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2019年9月19日木曜日

【紅葉 穴場 寺院 秦野 蓑毛】こんなところにすばらしい紅葉が...蓑毛山 寳蓮寺

丹沢の山中に今はうっすら埋もれた古刹がある。
この間たまたまドライブした先にあった
寺が凄かった!

もう燃えるような紅葉!
ソウルの紅葉のような大規模なものではなかったですが
こじんまりとしたその紅葉のすばらしさは凄い!

ということでちょっとドライブでたちよりたい。

今回は
秦野

蓑毛山 宝蓮寺
です。






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蓑毛山 寳蓮寺

いやー こんなにすばらしいところがこんなところにあったなんて思いませんでした。
しかも結構歴史有るお寺のようで驚きです。

場所は国道246名古木交差点を丹沢方面に曲がりそのままずーーーっと登って行きます。
蓑毛のバス停のすぐ近くです。


駐車場は無料のものがあります。参拝の方は利用できるようなので使わせてもらいましょう。

この蓑毛山 寳蓮寺、県道70号線(秦野清川線、通称ヤビツ街道)を挟んで二つのブロックに分かれています。一つは歴史ある大日堂などのある北側。もう一つは現在の主な祭事を行っている南側です。
歴史を楽しむなら北側、紅葉を楽しむなら南側です。

まずは歴史から...

歴史

大日堂を中心に時代ごとに次々と建物が建立されここの伽藍が形成されたようです。
異色の御嶽神社は先にあったのか不明ですが多分大日堂が先だと思われます。
とにかく歴史は古く聖武天皇が大仏を建てる際に勅願所(ちょくがんしょ)として742年に行基によって創建されたとのことです。742年!?1200年以上も前!? 凄いよね。当時は大伽藍を形成していたということですがこの山中にそんな大昔、そんな技術があったのでしょうかね?
発掘調査などはされていないようですからどこまで事実かは不明ですが当時国分寺の大伽藍が海老名にできていたわけですからそれよりも都に近く、矢倉沢往還の街道近くのこの地にはそれなりのお寺があってもおかしくはありませんね。

勅願所とは天皇の命令で鎮護国家・玉体安穏を祈祷するために建てられた寺院。

しかし...行基(天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日))...
このブログでも何度も登場していますね。
座間の星ヶ谷観音(桜田伝説ブログ)金目観音の際にも出てきました。
行基は相模の古い時代に足跡を残した偉大な人物なのですね。
しかしちょっと気になるところが...
行基は関西地方を主に布教活動の場としており
関東に来た明確な証拠が見つからない。もしかしたら行基も弘法大師と同様に
行基自体があちこち行脚したわけではなく行基の弟子が布教を行う中で各寺院を建立していき、それが何時しか行基が建立したと摩り替わって言ったのかも知れないと感じます。何せ行基起因の寺社仏閣は全国に600もあるといわれています。彼は長命で81年生きましたが仮に行基が行脚できたとして50年とすると一年で12もの寺院を創始しないといけないことになり、移動するだけでなくその場で寺院創建なんてそりゃいくら超人だったとしても無理やろ...と思われるわけで...。ということで相模の各寺院に言われている伝承の行基は多分行基の弟子という意味合いが強いと考えられます。



仁王門


立派な仁王門がありますね。
トタン屋根ですが大棟に掲げられている御紋は三つ葉葵。
徳川家の威光が垣間見れますね。


金剛力士像が確りあります。
梵字ではवज्रपाणिबलिन् 「ヴァジュラダラ」というそうで天部の神様。仏教の守護神です。


左側、口をつぐんでいるのが吽形(うんぎょう)
右側、口をあけているのが阿形(あぎょう)
なかなか個性的な顔立ちしてますね。
コチラは秦野市の重要文化財となっています。

3mはあるでしょうかね?立派です。

大日堂

仁王門を通り過ぎるとその先には
大日堂というにはずいぶんこじんまりとしたお堂があります。


この大日堂 江戸時代に建て替えられたそうです。
御紋が三つ葉葵なので多分徳川家の寄進があったと思われますね。
確かこのあたりは天領のはずですから
そのようなお金の流れがあったのかも知れません。
ともったら後ほど記載しますがこの地域は実は揖斐氏の領地だったそうです。
その揖斐氏は徳川家とのご恩が強い武将。もしかしたらその影響もあるのかもしれません。それにこの地域は寺領ともなっていますので徳川からの領地寄進などもあったかものとおもわれますね。


こじんまりとはしていますが
なかなかきれいな建物ですよね。
シンメトリーに立てられて屋根の高さも仰々しくなくてきれいです。
宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根。


この大日堂には木造の五智如来坐像があるようで
五智如来が揃っているのはなかなか珍しいようです。
これらは市の重要文化財となっています。


閉められた扉の隙間から中を覗いてみました。


おーーーっ 大日如来像しか見えませんが...
大日如来像だけが神々しく輝いています。


なんとも静かに全てを見据えているような
そんな感じの姿ですね~


さてこの大日如来。結構頻繁にご開帳しています。
わざわざ覗くようなマネせずともそのご尊顔を拝謁できるわけです。



不動堂


不動堂は七世紀ごろに建立されたようです。建物内には不動明王。
護摩炊き要の堀がありますね。
コチラは建物内が明るくてお不動さんがよく見えます。
朝鮮系渡来人秦氏が守り本尊として不動明王を祀ったのが始まりとのことですが
秦氏は中国系との話もありますね。例の徐福伝説ですね。
秦野の字は秦氏から来ているともいわれています。秦氏は現在も小田原東北部から松田、秦野周辺に点在しています。


釈義楚の義楚六帖によれば始皇帝の命により徐福一行が不老不死の妙薬を探して行き着いた場所が不死山(富士山)周辺の地域。その地に定着したとの記載があり、この秦野はその徐福一向が行き着き、その名を秦と改めて定着したという伝説もあります。しかし、始皇帝が健在していたころはまだ仏教は中国に渡っておらず、密教における大日如来の化身であるお不動様をその徐福一行が知っているわけがありません。というか始皇帝は仏教を伝えられた際にそれに不信感を抱き、耳を貸さなかったとも言われています。
中国に仏教が根付いたのは漢の時代だったわけですからまだ早すぎたのかもしれませんね。
と考えるとやはり秦氏は朝鮮系渡来人なのかもしれませんし、徐福一向はその後も大陸と交易を結んでいたといいますから日本定着後に大陸からお不動様を仕入れた可能性もあります。

徐福と秦野の面白い記述がこちらにあります。ご覧ください。

そこにはインドから秦に仏教を伝えた一行は始皇帝に処刑されそうになったのを徐福が助けてその一部が日本に渡ったとのこと...それが秦氏に受け継がれたとされているのも面白い。
以前三嶋大社の回で三宅記について記載した。
三嶋の神は考安天皇元年に天竺から訪れた王子だったという記載がその三宅記にあると述べた。
考安天皇元年というと紀元前393年。秦の始皇帝は紀元前259年2月18日から紀元前210年まで生きていた。隔たりはずいぶんあるが太古の昔のことだからそのくらいのずれはあって然るべきだとも感じる。もしかして徐福一向についてきたインドからの仏教伝教師かもしれないと思うと...夢が広がるね~。

しかしこの文章の中に金印なるものが山中湖近くの畑から発見(1923年)されたとあるけど
実物も見たことないし、そんなに話題になったかな~
もし本物なら国宝級だよね。それがその後何も音沙汰もないとなると
なんとなく眉唾っぽい感じもしなくもない。
なんとなくオーパーツ的な響きも感じなくもないよねw

とネットで調べてみるとその金印なるものの情報が...
金色に見えていたが実は石だったとか...
むしろ真実味あるよね。


茶湯殿

たて看板によると


正長元年(1248年)一輪和尚によって建立されたとのこと
死後冥界で飢えと渇きに苦しむ亡者を救い、成仏への力を与える茶湯供養の寺だそうです。江戸時代作の地蔵菩薩、十王像など地蔵十王経にのっとった冥界の一具が全て揃っているそうでそれらは秦野市の重要文化財となっています。

茶湯供養とは茶湯を仏前に供えて供養することだそうです。


閻魔様もいらっしゃいます。


1248年といえば鎌倉時代。だけどあれ?正長(しょうちょう)元年は1428年のはずだよ?
1248年?1428年?2と4が逆?? 間違えたな~w
ということで正長元年(1428年)に建立されたのでしょう。1428年といえば室町時代。一般的には戦国期前ですが関東では既に戦国時代に突入しつつある時期です。
この正長の次が永享ですので永享の乱が始まった時期ですよね。
永享の乱といえばこのブログではずいぶん紹介しています。
足利義持が死亡し、くじ引き将軍といわれた足利義教が将軍となった年です。

ということはこの一輪和尚は室町時代中期の人物ってことですね。

木食光西上人入寂地

木食光西上人入寂地
木食光西上人はこの大日堂の伽藍を再整備した人物
享保年間(1716年~1735年)に西日本で起きた飢饉により日本全体が危機に瀕した際、江戸麻布出身で地蔵堂の庵主であった木食光西上人は当時の宝蓮寺住職の大蟲和尚の協力のもと仏教による庶民救済に乗り出す。
南関東から東東海中心に行脚し浄財を集め大日堂を整備。享保二十年(1735年)に事業の仕上げとしてこの地で入寂。即身仏となったとたて看板にはありました。
光西上人の遺言により二百年後の1935年に発掘が行われ袈裟姿で銅製の観音像を抱えた白骨化した遺骨が発見されたそうです。遺骨は同地に再度埋葬されたとのことで現在もここに眠っておられます。



享保の飢饉というのはいわゆる享保大飢饉で享保16年(1731年)に起きた飢饉で冷夏と害虫により瀬戸内海沿岸を中心に凶作が発生。被害は西日本を中心に46藩に及び、総石高236万石だったにもかかわらず実質石高が63万石と通常の3割に届かない事態となったそうです。徳川実記に寄れば餓死者は100万人近くにも及んだとのことですが実際は12000人程度のようです。そのため米の価格が高騰。江戸市民が暴動を起こし享保打ちこわしなどが発生しました。

ここでも面白いのが瀬戸内海にあった大三島。そこだけは下見吉十郎がもたらしたサツマイモによって餓死者をだすことがなかったばかりか余分の米を伊予松山藩に献上するほどだったとのことです。その後時の将軍徳川吉宗は米だけに頼らず、穀物栽培を奨励するようになったとのことでした。

面白いですね。やはり以前にも書いたと思いますが江戸時代というと飢饉などに何度かみまわれましたがそのたびにこのようにスピリチュアル系に救いを求めるものと、理路整然と有用なものに投資する者と別れてくるということ。

享保の大飢饉(1731年)の下見吉十郎とこの秦野の光西上人。
天明の大飢饉(1783年)の中井清太夫と渋川村上之郷の生贄。
天保の大飢饉(1883年)の二宮尊徳と唯念上人。

この秦野という地はこの時点ではまだオカルトな影響が強かったのですね。
民衆は政情が安定した江戸時代に徐々にスピリチュアルなものから現実的なものの考え方に進化していった過程が垣間見えます。

そういえば人柱のお松の回
文治政治が取られ始めた江戸初期寛文二年(1662)の海老名上今泉の話を書きました。
既に為政者であるところの久世大和守広之は相模川の灌漑に勤めるのですが
それに対して庶民である上今泉の住民からは美しい少女、お松を人柱に差し出すという
オカルト染みた行動が成されています。
まさに日本は徐々にオカルト世界からリアルへの移行しつつあったのだと感じますね。

戦国時代は為政者たちがオカルトの世界から脱却し、リアルな世界へと移行していきました。対して江戸時代は庶民が徐々にオカルトの世界からリアルな世界へと脱却していった時代なのかも知れませんね。


此のブログでは享保年間というと
泣きが原の地蔵 や 平塚お菊塚 の話しなどがでています。


御嶽神社

さて
長い階段の上にあるのは...


御嶽神社


御祭神は
倭健命   ( やまとたけるのみこと )
大日孁命   ( おおひるめのみこと )
宇迦之御魂命   ( うかのみたまのみこと )
天児屋根命   ( あめのこやねのみこと )

元来御嶽神社は日本独自の仏教神、修験道の本尊である蔵王権現(金剛蔵王権現)を祀った神社。明治期の神仏分離により御嶽神社、金峰神社、蔵王神社などに分離したとされている。蔵王権現は大己貴命、少彦名命、国常立尊、大己貴命、少彦名命、安閑天皇、金山毘古命と同一視されておりそれらの神を祀る神社としていることが多い。

長野の御嶽山の御嶽神社では国常立尊、大己貴命、少彦名命を主祭神としている。
新道十三派のひとつである御嶽教では同神を主祭神としている。

ここの主祭神は倭健命 、大日孁命、宇迦之御魂命、天児屋根命である。
ちょっと珍しい。
倭健命は言わずもがなですが関東に彼は遠征にきていますし、足柄をはじめ相模では各所に彼の功績がたたられているのでこのあたりに祭られていてもおかしくはありませんよね。

大日孁命は天照大神であるという話しもあるがスサノオが馬の皮をはぎ天照大神の宮殿に投げ入れた際に梭(ひ)で自らの女陰(ほと)を衝いて死んだ機織姫がいたそうだがその機織姫が大日孁命だったとも言われている。
どちらにしても女神だったようだね。

宇迦之御魂命は穀物を象徴する女神。古事記においてはスサノオの娘とされているが日本書紀ではイザナギ、イザナミが飢えたときに生じた神とされている。

天児屋根命は天照大神が天岩戸にお隠れになった際、細女命(アメノウズメ)の踊りの狂乱に顔を出した天照に鏡を差し出した神だそうです。天孫降臨の際にはニニギノ命に随伴し中臣氏の祖先となった神だそうです。



なかなか珍しい神様を合祀している神社ですが箱は御嶽神社ということになります。
名称が同じでも祀っている神はそれぞれちがうものなのですね。

その他

五輪塔かな?


なかなか趣がありますよね。



紅葉

臨済宗建長寺派 蓑毛山 寳蓮寺

元々は薬音寺という寺で鎌倉後期正応2年(1288年)にに高峰顕日(こうほうけんにち-後嵯峨天皇の皇子)が近隣の寺院を統合し創立しました。開山した頃は市が立つほどの賑わいを示しており大日堂を管理していました。南北朝時期には臨済宗の禅僧で近隣中井町出身の抜隊得勝(ばっすいとくしょう、1327~1387年 臨済宗向嶽寺派の祖)が道場を設け、全国から300人もの修行者が訪れたそうです。しかしその後衰退し、無住職時代が続きましたが弟12代住職一輪満和尚が再興しています。江戸期にはいり、寛文9年(1669年)領主の揖斐(いび)氏が亡き令室の法名 迎接院宝蓮信女の菩提を願い薬音寺を再興し宝蓮寺と改めたそうです。宝蓮寺には寛政2年(1790年)に描かれた境内絵図が残されており当時の全景を知ることができるそうです。

さてではその揖斐氏とは何者か...
揖斐政景(いび まさかげ) 安土桃山から江戸時代初期の武将。
父政雄は織田信雄の家臣。堀尾吉晴(ほりおよしはる 豊臣政権三中老の一人)の元に居た彼は慶長7年(1602年)父と縁のあった徳川家康に小牧長久手の戦いで召され、下総海上群に500石を与えられ秀忠付きとなる。大阪の陣では伏見城番を勤め戦後は下総香取郡、武蔵橘樹群内に200石、元和7年(1621年)小田原町奉行、代官を兼任、相模大住群に200石を加増される。寛永9(1632年)年稲葉正勝が小田原に入城するまで代官職を務める。寛永11年(1634年)からは駿府の町奉行を務めた。とのことだそうです。
彼の墓所が宝蓮寺にはあります。

大住群の200石ですが
何もこの蓑毛の地域だけではありません。
現在の平塚に相給地(一つの村を複数の為政者が当地すること)があったようでその北金目に揖斐氏の名が記載されています。揖斐領 125石とあるのでもしかしたら北金目が相模では揖斐氏の中心地ということになるかもしれません。しかしあくまでも相給なのでもしかしたら蓑毛は纏まった土地を任されていたのかもしれませんね。

揖斐氏というと岐阜県に揖斐城なる城があります。康永2年(1343年)築城。
コチラはもともとが揖斐氏の城で200年統治したようです。
しかし天分16年(1547年)斉藤道三により落城させられ、その後は揖斐氏の家臣だった堀尾氏が城主となっていたようです。揖斐政景はその堀尾氏に身を寄せていたわけです。


揖斐政景は内藤正成の娘を娶っており、もしかしたら宝蓮信女は内藤正成(1528年~1602年 強弓の武将。徳川家家臣)の娘ということでしょうか?

さぁ基本タームはおさえましたね。ではいよいよ紅葉を楽しみますよ!

駐車場から本堂に向かうまでの間にも既に紅葉は楽しめます。
日にちは昨年の12月04日でした。


ちょっと人工的なのが残念ですけどね。それでも川の流れとかと紅葉があいまって
きれいですよね~。参道の入り口からもう美しい紅葉に包まれていきます。


美しいわ...


とにかくため息が出るほどの美しさとコントラスト。
しかもこじんまりとしている感じがまたすばらしい。
ここね秦野の紅葉の最高傑作だと感じるんですわ...

ということで一つ一つ写真を紹介していたらきりがないので
ぱっとお見せしますね。








ねっ すばらしくね?
凄いよね。

とにかく紅葉の美しさに本当目を奪われるというか...
すばらしいよね。


もうここはあまり言葉は要らない感じでただただたたずんでいるだけで良い...

ということで紅葉の秦野蓑毛
宝蓮寺を楽しみました。
いかがでしたか??

燃えるような紅葉に感動をし、深い歴史に感慨する。
是非皆様も訪れてみてください。


総評:とにかくすばらしい。この紅葉がタダで拝める。しかも古刹。こんな条件の良い場所はそうそうありません。秋、紅葉の超穴場!
ソウルの紅葉は本当に大規模で凄い!とかんじますがこの秦野に人知れずあるこの紅葉もソウルの紅葉に引けをとらないすばらしさです。繊細さと美しさの計算が充分できており小さいながらも全てを満足できるように配置されているのがわかります。そんな古刹がこんな神奈川の片田舎の更に奥にひっそりと人知れずあるのがまたすばらしいですよ!まさに紅葉の穴場!
韓国ソウルの紅葉は大規模で凄まじい。言葉を変えて伝えるならまるで戦争のような紅葉ですがここ蓑毛の紅葉は静かに佇む紅葉といっていいでしょう。
BAKAKEMU紅葉シュラン 星三つです!









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