
絨毯がひいてあるので気持ちよく歩けますよ。
どうですか なんともシックで落ち着いた内装じゃないですか!?
概観同様重厚感もあります。
階段広間
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エントランスの前には階段広間が広がっています。
結構広いですわ...
30畳以上はアリ増すよね。
大理石なども利用されていたり、黒い重みの有る柱などは
威厳を感じさせるのに充分ですね。
もうここだけで前田家がいかに華麗なる
一族だったかを見せ付けるには充分ですね。
階段もまた手抜きがない!意匠もすばらしいですよね。
奥側からエントランス方面を見てみましょう。
イングルヌック
この階段広間に併設されているのが小さな小部屋イングルヌック。
暖炉脇の暖かなスペースとかいう意味だそうで、小さな談話室
のような意味合いがあります。
でも...ここ本当に使われてたのかね~
こういう場所って意外と物置にしかなってなかったりw
貧乏人思考ですか?笑
エントランスの前には階段広間が広がっています。
結構広いですわ...
30畳以上はアリ増すよね。
大理石なども利用されていたり、黒い重みの有る柱などは
威厳を感じさせるのに充分ですね。
もうここだけで前田家がいかに華麗なる
一族だったかを見せ付けるには充分ですね。
階段もまた手抜きがない!意匠もすばらしいですよね。
奥側からエントランス方面を見てみましょう。
イングルヌック
この階段広間に併設されているのが小さな小部屋イングルヌック。
暖炉脇の暖かなスペースとかいう意味だそうで、小さな談話室
のような意味合いがあります。
でも...ここ本当に使われてたのかね~
こういう場所って意外と物置にしかなってなかったりw
貧乏人思考ですか?笑
サロン
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エントランスを入ってすぐ手前の右側の部屋はサロンです。
お客様の待合室ですね。
元々は応接室という意味合いで当然ここではそういう意味で使われています。
そこから派生して社交界を意味したり更には展覧会などの意味もあります。
また人との交流を意味し文化人などの交流の場所という意味合いなどでも
使われています。
元々はサロン・ドゥ・テ(Salon de the:ティールーム)からきているようです。
なかなか広い部屋です。16畳くらいの広さがあります。
窓を大きく取ってあり光が燦燦と差し込んでいますね。
客間としてとてもいいですね。入り口すぐというところにおもてなし感があります。
この場所でウェルカムドリンクを出したりもしたのかもしれませんね。
エントランスを入ってすぐ手前の右側の部屋はサロンです。
お客様の待合室ですね。
元々は応接室という意味合いで当然ここではそういう意味で使われています。
そこから派生して社交界を意味したり更には展覧会などの意味もあります。
また人との交流を意味し文化人などの交流の場所という意味合いなどでも
使われています。
元々はサロン・ドゥ・テ(Salon de the:ティールーム)からきているようです。
なかなか広い部屋です。16畳くらいの広さがあります。
窓を大きく取ってあり光が燦燦と差し込んでいますね。
客間としてとてもいいですね。入り口すぐというところにおもてなし感があります。
この場所でウェルカムドリンクを出したりもしたのかもしれませんね。
第一応接室
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サロンの脇に併設されているのが第一応接室。第一があるなら第二があるのか
というとそうでもなさそうなのですがとにかく第一なのである。
広さはそれはそれほどない。もしかしたら一対一で会うための部屋なのかもしれないね。
サロンの脇に併設されているのが第一応接室。第一があるなら第二があるのか
というとそうでもなさそうなのですがとにかく第一なのである。
広さはそれはそれほどない。もしかしたら一対一で会うための部屋なのかもしれないね。
小客室
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大客室
詳細はコチラ↓
大食堂
詳細はコチラ↓
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大客室から繋がっているのが大食堂。
ほぼ大客室と同じ規模の部屋です。
お客様がすぐいけるよう考えられている配置に
やはり単なる普通の一家というより、もう一種国益にかかわってくる
家系であることがうかがい知れますね。
大客室から繋がっているのが大食堂。
ほぼ大客室と同じ規模の部屋です。
お客様がすぐいけるよう考えられている配置に
やはり単なる普通の一家というより、もう一種国益にかかわってくる
家系であることがうかがい知れますね。
小食堂
小食堂は大食堂の奥にあります。
大食堂と繋がってはいますが
多分ここは家族のみで食事を取るときに利用していたのではない気でしょうかね?
ただし今回は小食堂は閉鎖されていました。
ということで一階を一回りしましたよ。
次は前田侯爵御一家の生活を感じさせてくれる二階に移ります。
二階
階段広間
詳細はコチラ↓
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一階から続く階段。その先にあるのが階段広間です。
プライベートルームに続くエリアですが
まったく手抜きのないつくりです。
お客様に見せるものでもないですが
やはり高貴な方のご自宅。贅を尽くしていますね。
赤い絨毯がまた気品を高めていますね。
さて二階は回廊形式になっています。
ぐるっと一周廻れるんですね。ということで
まずは書斎から左回りに廻っていこうと思います。
一階から続く階段。その先にあるのが階段広間です。
プライベートルームに続くエリアですが
まったく手抜きのないつくりです。
お客様に見せるものでもないですが
やはり高貴な方のご自宅。贅を尽くしていますね。
赤い絨毯がまた気品を高めていますね。
さて二階は回廊形式になっています。
ぐるっと一周廻れるんですね。ということで
まずは書斎から左回りに廻っていこうと思います。
書斎及び次の間
詳細はコチラ↓
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まずは次の間です。
書斎へ続く合間の部屋です。
小さな部屋ですがとてもきれいに設えられている。
その奥には書斎があります。
当然!ご主人である前田利為候が使っていたのでしょうね。
本をじっくり読めそうな空間ですね。
まずは次の間です。
書斎へ続く合間の部屋です。
小さな部屋ですがとてもきれいに設えられている。
その奥には書斎があります。
当然!ご主人である前田利為候が使っていたのでしょうね。
本をじっくり読めそうな空間ですね。
次女居室
詳細はコチラ↓
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次の間の隣に隣接しているのは次女智恵子女史の部屋です。
元々は図書室として準備されていた部屋でしたが
次女の部屋として使われるようになったようですね。
緑を基調にしたとても気持ちのいい部屋ですね。
テラスにも出れるようで小さな部屋ですが女の子には嬉しい部屋ですね。
次の間の隣に隣接しているのは次女智恵子女史の部屋です。
元々は図書室として準備されていた部屋でしたが
次女の部屋として使われるようになったようですね。
緑を基調にしたとても気持ちのいい部屋ですね。
テラスにも出れるようで小さな部屋ですが女の子には嬉しい部屋ですね。
婦人室
詳細はコチラ↓
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利為候の奥様 菊子夫人が利用していた部屋。
この家の中でもとても豪華なつくりの部屋です。
もちろん部屋から直接テラスに出ることができます。
装飾もとてもすばらしく
ご夫人らしくピンク系の壁紙で設えられています。
部屋からは寝室に直接入ることができるようになっており
しかも浴室もその寝室の隣に設置されるなど
ご夫人が色々用を足すのにすごしやすく設計されています。
菊子夫人(1903年(明治36年) - 1986年(昭和63年)10月22日)は姫路藩
藩主酒井宗家当主酒井忠興伯爵の次女。母は三条実美公爵の七女。
旧皇族久邇宮朝融王から婚約を破棄された経歴がある。利為の後妻。
利為候の奥様 菊子夫人が利用していた部屋。
この家の中でもとても豪華なつくりの部屋です。
もちろん部屋から直接テラスに出ることができます。
装飾もとてもすばらしく
ご夫人らしくピンク系の壁紙で設えられています。
部屋からは寝室に直接入ることができるようになっており
しかも浴室もその寝室の隣に設置されるなど
ご夫人が色々用を足すのにすごしやすく設計されています。
菊子夫人(1903年(明治36年) - 1986年(昭和63年)10月22日)は姫路藩
藩主酒井宗家当主酒井忠興伯爵の次女。母は三条実美公爵の七女。
旧皇族久邇宮朝融王から婚約を破棄された経歴がある。利為の後妻。
寝室
詳細はコチラ↓
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前田利為、菊子夫人の寝室です。
奥様の部屋から直接出入りできるようになっています。
奥ゆかしさをかんじますね。
部屋は全体的に金色。落ち着いた感じでいいですよね。
ロンドンの高級家具ハンプトン社の家具を購入。船便で運ばせたようです。
前田利為、菊子夫人の寝室です。
奥様の部屋から直接出入りできるようになっています。
奥ゆかしさをかんじますね。
部屋は全体的に金色。落ち着いた感じでいいですよね。
ロンドンの高級家具ハンプトン社の家具を購入。船便で運ばせたようです。
浴室
詳細はコチラ↓
三女居室
詳細はコチラ↓
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三女彌々子女史の部屋。
元々は奥様である菊子夫人の化粧室だったそうですがそれを三女の部屋に
改修したもの...三つのアーチを持つ窓がまた三女の部屋らしく
設えられたようで美しいですね。
三女は彌々子さん。一番小さいのでもしかしたら母親の部屋のすぐ近く
に部屋を準備したのかもしれませんね。
三女彌々子女史の部屋。
元々は奥様である菊子夫人の化粧室だったそうですがそれを三女の部屋に
改修したもの...三つのアーチを持つ窓がまた三女の部屋らしく
設えられたようで美しいですね。
三女は彌々子さん。一番小さいのでもしかしたら母親の部屋のすぐ近く
に部屋を準備したのかもしれませんね。
三女居室の前からは格子から階段を眺めることができます。窓からは建物の内側の構造がわかります。煙突がありますね。
展示室
展示室にはこの前田邸ゆかりのものが展示されています。
窓からは和館がみえますね。
展示室の隣に階段がありました。
多分ね 屋根裏部屋に通じる階段だと思いますわ...
女中部屋
詳細はコチラ↓
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くるっと奥側に行くと...そこには女中さんの部屋が二部屋あります。
二部屋あるようですね。この洋館唯一の畳部屋。
女中さん達に便利につくられていたようですね。
この女中部屋はなかなか好位置に作られています。
この先にあるのは今回は公開されていない部屋 集会室。
そしてコチラは公開されている会議室があります。
家族の部屋へもアクセスしやすく
会議室での立ち回りもしやすい。しかしちゃんとプライベートを
守れる離れ形式になっている点も
働く側に立った配慮ですね。
くるっと奥側に行くと...そこには女中さんの部屋が二部屋あります。
二部屋あるようですね。この洋館唯一の畳部屋。
女中さん達に便利につくられていたようですね。
この女中部屋はなかなか好位置に作られています。
この先にあるのは今回は公開されていない部屋 集会室。
そしてコチラは公開されている会議室があります。
家族の部屋へもアクセスしやすく
会議室での立ち回りもしやすい。しかしちゃんとプライベートを
守れる離れ形式になっている点も
働く側に立った配慮ですね。
会議室
詳細はコチラ↓
会議室は母屋から少し低い位置にあるようで階段で母屋に繋がっています。
従者室
詳細はコチラ↓
従者室の隣には一階にいける階段がある。
玄関から直接会議室に直接入れるのはいいですよね。
通路もとてもきれいですね。窓の外も意匠はなかなかです。
どこを見ても豪華ですね。
三男居室(図書室)
詳細はコチラ↓
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図書室となっている場所は三男の居室となっていました。
ところが三男利弘氏は大久保家で教育を受けていたようで
自宅には殆どいなかったようですね。そのため部屋はとても小さい部屋です。
なんとなく従者の部屋にも似ているよね。
今は情報コーナーと併設されています。
図書室となっている場所は三男の居室となっていました。
ところが三男利弘氏は大久保家で教育を受けていたようで
自宅には殆どいなかったようですね。そのため部屋はとても小さい部屋です。
なんとなく従者の部屋にも似ているよね。
今は情報コーナーと併設されています。
長女居室
詳細はコチラ↓
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そしてぐるっと一周。最後に残したのが前田家長女美意子女史の部屋です。
広い部屋ですね。長女の部屋として相応しいです。
壁は白。元々は第一客室だったそうです。
長女美意子(さかい みいこ、1926年(大正15年)2月18日 -
1999年(平成11年)10月5日)女史
後に酒井忠元氏に嫁ぐ。酒井忠元は美意子女史の母の甥っ子。
要は従兄妹同士の結婚です。評論家としても活躍していらっしゃいました。
そしてぐるっと一周。最後に残したのが前田家長女美意子女史の部屋です。
広い部屋ですね。長女の部屋として相応しいです。
壁は白。元々は第一客室だったそうです。
長女美意子(さかい みいこ、1926年(大正15年)2月18日 -
1999年(平成11年)10月5日)女史
後に酒井忠元氏に嫁ぐ。酒井忠元は美意子女史の母の甥っ子。
要は従兄妹同士の結婚です。評論家としても活躍していらっしゃいました。
さぁ一通り洋館は終了しました。
華族の栄華を感じますよね。
すばらしいです。
和館
詳細はコチラ↓
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接客用につくられた書院造の日本建築。
珍しいですよね。和館 洋館 併設の場合は多くが和館を自宅用、洋館を接客用とするのが多いんですがここでは逆です。
昭和5年(1930年)竣工。設計は帝室技芸員 佐々木岩次郎。海外からの賓客を接待するために作られたそうです。
書院造といえばその成立は足利義政の銀閣寺で書斎を中心としたつくり。その後武家の邸宅の基本となっており、武家造ともいわれている。
佐々木岩次郎(ささき いわじろう、1853年(嘉永6年) - 1936年(昭和11年)12月29日)
田中平兵衛、木子棟斎に寺社仏閣の建築技術を学ぶ。大正6年(1917年)帝室技芸員となる。京都東本願寺本堂、芝増上寺大殿、嵐山法輪寺多宝塔などを手がけている。
早速いって見ましょう。
門前
詳細はコチラ↓
概観
概観はまさに和館といった感じ
二階建てですね。ですが公開されているのは一部のみです。
ですから結構簡単に見ることができます。
玄関
詳細はコチラ↓
内部
詳細はコチラ↓
日本庭園
詳細はコチラ↓
接客用につくられた書院造の日本建築。
珍しいですよね。和館 洋館 併設の場合は多くが和館を自宅用、洋館を接客用とするのが多いんですがここでは逆です。
昭和5年(1930年)竣工。設計は帝室技芸員 佐々木岩次郎。海外からの賓客を接待するために作られたそうです。
書院造といえばその成立は足利義政の銀閣寺で書斎を中心としたつくり。その後武家の邸宅の基本となっており、武家造ともいわれている。
佐々木岩次郎(ささき いわじろう、1853年(嘉永6年) - 1936年(昭和11年)12月29日)
田中平兵衛、木子棟斎に寺社仏閣の建築技術を学ぶ。大正6年(1917年)帝室技芸員となる。京都東本願寺本堂、芝増上寺大殿、嵐山法輪寺多宝塔などを手がけている。
早速いって見ましょう。
門前
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洋館に並ぶように建つのが和館。
入り口から日本の美が感じられるね。
たて看板があります。
コチラも国指定の重要文化財になっていると記載されています。
中から門を見てみるとそれもまたいいですよね。
洋館と和館は同じ敷地内にあるのですがあえて和館には塀と門を設えています。
全体的敷地から隔離された別空間を演出しているのかも知れませんね。
洋館に並ぶように建つのが和館。
入り口から日本の美が感じられるね。
たて看板があります。
コチラも国指定の重要文化財になっていると記載されています。
中から門を見てみるとそれもまたいいですよね。
洋館と和館は同じ敷地内にあるのですがあえて和館には塀と門を設えています。
全体的敷地から隔離された別空間を演出しているのかも知れませんね。
概観
概観はまさに和館といった感じ
二階建てですね。ですが公開されているのは一部のみです。
ですから結構簡単に見ることができます。
玄関
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和館というのは本当に区別がない。玄関などはわかるがそれ以外はどの部屋がどう使われているのか判り辛いというのがありますね。
逆に言えばそれこそが宇宙といえるかもしれません。
既に入り口から奥まで素通しで庭まで見ることができます。
逆に玄関側から外を眺めるともうそれだけで額縁のような印象。
和館というのは本当に区別がない。玄関などはわかるがそれ以外はどの部屋がどう使われているのか判り辛いというのがありますね。
逆に言えばそれこそが宇宙といえるかもしれません。
既に入り口から奥まで素通しで庭まで見ることができます。
逆に玄関側から外を眺めるともうそれだけで額縁のような印象。
内部
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広い畳敷きの部屋です。
全体的に畳が敷き詰められ日本人には安心なつくり。
襖を開ければ大広間になる和館は色々な用途に利用でき
どの部屋がどの役割をになうかという定義がない。
カオスであるがむしろそれこそが日本の美に繋がっているんだと感じます。
シンプルでアリながらそこに美を凝縮している感じこそが和館のすばらしさ。
元武士の一族らしい部屋のつくりですよね。
光は天井にすえられています。コレは本来日本が貧しかった頃の名残だとも言われていますがこんな名家でもそうだったんですね。
広い畳敷きの部屋です。
全体的に畳が敷き詰められ日本人には安心なつくり。
襖を開ければ大広間になる和館は色々な用途に利用でき
どの部屋がどの役割をになうかという定義がない。
カオスであるがむしろそれこそが日本の美に繋がっているんだと感じます。
シンプルでアリながらそこに美を凝縮している感じこそが和館のすばらしさ。
元武士の一族らしい部屋のつくりですよね。
光は天井にすえられています。コレは本来日本が貧しかった頃の名残だとも言われていますがこんな名家でもそうだったんですね。
日本庭園
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その部屋から外をちょっと眺めるとそこには美しい日本庭園が...
日本庭園は自然を人工的につくりあげるという西洋とは違った思想で発展した庭園。
中国、韓国などでは逆に自然をそのままりようした庭園が造られたりします。
そう考えると日本というのは究極に人工的な自然を作り上げているといえますよね。
秋口の旧前田侯爵邸の日本庭園は日本人の心を安らかにするすばらしいものでした。
その部屋から外をちょっと眺めるとそこには美しい日本庭園が...
日本庭園は自然を人工的につくりあげるという西洋とは違った思想で発展した庭園。
中国、韓国などでは逆に自然をそのままりようした庭園が造られたりします。
そう考えると日本というのは究極に人工的な自然を作り上げているといえますよね。
秋口の旧前田侯爵邸の日本庭園は日本人の心を安らかにするすばらしいものでした。
総評:まぁ当然の如くすばらしいですね。重厚感の有るチューダー調。
デートで利用してもいいかもしれません。歴女ならなおさらいいですよね。
無料ですしお勧めの場所です。
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